【愛知県】足助城(真弓山城)の歴史 15世紀以降に鈴木氏が築城?今の城址は戦国期の建造物を忠実に再現!
- 2023/02/03
西三河(愛知県のほぼ中央の地域)の美しい渓谷として知られる香嵐渓のすぐ近くに、足助(あすけ)城という山城があります。別名を真弓山城や松山城とも呼びますが、ここは全国でも珍しい戦国時代の建造物が再現された城で、歴史ファンのみならず多くの観光客も訪れるそうです。
かつて足助城は徳川と武田の争奪戦の舞台となり、幾度も落城を繰り返してきました。今回はそんな足助城の歴史をひも解いてみたいと思います。
かつて足助城は徳川と武田の争奪戦の舞台となり、幾度も落城を繰り返してきました。今回はそんな足助城の歴史をひも解いてみたいと思います。
西三河の山間部を領した鈴木氏によって築かれる
平安時代後期、尾張源氏の流れを汲む山田重長が、三河国賀茂郡足助荘の荘司として移り住み、当地で「足助」を称したとされています。重長は黍生(きびゅう)城を築いて本拠とし、足助氏の始祖となりました。平家との戦いで重長は討ち死にするものの、2代・重秀が跡を継ぎ、飯盛山城を築いて本拠を移したといいます。重秀から8代・重政に至るまで、勢力を拡大した足助氏は、盆地を囲む山々に多くの城を築きました。これが「足助七屋敷」と呼ばれる城塞群で、飯盛山城と黍生城のほかに、足助城・城山城・大観音城・白木ヶ峰城・成瀬城などが知られています。ただし平成2年(1990)に足助城を発掘調査した際、15世紀以前の遺構や遺物が確認できなかったことから、足助氏による築城ではなかった可能性も指摘されるところです。
さて、150年にわたって威勢を保ってきた足助氏ですが、鎌倉時代末期の動乱の中で衰退していきました。後醍醐天皇の元へ馳せ参じた7代・足助重範は幕府軍の追討を受けて処刑され、その跡を継いだ8代・重政もまた南朝に味方し、のちに宗良親王(むねよししんのう)とともに東国へ去っています。足助一族は離散する結果となり、代わって勢力を伸ばしてきたのが三河鈴木氏でした。
足助一帯を掌握した鈴木氏は足助城を本拠と定め、新たに田代城・八桑城・御蔵城・安代城・大沼城・浅谷城を築いて守りを固めたといいます。こちらの方は「足助七城」と呼ばれていますね。
★足助城の位置
松平氏と敵対する鈴木氏
戦国時代になると、三河で勢力を伸ばしてきた松平氏との確執の時代へ突入します。『三州八代記古伝集』によると、岡崎城を本拠とする松平清康は、大永5年(1525)に賀茂郡へ侵攻。2000余の軍勢で足助へ攻め寄せました。時の当主・鈴木重政は抗しきれずに降伏し、嫡男・重直の妻に清康の妹・久を迎えることで和睦しています。しかし三河を統一した清康が「森山(守山)崩れ」によって殺害されると、好機と見た鈴木重直は松平氏から離反。嫁いでいた久も岡崎へ送り返されたといいます。ちなみに久は竹千代(のちの徳川家康)の養育を任され、人質として駿府へ送られるまで共に暮らしたそうです。
天文18年(1549)、清康の跡を継いだ松平広忠が没すると、国主不在となった三河は今川氏の属国同然となりました。いっぽう鈴木氏は織田氏や今川氏といった大勢力に囲まれつつ、半独立状態を保っていたようです。
しかし、三河平定を目指す今川氏は足助にも軍勢を差し向けてきました。『東照軍鑑』によれば天文21年(1552)のこと、岡崎城にいる今川在番衆の指示で、松平勢2500余が足助城を攻めています。この時に城は落ちず、翌年には逆襲に転じた鈴木勢が岡崎方面へ出陣し、麦を薙いだという記録が残っています。
天文23年(1554)になると、足助攻略に本腰を入れた今川氏は、岡崎城在番の馬場幸家と堀越義久を差し向けて足助へ侵攻。さしもの重直も降伏を余儀なくされました。
永禄3年(1560)、今川義元が桶狭間で敗死すると、今川氏の支配から独立を目指す徳川家康が、いよいよ三河統一に乗り出します。いったんは重直も本領を安堵されるものの、すぐさま徳川氏から離反しています。
永禄4年(1561)、家康は3000余を率いて足助城へ押し寄せ、各地に放火するという示威行動を取りました。そして永禄7年(1564)になると、家康は満を持して大軍を繰り出して足助城を攻撃。さしもの重直も抗しきれず、嫡男・信重を人質に差し出して降伏しました。
これ以降、鈴木氏は家康に臣従し、西三河の旗頭である石川数正の与力となっています。
武田氏の侵攻によって幾度も落城する
元亀2年(1571)、遠江の攻略を目指す武田信玄が遠江へ侵攻してきます。堅城で名高い高天神城を攻略できずに引き上げると、翌月になって信濃から三河へ進軍し、一気に足助城を含む諸城を攻め落としました。さらに野田城を落として吉田城へ迫ったといいます。足助は武田氏の支配下となり、城には武田重臣の下条信氏(しもじょう のぶうじ)が入りました。★足助城と他の城の位置関係を再確認しよう↑(ページ内ジャンプ)
元亀4年(1573)年、西上作戦の途上にあった信玄が没すると、ここから徳川氏の巻き返しが始まります。初陣を迎えた家康の嫡男・松平信康が、足助城や武節城を攻めて武田勢を追い払い、鈴木氏は再び城主に返り咲きました。この時の当主は鈴木信重に代替わりしています。
しかし安心もつかの間、天正3年(1575)3月になると、武田勝頼が軍勢を催して三河侵攻の構えを見せてきました。亡き父・信玄の三回忌法要のため、出陣を先送りしていた勝頼は、まず先遣隊を足助口へ繰り出してきます。やがて勝頼が甲府を発つ頃には足助城が包囲され、やむなく鈴木信重は降伏を余儀なくされています。また、周辺の大沼城や田代城などの諸城もことごとく陥落し、勝頼は軍勢をそのまま奥三河へ進めていきました。
勝頼が信濃から三河へ軍を進めた理由として、岡崎城を攻略する意図があったとされています。実は同年4月、松平信康の家臣で岡崎町奉行を務める大賀弥四郎が武田氏に内通し、武田軍を足助から岡崎へ引き入れようと企てていました。しかし密告があったことから発覚し、岡崎城が武田の手に落ちる危機は間一髪で食い止められていたのです。
事実を知った勝頼は岡崎侵攻をあきらめ、目標を東三河攻略に転じました。野田城を陥れて吉田城へ迫る武田軍ですが、『当代記』によれば、その途中で戸田康長が籠もる二連木城を攻めたことで、家康本隊の吉田城への入城を許してしまいます。勝頼は家康を誘き出そうと動きますが、どうしてもうまくいかず、ついに吉田城の攻略をあきらめました。そして再び目標を奥三河へ転じて、今度は長篠城の攻略を目指すのです。
その後、長篠の戦いで武田軍が惨敗を喫するのは周知の通りですが、さっそく家康は三河一帯の残敵掃討に乗り出し、程なくして足助城を奪回しています。
『甲陽軍鑑』によれば、作手城の城番だった武田家臣・小幡又兵衛は長篠での敗戦を知ると足助城へ逃亡し、さらに徳川軍の接近とともに、城を捨てて逃げたそうです。
ちなみに足助城の発掘調査では焼土層が見つからなかったことから、落城に伴う火災はなかったものとされています。
現代によみがえった足助城
徳川氏によって回復されたのち、足助城が戦乱に巻き込まれることはありませんでした。そして天正18年(1590)、鈴木康重の時に徳川氏の関東移封に伴って廃城となっています。康重も関東へ移りますが、程なくして主家を離れて牢人となりました。待遇に不満を持ったともされ、その詳細はわかっていません。さて、廃城となってから400年後、地元では「足助に城を復活させたい」という機運が高まります。そして平成元年(1989)、愛知県が打ち出した「愛知のふるさと事業」の構想がきっかけとなり、足助城を城跡公園として整備することが決定されたのです。
とはいえ当初は足助城ではなく、飯盛山城に城を復元する計画でした。しかし飯盛山城は県史跡に指定されていることから現状変更の許可申請が難しく、その他の理由も重なって、足助城に決定したといいます。
ただし城主だった鈴木氏が牢人だったこともあり、当時の城の様子を記した絵図や史料などは残っていません。そこで事前に発掘調査を行い、礎石や掘立穴が検出された場合は、忠実に建造物を再現することが決められました。
発掘調査の結果、建物跡が13棟も見つかり、本丸に高櫓と長屋、南物見台に矢倉が復元され、二つの曲輪を結ぶ橋が架けられました。さらに西物見台には矢倉と塀が造られ、南の丸に厨が復元されています。また登山道は戦国時代の道を再現したといいますから、往時の様子を知るにはうってつけの城でしょう。
おわりに
静岡県の高根城や長野県の荒砥城など、当時の様子を再現した戦国山城は多いのですが、足助城ほど詳細かつ綿密に復元された城はありません。「城を復活させたい」という地元の熱意が伝わってくるようですね。戦国の戦いを経て、幾度も落城の悲運に見舞われた足助城ですが、今や歴史ファンだけでなく、多くの人々が訪れる観光スポットとなっています。タイムスリップしたような感覚で戦国山城を体感できる。そんな大きな魅力を持っているのが足助城なのです。
補足:足助城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
12世紀中頃 | 山田重長が足助荘の荘司となり、足助を称する。黍生城を築いて本拠とする。 |
治承年間 | 足助重秀が飯盛山城を築き、本拠を移す。 |
鎌倉時代 | 飯盛山城を中心に足助七屋敷が築かれる。 |
元弘元年 (1331) | 笠置城が落城。足助重範が捕らえられ、六条河原で斬首される。 |
暦応3年 (1340) | 重範の子・重政が宗良親王とともに越後へ去る。 |
大永5年 (1525) | 岡崎の松平清康が2000余騎で足助へ攻め寄せ、鈴木重政が和睦を受け入れる。 |
天文4年 (1535) | 森山崩れで松平清康が没し、鈴木氏が離反する。 |
天文21年 (1552) | 今川氏の意を受けた松平勢2500が足助へ侵攻。 |
天文23年 (1554) | 岡崎在番の今川家臣・馬場幸家らが来攻。鈴木氏は今川氏に降る。 |
永禄7年 (1564) | 松平家康が3000余をもって来攻し、鈴木氏は家康の麾下に属する。 |
元亀2年 (1571) | 武田氏が足助へ侵攻し、鈴木重直は岡崎城へ逃亡。武田家臣・下条信氏が城代となる。 |
元亀4年 (1573) | 松平信康によって武田勢が追い払われ、足助城を取り戻す。 |
天正3年 (1575) | 武田勝頼が三河へ乱入。足助城が陥落。長篠の戦いののち回復される。 |
天正18年 (1590) | 徳川氏の関東移封に伴い、鈴木康重が足助を去る。足助城が廃城となる。 |
平成2年 (1990) | 足助城の発掘調査が始まる。 |
平成3年 (1991) | 城跡公園足助城の第一期工事。 |
平成4年 (1992) | 第二期工事が始まる。翌年に城跡公園が完成する。 |
【主な参考文献】
- 小川雄・柴裕之「図説 徳川家康と家臣団」(戎光祥出版 2022年)
- 平山優「武田氏滅亡」(KADOKAWA 2017年)
- 笹本正治「武田信玄 芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る」(ミネルヴァ書房 2005年)
- 城跡公園足助城公式サイト
- ※本文中の足助城画像はwikipedia 真弓山城より
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