【岐阜県】飛騨高山城の歴史 飛騨高山藩の藩庁として機能…金森氏による飛騨統治は約100年!

 豊臣秀吉の時代から江戸時代にかけて飛騨を統治していた金森氏が拠点にしていたのが、岐阜県高山市に築かれていた「高山城」です。安土城の影響を受けた御殿風の城郭で2層3階の天守を備えていました。

 今回はおよそ100年間続いたこの高山城の歴史についてお伝えしていきます。

金森氏が統治するまでの高山城の経緯

 高山市東に位置する城山(臥牛山または巴山)に築かれた城郭が高山城ですが、その前身は文安年間(1444~1448)にさかのぼります。

 飛騨守護の京極氏に仕えていた守護代の多賀出雲守徳言によって城館が築かれました。それを城郭にしたのが高山外記で、近江の多賀天神を祀ったため、多賀山城または天神山城とも呼ばれていました。諸説ありますが、この時期に地域は高山という名称になったようです。ですからここから高山城という名称だった可能性もあります。

飛騨高山城(天神山城)の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

 なお、岐阜県には高山城が2つあり、土岐氏の一族である高山伊賀守秀頼が承久の乱の頃(1221年)に築城した高山城は土岐市にあり、土岐高山城と呼ばれ、飛騨高山城とはまったく別物です。こちらは高山氏の後に武田氏に味方した平井氏、さらに岩村城城主である田丸直昌の支城となった後、元和元年(1615)に廃城となっています。

 同じように高山氏によって統治された歴史がありますので、混同に注意してください。

 飛騨高山城の祖である高山外記については不明な点が多いのですが、永禄元年(1558)に桜洞城城主である三木自綱(姉小路頼綱)と高堂城城主の広瀬山城守の連合軍に敗れて滅ぼされたとされています。自綱は高山城前の松倉に本城を築き、高山城には一族の三木久綱が入りました。

 三木氏は織田信長と縁戚関係を結び勢力を拡大しましたが、本能寺の変の後は秀吉と対立し、天正13年(1585)に越前大野城主であった金森長近が三木氏を攻めて飛騨を制圧しました。

金森氏による飛騨統治

 三木氏が味方としていた柴田勝家は賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れた後に滅び、期待していた佐々成政からの援軍もなく自綱はあっけなく秀吉勢に降伏しました。その功績により長近が天正14年(1586)、飛騨3万3000石を賜っています。

 長近は飛騨統治について、もともと鍋山城を拠点に考えていましたが、飛騨の中央にあり四方の街道が交わる高山城跡の盆地を重要視し、天正16年(1588)より高山城の改修・造営工事を開始しました。この新しい高山城については、完成までにおよそ16年もかけられています。

 高山城の本丸と二の丸が完成したのは慶長5年(1600)のことで、三の丸の完成は慶長8年(1603)になります。長近は関ヶ原の戦いで東軍に与して加増され、飛騨高山藩の初代藩主となりました。慶長10年(1605)には80歳で家督を養嗣子の金森可重に譲っていますが、この可重が三の丸を完成させたと伝わっていますので、家督を譲る以前から高山城城主は可重に移っていたのかもしれません。

 飛騨高山城の特徴としては、軍事的機能性よりも、安土城の影響を受けて御殿風の城郭形式で、2層3階の天守を備えていました。

 『飛騨鑑』、『斐太後風土記』、『飛州記』によると、各曲輪の広さは本丸が東西57間、南北30間、二の丸が東西97間、南北84間、三の丸が東西120間、南北93間あったことがわかっています。当時の絵図が金沢市立図書館にあり、屋形や櫓、曲輪や門についての詳細が見て取れます。

 金森氏は城下町も整備して、高山城の北に位置する空町とその東西に武家地と町人地が明確に区切ってあります。さらに高山城は京都の影響を受けて東山に多数の寺院を建設しています。この社寺地には天正14年(1586)に大雄寺が初めに建立され、金森氏と由緒のある天照寺、雲龍寺、素玄寺、宗猷寺、法華寺、大隆寺、またこれらの寺院とは別のお城と向かい合った場所に照蓮寺が建てられています。

 こうして高山城を中心にして金森氏の飛騨統治は、6代に渡って続いていくのです。

高山城の廃城

 高山藩5代目藩主である金森頼業が20代の若さで死去したことから、嫡男である金森頼旹は4歳で家督を継ぎ、やがて5代将軍徳川綱吉の側用人まで勤めましたが、失脚し、元禄5年(1692)に出羽上山に移封となっています。これには幕府が飛騨の林業や鉱山の直接支配を目論んだためという説があります。

 高山城は加賀藩藩主の前田綱紀の預かりとなった後、元禄8年(1695)に天領(幕府の直轄地)となり、高山城は廃城。こうしておよそ100年に渡り、飛騨統治を支えてきた高山城は姿を消しました。

 その後、高山城跡は2万㎡の城山公園となり、大正8年(1919)に内務省の史跡に指定され、昭和31年(1956)には岐阜県の史跡に指定。また、この城山公園一帯は鳥獣保護区特別保護地区でもあり、高山市の天然記念物にも指定されています。二の丸のあった場所は二の丸公園となり、昭和35年(1960)には照蓮寺が移築されました。三の丸には飛騨護国神社が建立され、以前にあった御蔵は高山陣屋へ移築されています。

 昭和60年(1985)から2年に渡り、本丸周辺の発掘調査が行われており、そこからは本丸屋形礎石の他、玄関や本丸南側石積根石が発掘されました。現在は天守閣跡、二の丸石垣、三の丸堀、曲輪、土塁などの遺構が残されています。なお、岐阜県重要文化財に指定されている高山市の法華寺本堂は高山城の一郭を移築したものと伝わっています。

おわりに

 高山氏による統治期間がわずかだったことを考えると、高山城ではなく金森城でよかったのではないかとも思えますが、なぜ高山城という名称が使われたのかは不明です。

 飛騨の戦国時代の歴史を感じるだけではなく、多種多様な野鳥や植物と触れ合える憩いの場でもある高山城跡。実際に江戸時代に廃城となった後は、町民が花見などに利用するなど公共の場としても活躍し続けてきました。昭和56年(1981)にはササの新品種となる「ヒダノミヤマクサ」も発見されています。

 飛騨の自然に触れながら、金森氏が当時どのような志でこの地を統治していたのか、思いをはせてみるのもいいのではないでしょうか。

補足:高山城の略年表

出来事
文安年間
(1444~1448)
多賀出雲守徳言が城館を築く
永正年間
(1504~1521)
高山外記が城館跡に高山城を築城する
永禄元年
(1558)
三木自綱が高山城を落とす
天正13年
(1585)
金森長近が飛騨に攻め込み三木氏を倒す
天正14年
(1586)
長近が飛騨3万3000石を領有する
天正16年
(1588)
長近は、高山城を改修・造営し居城とする(飛騨高山城誕生)
慶長5年
(1600)
この頃までに本丸・二の丸を完成
慶長8年
(1603)
金森可重により三の丸も完成
元禄5年
(1692)
藩主金森頼時が出羽上山藩へ移封。高山城は加賀藩の預かりとなる
元禄8年
(1695)
天領となり、高山城は廃城
大正8年
(1919)
高山城跡が内務省の史跡指定を受ける
昭和31年
(1956)
岐阜県の史跡に指定される。鳥獣保護区特別保護区として高山市の天然記念物に指定される
昭和35年
(1960)
二の丸公園に照蓮寺が移築される
昭和56年
(1981)
ササの新種である「ヒダノミヤマクサ」が発見される
昭和60年
(1985)
2年間に渡り本丸周辺の発掘調査実施。本丸屋形礎石、玄関。本丸南側積根石が発掘される


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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