【滋賀県】安土城の歴史 城郭の概念を覆した天下人の城
- 2024/01/09
ただし安土城は単なる天下人の城ではありません。それまであった城の概念を覆すほど画期的な城だったのです。のちに築かれた近世城郭は、すべて安土城を参考にしたと言っても過言ではなく、日本の城郭史にとってエポックメイキングな存在となりました。
果たして安土城はどんな城だったのでしょう?
なぜ信長は安土に居城を築いたのか
天正3年(1575)、信長は長篠の戦いで武田勝頼を打ち破り、さらに越前一向一揆を平定したことで、畿内はもとより東海から北陸にかけて、織田氏に対抗しうる勢力はいなくなりました。そして家督を嫡男・信忠に譲った段階で、信長は新たな居城を築く意思を固めます。もし信長が名実ともに天下人として君臨したいのなら、もちろん拠点は京都に置くべきでしょう。しかし信長の考えは違いました。天皇や朝廷が存在し、足利将軍の居所だった京都をそのまま引き継ぐのではなく、新しい支配者にふさわしい新都を建設しようと考えたのです。そこで着目したのが安土の地でした。
安土は中世において、豊浦荘・佐々木荘といった荘園があった地で、交通の要衝でもあります。東山道は畿内から東海地方へ通じ、北国街道は北陸方面へ繋がっていました。また千草越や八風峠を越えれば伊勢方面へ抜けることもできます。
さらに従来の岐阜城では、京都まで兵を送るのに丸一日掛かるところ、安土なら京都まで半日、岐阜までも半日の行程で差し向けることができました。
それらに加えて、信長が注目したのが湖上交通の利便性でした。安土の外港である常楽寺港は、羽柴秀吉の長浜城・明智光秀の坂本城・丹羽長秀の佐和山城を結ぶ中間点にあり、琵琶湖水運の要として機能しています。つまり安土は、水陸交通を扼する重要拠点として期待されたのでしょう。
ちなみに安土城が完成した直後、多くの家臣を集めて完成祝賀会が開かれました。一門衆・直臣だけでなく他国衆も多く参集し、「天皇の間」や「行幸の間」などが披露されたといいます。
これは築城段階から正親町天皇、並びに誠仁親王の行幸を想定したもので、朝廷工作の場として活用することを意識したものでしょう。安土城は軍事目的のみならず、高度な政治目的のために築城されたのです。
従来の城郭とは一線を画した安土城
城が築かれた安土山は、かつて六角氏が本拠を置いた観音寺城の支脈にあたり、当時は琵琶湖に突き出した半島状の山塊だったといいます。また現在は干拓で埋められていますが、四方を湖に囲まれ、陸続きはごく一部しかないという要害の地でした。 記録によれば、普請奉行として丹羽長秀が、石奉行には西尾小左衛門・小沢六郎三郎らが任命され、天正4年(1576)正月から石積みが始まっています。畿内だけでなく尾張・美濃・伊勢・越前・若狭の人々が動員されたといい、京都や奈良・堺からも大工や職人らが大勢集まりました。
早くも2月になると、信長は岐阜城から築城途中の安土城へ移っていますが、おそらく仮御殿が建設されたか、従来まであった寺院を居所にしたものと考えられます。普請や作事の進捗状況を確認したい意図もあったのでしょう。
また石垣に用いられる石材は9割以上が湖東流紋岩でした。近隣の繖山や長命寺山でも産出されますが、その大半は安土山で採石したものです。調達の利便性がすこぶる良い点も、安土が選ばれた理由だったに違いありません。
さて昼夜問わずの突貫工事の末、天正7年(1579)には天主が落成。城郭として完成するのは天正9年(1581)まで待たねばなりません。着工以来、6年の歳月が掛かっていることから、いかに信長が安土城の築城に心血を注いだかがわかるところです。
ちなみに安土城は、従来の城郭とは一線を画す存在だとされています。それまでの中世城郭と違う点はいくつもありますが、最大の相違点となるのが石垣の構造でしょう。
「城」という字は「土で成る」と書くように、従来の城郭は基本的に土造りの城でした。発掘調査で石垣が検出されるケースもありますが、その多くは2~3段に積まれた石積みに過ぎません。いわば土の流出を防ぐ土留めが目的だったようです。
唯一の例外があるとすれば、安土城の至近に位置する観音寺城ですが、ここにも大規模な石垣は存在しません。
いっぽう安土城の場合、全山を覆い尽くすほどの総石垣によって構成され、累々と築かれた石垣は見る者を圧倒します。
こうした形態は安土城以前には存在せず、それ以降に登場する大坂城・江戸城・名古屋城などの近世城郭へと繋がっていきました。つまり安土城の存在は、城郭の概念そのものを変革させたと言っても過言ではないでしょう。
ただし、現在見られる石垣のほとんどは、昭和30~50年代に積み直しされたもので、往時の姿をそのまま表現しているわけではありません。
見る者を驚かせた壮麗な天主
従来の城には存在せず、安土城築城によって初めて登場したもの。それは壮麗な天主です。確かに安土城天主以前にも、伊丹城や楽田城、あるいは坂本城などで天守が確認されていますが、その遺構は明らかでなく、しかも小規模なものだったと考えられています。いっぽう安土城天主の場合、『信長公記』や宣教師たちの書簡によって、当時の姿が断片的に記録されてきました。その規模は五層七重とされ、ルイス・フロイスは『日本史』の中で驚きをもって書き留めています。
「城の真ん中には、彼らが天主と呼んでいる塔があり、ヨーロッパのどの塔より気品があって壮大である。この塔は七層から成っていて、内部・外部ともに驚くべき建築技術によって造営されている」
また『信長公記』には、内部の広さや飾られた障壁画についても記述されています。まず一重目は穴倉となっており、二重目には狩野永徳が描いた襖絵があり、さらに「ぼんさん」と呼ばれる盆石が置かれていました。
三重目には「花鳥の間」と「賢人の間」という部屋があり、四重目には「岩の間」「松の間」「竹の間」が並んでいて、美しい障壁画が描かれてあったといいます。
五重目に障壁画はなかったようですが、六重目になると平面が八角形となり、安土城天主特有の景観を表現していました。
最上階となる七重目がもっとも華やかで、金箔で覆われた座敷が広がっていたとか。そこには中国の故事にちなむ障壁画が飾られており、いずれも狩野派の絵師たちによって描かれたと考えられています。
ちなみに近隣にある「信長の館」という施設には、五重目・六重目を再現した安土城天主が復元されており、その壮麗ぶりをうかがい知ることができますね。
また『信長公記』や『安土日記』などの史料によれば、安土城天主は極めて居住性が高かったことがわかっています。おそらく信長は天主の内部で生活し、日々の政(まつりごと)をおこなっていたのではないでしょうか。
麓に家臣たちを住まわせ、信長自身は高く聳える天主にいることで、誰が天下人であるかを明らかにしようとした。そんな意図が垣間見えるところです。
城内には摠見寺が建立され、身分を問わず参拝を許したそうですが、ちょうど天主を仰ぎ見る位置にあったことから、信長は巧みな視覚効果を狙ったものと思われます。
天を衝くかのような天主の姿、そして陽光を浴びて金色に輝く安土城を見た人々は、信長に対する畏敬を抱いたことでしょう。
実はほんの一部しか焼けなかった安土城
信長は安土築城とともに城下町の整備を行わせました。天正7年(1577)には楽市楽座令として有名な「安土山下町中掟書」を発布され、城下町の振興を促しています。以来こうした施政は、近世城下町の模範例となりました。また正月の城下では爆竹が鳴り響いて新年を祝い、7月の盂蘭盆会には、天主はじめ多くの建物に提灯が飾り付けられ、夜になるとライトアップされたとか。
「言語道断、面白き有様」
上記のように『信長公記』に記されている通り、幻想的な景色が広がっていたことでしょう。
しかし天正10年(1582)本能寺の変によって、安土城の運命は大きく変わってしまいます。明智光秀が謀反に及び、主君・織田信長を自害へ追い込みました。そして娘婿の明智秀満に安土城の接収を命じたといいます。織田の本拠たる安土城へ入ることで、次の支配者たる意思を明確にしたかったのでしょう。
ところが山崎の戦いで光秀が敗死したことにより、秀満は安土城を放棄して坂本城へ入りました。その直後、安土城は謎の出火で灰燼に帰してしまうのです。これは秀満が放火したとも、信長の次男・信雄が火を付けたともされますが、いずれにしても壮麗だった天主は焼け落ちてしまいました。
安土城すべてが灰になったと考える方も多いのですが、実はそうではありません。発掘調査の結果から見出された安土城炎上の真実ですが、これは天主を中心とした本丸部分だけの火災だったようです。焼失部分は安土城全体の一割にも満たず、他の九割を超える部分では、その後も機能していたことが明らかになっています。
その後、清州会議において、信忠の遺児・三法師が正式な織田の跡目となり、安土城へ迎えることが決まりました。ただし天主や本丸御殿の存在は文献等から確認できないため、おそらく再建は断念されたのでしょう。
安土城の遺構は彦根城へ移された!?
信長の死後、天下の趨勢は徐々に羽柴秀吉へと傾いていきます。そして関白へ任官した秀吉の権勢は盤石となり、ここに豊臣政権がスタートしました。信長の天下を象徴する安土城は、この頃に廃城になったものと考えられます。なぜなら天正13年(1585)に国割りが行われ、近江支配の要となる八幡山城が築かれたからです。
では安土城にあった建物群はどこへ行ったのでしょうか?記録がないため詳細は不明ですが、発掘調査の結果、解体整理された痕跡が見つかっています。日本建築の大きな特徴は、解体後の移築が可能なことです。つまり廃城後、安土城の建物が再利用された可能性は高いと言えるでしょう。
そこで有力な移築先と考えられるのが八幡山城です。実は安土の城下町もそっくり八幡山城下へ移されており、のちの商都・近江八幡の基礎となりました。
こうした移築は当時から頻繁に行われており、近江国内では大溝城から水口岡山城への移築、伊勢では松ヶ島城から松坂城への建物移転などが知られています。ただし、八幡山城には建物遺構が残っていないため、安土城のどの部分が移築されたのかは不明です。
のちに八幡山城が廃城になると、秀吉は大津城を築かせました。さらに関ヶ原の戦いを経て大津城が廃され、新たに膳所城が築城されています。そのたびに安土城の遺構は移されていったのでしょう。ちなみに、膳所城にあった建物の多くも彦根城へ移築されたといいますから、もしかすると彦根城の一部に、安土城の建材が用いられている可能性は否定できないところです。
さて、廃城となった安土城の跡地には摠見寺だけが残りました。秀吉は朱印状を発した上で、住職には織田の血筋の者が就くことを命じています。おそらく安土城跡を聖地として守ろうと考えたのでしょう。それは江戸時代になっても継承され、幕府は摠見寺を厚く庇護したといいます。
摠見寺は安政年間に雷によって焼け落ちますが、現在に至るまで信長の菩提を弔い続けているのです。
おわりに
かつては謎に包まれていた安土城ですが、近年の発掘調査や研究により、多くのことが明らかになりつつあります。例えば、天主の屋根には青い瓦が用いられていた。あるいは天主の側には懸造りが設えられ、まるで舞台のような演出がされていたなど、歴史ファンにとって思いがけないサプライズが目白押しなのです。それらが史実かどうかは今後の研究を待ちたいところですが、安土城は信長の夢・未来・思いのすべてが詰まった城であることに違いありません。
安土山の山頂に立ってみると、自分が信長になったような錯覚を覚えるのは不思議な感じです。目の前に広がる琵琶湖を望むと、なぜ信長がそこに城を築いたのか?きっと納得できるはずでしょう。
補足:安土城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
天正4年 (1576) | 丹羽長秀が普請奉行に任じられ、安土城の築城がはじまる。 |
天正5年 (1577) | 縄張りが完成。城下に「安土山下町中掟書」が発布される。 |
天正7年 (1579) | 五層七重の天主が完成。 |
天正9年 (1581) | 家臣を集めて城がお披露目となる。同年、宣教師ヴァリニャーノが安土城を訪問。 |
天正10年 (1582) | 明智光秀が饗応役となり、徳川家康を接待する。 |
同年 | 本能寺の変が勃発。明智勢によって占拠され、直後に本丸部分が焼失。 |
天正13年 (1585) | 秀吉による八幡山城の築城に伴い、廃城となる。 |
安政元年 (1854) | 火災によって摠見寺のほとんどが焼失。 |
昭和元年 (1926) | 安土城跡が史蹟となる。 |
昭和27年 (1952) | 国の特別史跡に指定される。 |
昭和35年 (1960) | 本丸周辺から黒金門にかけての石垣修理に着手。 |
平成元年 (1989) | 「特別史跡安土城跡調査整備事業」が20年計画でスタートする。 |
平成10年 (1998) | 大手道の復元整備工事が完了する。 |
平成18年 (2006) | 日本100名城に選出される。 |
【主な参考文献】
- 仁木宏・福島克彦「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」(吉川弘文館 2015年)
- 滋賀県教育委員会「近江城郭探訪 合戦の舞台を歩く」(サンライズ出版 2006年)
- 中井均「近江の山城ベスト50を歩く」(サンライズ出版 2006年)
- 中井均「近江の城 ~城が語る湖国の戦国史~」(サンライズ出版 1997年)
- 松下浩「織田信長の城郭」(戎光祥出版 2020年)
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