「どうする家康」足利義輝討死!永禄の変…将軍はどのように死んだのか?

義輝が政務をとった足利義輝邸跡(二条御所)。当時は「二条武衛陣の御構」などと呼ばれていた。
義輝が政務をとった足利義輝邸跡(二条御所)。当時は「二条武衛陣の御構」などと呼ばれていた。

 永禄8年(1565)5月19日、京の都を揺るがし、諸大名にも大きな影響を与える事件が勃発します。室町幕府の第13代将軍・足利義輝が、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)や松永久通の軍勢によって襲撃され、命を落としたのです(永禄の変)。

 今回の大河ドラマ「どうする家康」でも、織田信長が将軍が死んだ事を知るシーンが描かれました。では、なぜ、彼らは将軍を襲撃・殺害するという大胆な行動に及んだのでしょう。

 事の起こりを『信長公記』(信長の家臣・太田牛一が記した信長の一代記)は次のように記します。

「三好氏が天下の権力を握っているので、将軍は三好を恨みに思っていることを知っていた。三好は謀反を企んでいることを誤魔化していた」
と。

 三好三人衆と松永氏は、三好義継を擁して勢力を拡大しようとしていたが、その障壁となっていたのが、将軍権力の復活を目論む義輝であり、両者は対立していたのでした。三好三人衆らは、義輝の従兄弟である足利義栄を14代将軍に就けようとするのです。

 さて、三好氏らは、5月19 日、清水寺に参詣するという名目で、早朝より、軍勢を招集していました。そしてその軍勢は、そのまま将軍御所に乱入したのでした。義輝は仰天しますが、これも「是非なき御仕合なり」(『信長公記』)と覚悟を決めて、謀反人に立ち向うのです(この辺りの思い切りの良さというのは、明智光秀の謀反の時に是非に及ばずと言った織田信長とも重なるところがあります)。

 殿中に乱れ入る敵軍。義輝は何度も打って出て、敵勢を切り崩し、敵兵を負傷させ、奮戦します。しかし、本能寺の変と同じく、多勢に無勢で、ついに御殿に火をかけて、自害するのでした。義輝には弟がいました。興福寺一乗院門跡の覚慶です。覚慶は、永禄の変の際、三好氏らにより、寺に幽閉されていましたが、細川藤孝らの助力により、寺を脱出。近江国に逃れることになります。

 翌年(1566年)、覚慶は還俗して、義秋(後に義昭と改名)と名乗るのです。一方、三好三人衆らに担がれた足利義栄は、阿波国から摂津国に入ります(1566年)。しかし、朝廷から 将軍になかなか正式に任命して貰えず、義栄が将軍となるのは、永禄11年(1568)2月8日のことでした。が、義栄は上洛することはありませんでした。京都に入ることなく、同年に摂津で病死してしまうのです。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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