小銭を握り締め、みんなで待っていた紙芝居のおっちゃん
- 2023/03/30
昭和の時代に子供たちの間で大流行した「紙芝居」。紙のお芝居とは良く名付けたものだと思いますが、ルーツをたどると平安時代の絵巻物や、寺社で行われた説話の絵解きに行き当たります。そんな古くからの芸能を子供たちが楽しんだ背景には、1人の話し手が語る言葉を話芸として楽しみ受け入れる日本人の下地がありました。
始まりは大人向けの大衆演芸
絵を見せながら話し手が物語を語って聞かせる見世物は、江戸時代から明治・大正と楽しまれて来ました。箱の中の絵を覗く覗きからくりや、写し絵・影絵・立ち絵など、大人を対象とした娯楽として繁盛します。写し絵は数台の投影機を使ってガラス板に書かれた彩色絵を拡大映写し、動く映像によるドラマを見せました。寄席や納涼船の余興芸として歌舞伎のさわりなどが演じられ、三味線の伴奏も尽きます。立ち絵は15cmほどの人型に切り抜いた絵を竹串に張り付け、小型の舞台を背景に動かし芝居をさせるもので、両方とも小屋掛けで木戸銭を取っての興行でした。
しかし明治の終わり大正の初期になると、大人の娯楽は子供騙しの見世物から大人の鑑賞に耐える映画に移って行きます。
立ち絵から平絵へ、失業者の日銭稼ぎとして
観客を奪われた演芸者たちはある者は廃業しましたが、ある者は別の道を探しました。彼らが演じるようになったのが「平絵」による街頭紙芝居、1枚の絵を次々に引き抜いて物語を展開させる今で言う紙芝居です。立ち絵や写し絵からの紙芝居は飛躍があるようですが、ここで昔の絵解きや絵巻物語りが思い出されました「絵さえあれば大仰な仕掛けが無くても1人で稼げるじゃないか」と言うのです。
写し絵のような装置も必要なく、1人でも演じられる紙芝居は、子供相手の手軽に始められる商売として活路を開きました。昭和初期の経済不況のあおりを受けた失業者たちが、特に技能も資格も必要とされずに日銭が稼げる仕事としてこの世界に入って来ます。
東京市社会局の1935年の『紙芝居に関する調査』があります。それによれば、日本演劇教育協会所属の貸元から元絵を借りて営業している業者は東京市で1050人、それ以外の者も含めると2000人が営業していました。1936年の『全国紙芝居業者分布図』では、当時の台湾・朝鮮まで含めて業者の人数は9000人を超えています。戦前の満州や奉天・大連で見たと言う人も多いのです。
最初のブームは大正12年(1923)の関東大震災の後でしたが、子供相手に見物料を取るのは如何かと問題になり、菓子を売ってその代金を貰い、おまけとして紙芝居を見物させるとの抜け道が考え出されます。
次のブームは太平洋戦争終戦後に起こり、貧しい中での子供たちの楽しみとして大ブームになります。このブームは1950年代の終わりまで続き、全国での業者数は2万人に達しました。しかし1960年代に入るとテレビの普及に伴い、紙芝居は急激に姿を消して行きます。
業界のシステム
紙芝居はどのようにして成り立っていたのか、ちゃんとしたシステムがありました。まず「絵元」と言って演じる個人に絵を貸し出す親方が居ます。大坂の塩崎夫妻が営んでいた三邑会(さんゆうかい)が有名で、ここでは紙芝居屋を三邑会会員と呼んでいます。親方は脚本を書く作家・線画を書く画家・色を塗る着色係り、この三種の職人を何人も雇います。1本の紙芝居は3人の職人の共同作業で作られていました。絵元の親方は作風や作品構成にも口を出します。
紙芝居屋は午前中に親方の元に顔を出し、前日借りた作品を返し、当日の絵を受け取ります。三邑会では多い時には40人もの会員を抱え、続き物の作品だと絵を配る順番調整も大変でした。戻ってきた絵は汚れを落として次の貸し出しに備えます。
三邑会は売り物の駄菓子も造っていたので、紙芝居屋は菓子もここで仕入れていました。絵元は紙芝居最盛期には眼の回るような忙しさでしたが儲けも多く、ミカン箱には子供たちが払った小銭が溢れていました。
紙芝居のおっちゃん
紙芝居の特徴は路地や公園・原っぱなど開かれた空間で演じられた事です。子供たちは自転車の荷台に商売道具一式を乗せてやってくる『紙芝居のおっちゃん』を待ちわびていました。おっちゃんは拍子木を叩いて子供を集めますが、それよりも早く目ざとい子供たちが寄って来ます。おっちゃんの引く自転車の荷台には、50cm ✕ 50cm ✕ 60cmぐらいの大きさで引き出しのついた箱が括りつけてあり、上段を持ち上げると紙芝居の枠が出てきます。引き出しには紙芝居の絵やお菓子・拍子木・小銭が入っていて、お菓子は最下段に入れてありました。子供たちは菓子を選ぶ振りをしてわっとばかりに引き出しを覗き込みます。
紙芝居の思い出として、お菓子を第一に挙げる人が多いのです。型抜き・水飴・ソース煎餅・水でふやかした素麺を煎餅の上に乗せて、ソースをかけただけの素麺定食と称するシロモノなど、「なぜあの時はあんなに美味しいと思ったのか」と首を傾げます。
おっちゃんも当てものなどで売り上げを増やそうと考えます。子供の買う駄菓子の事、値段など知れていますがその金が用意できない子供も居ました。遠巻きに見ている子供を追い払いもせずおっちゃんは「ええよ、ええよ」と言います。紙芝居のおっちゃんは優しかったのです。
荒唐無稽こそ紙芝居の神髄
- 九尾の白狐と阿波の飛龍狸(ひりゅうだぬき)が、それぞれの眷属を引き連れて大空中戦を繰り広げる。
- 狂気の博士フランケンにゴリラの心臓を埋め込まれた助手の青年ジムは、異形のものとなり果て復讐に我を忘れる。
- 嵐の海を行く幽霊船に乗り込んだ鷲の被り物のゴールデンマスク、得物の鞭を振るい襲い掛かるガイコツの群れを叩きはらうさなか、突如響き渡る妖婆エログーの笑い声。
いずれも「主人公の運命やいかに、それは明日のお楽しみ」で終わるのですが、紙芝居の業者も子供たちを引き付けておくのに懸命でした。
紙芝居の出し物としては異形のスーパーヒーローが主人公を助けて大活躍、最後には正義が勝つ勧善懲悪ものが王道でした。他にもお涙頂戴の母子ものや、トンチで大人をへこます一休さんまがいのもの、身の毛もよだつ妖怪もの、ひたすらボケをかますお笑いもの、子供相手にどうかと思うエロやグロもありました。
荒唐無稽・ご都合主義がまかり通る筋書きですが、国の戦争遂行の方針に従った「国策紙芝居」や礼儀作法・道徳を教える「教育紙芝居」もありました。
大抵の紙芝居は数巻で終わりますが、中には数百巻続くものや、三邑会が作った『チョンちゃん』と言ういたずら坊主が活躍するシリーズは何と5200巻も続きました。
月光仮面にまぼろし探偵、むっつり右門に旗本退屈男、白馬童子に丹下左膳など、テレビや映画でお馴染みのヒーローも大活躍します。あのころの著作権はどうなっていたのでしょうね。
おわりに
紙芝居業者だった人たちは口を揃えて「儲かりはしないが気楽な商売だった」と言います。業者同士の喧嘩もありましたが、子供相手の日銭が稼げて飯ぐらいは食える商売で、太平洋戦争後の復員兵の受け皿にもなりました。しかし世間の景気が良くなるにつれ、彼らは本職に出来る職業に移って行きます。紙芝居が廃れて行ったのはテレビの普及の他に、演じる業者が居なくなったことも原因でした。
【主な参考文献】
- 石山幸弘『紙芝居文化史』萌文書林/2008年
- 畑中圭一『紙芝居の歴史を生きる人たち』子どもの文化研究所/2017年
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