「どうする家康」家康と秀吉の両雄対面 『三河物語』に記された不穏な噂とは

静岡県浜松市にある家康と秀吉(藤吉郎時代)のツーショット像
静岡県浜松市にある家康と秀吉(藤吉郎時代)のツーショット像

 大河ドラマ「どうする家康」第35話は「欲望の怪物」。豊臣秀吉の要請に応じ、遂に上洛を決意した徳川家康。両雄の対面が描かれました。

 天正14年(1586)9月26日、家康は秀吉と対面するため、上洛する決意を固めます。しかし、『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)には、上洛に反対する家臣が複数おり、主君・家康に上洛を思い止まるよう説得している様が書かれています。

「上洛は道理に合わず」

「是非、お考え直しを」

「秀吉と断交しても構わないではありませぬか」

と勧める家臣に対し、家康は

家康:「(秀吉軍が)百万騎で攻め寄せてきても、打ち破ってみせようが、そうなると、私一人の決断で、民百姓や侍の多くが死ぬことになろう。その亡霊の祟りこそ、怖しい。私一人が腹を切り、人の命を助ける。お前たちも文句を言わず、謝罪して、多くの人の命を助けよ」

と答えたのでした。

 場合によっては、秀吉から切腹を求められることもある。そうなった場合は、謝罪の意味を込めて、切腹して果てて、領民・領国を救おうという家康の心中が窺えます。これに強硬派の家臣も納得し「上洛してください」と勧めるまでになります。

 『徳川実紀』(江戸幕府が編纂した徳川家の歴史書)にも、これとよく似た話が記載されています。「わが一命もて天下万民の命にかかり上洛せん」と発言した家康を『実紀』は

「遂に天下の父母となられたほどの徳(精神的に優れた人格)は、この一言に現れている」

と評しています。

 秀吉は妹・旭姫を正室として家康に嫁がせ、そして、実母の大政所も徳川領国(三河・岡崎)に下向させます。親族二人を「人質」にすることにより、家康の上洛を求めたのです。秀吉の決意のほども窺えます。10月18日、大政所は岡崎に到着。家康一行は、その2日後に岡崎を立ち、大坂に向かいます。大坂に着いた家康は、秀吉の弟・羽柴秀長の邸に入るのです(10月26日)。その夜、秀吉が家康の宿所を訪ねたとする逸話は有名です。

 秀吉は

秀吉:「 我が勢い天下を靡かすといっても、元は草履とりで奴僕であったのを、織田殿(信長)に取り立てられたということは、皆、知っておる。諸大名も表では、わしに敬服しているが、裏では侮っている。よって、天下統一の功を、この秀吉に全うさせるか否かは、偏に、徳川殿の心1つにある」

と家康に語ったとされます(『徳川実紀』)。つまり、明日の、諸大名を交えての大坂城での対面の際は、わし(秀吉)に敬意を見せてくれよと囁いたのです。

 翌日、大坂城で、秀吉と家康は対面。その時、家康は秀吉の陣羽織を所望し、

「今後は殿下(関白の敬称。この場合は秀吉のこと)を戦場には行かせません、この家康が代わりに敵を討伐しましょう」

と発言したといいます。

 秀吉はこの発言を喜び、陣羽織を自ら家康に着せたとのこと。陣羽織所望は家康の見事な発案と思われがちですが、『実紀』によると、前日、羽柴秀長と浅野長政が、対面の際は陣羽織を所望することを、家康にアドバイスしてくれたのでした。

 『三河物語』には、上洛の際、秀吉が家康を毒殺しようとして、食事の中に毒を仕込んでいたと書かれています。料理の御膳が出る時に、家康は下座にまわったことで、毒殺を回避できたが、代わりに、秀長がそれを食べてしまい、遂には死んだということが同書には書いてあるのです。秀長の死は、この時から5年後(1591年)のことですので、秀長がこの時の毒で死んだということはないでしょう。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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