当時この界隈は木造の低層建築が密集し、3階建て以上のビルはかなり珍しかった。「光の球場」が出現するには、そういった立地条件が必要だ。
東京スタジアム跡地に向かって歩いてみよう。南千住駅前から、山谷通りを北に進む。この付近は江戸時代に小塚原刑場があった場所。道路の建設工事中、処刑された罪人たちの遺骨が大量に出土したことから「コツ通り」の通称でも呼ばれる。
道沿いには処刑された罪人を弔う首切り地蔵や、鼠小僧など有名な罪人が葬られた回向院など、アンダーグラウンドな名所もあちこちに。光あるところに影あり。だが、カクテル光線が燦々と輝く球場をめざして歩く人々に、この暗い場所は目に入らない。
山谷通りを200メートルほど行ったところで左折して千住間道に入る。かつて中山道の抜け道だったこの道も、現在は交通量の多い幹線道路。広い歩道も整備されているから歩きやすい。沿道の商店も球場開設で多大な恩恵をうけていた。球場内の飲食は高い。観客の多くは、近隣の店で飲物や食物を買って球場に持ち込んだ。
沿道で現在も「ジャンボパン」の看板を掲げて営業をつづける青木屋は、東京スタジアムができる以前は惣菜屋だったという。それがコロッケやメンチカツをパンに挟んで売ってみたところ、野球を観戦しながら食べるのにちょうどいいと人気を呼んだ。メジャーリーグの球場ではホットドッグ、東京下町の球場にはコロッケパンがよく似合う。
当時の地図と照らしあわせてみると、球場正門は高層アパートと南千住警察署の間あたり。そこから千住間道に沿って、三塁側の内野スタンドがあった。
荒川区総合スポーツセンター前の交差点が内野席と外野席の分岐点、ここを右に曲がるとレフト側の外野スタンド。その先にはスコアボードが見えていたはず。
2段式の大きな内野席スタンドと比べて、外野スタンドは1段しかなく低く狭かった。また、直線道路に沿ってある形状から、グラウンドは左中間にふくらみがない窮屈な形状。これは北隣の荒川工業高校と直線道路で対峙する右中間も同様だった。
球場の両翼90メートルは、他のプロ野球の球場とほぼ同じだが、ふくらみのないぶんグラウンド面積はかなり小さい。最高の設備を誇った球場だったが、人口密集地帯の下町では充分な敷地面積がとれなかったようである。
そのためホームランが出やすく、1971年5月3日にはプロ野球史上に残る5者連続ホームランを記録している。また、11年間に841試合がおこなわれ、通算のホームラン数は1914本にもなる。1試合あたりのホームラン数は約2.27 本。近年のプロ野球で最もホームランが多かった2019年が1試合平均1.97 本、最も少なかった2011年は1.09本だが、これと比較してもかなり多い数字だ。
低くて狭い外野スタンドからは、場外に飛び出すホームランも多かっただろう。一塁側などは球場と球場敷地と住宅地の間に、クルマ1台がやっと通り抜けられる程度の路地があるだけ。
密集の家々に囲まれてあるこの球場には「下駄履きで行ける球場」というキャッチフレーズもあったのが、これなら下駄を履いてでかける必要もない。家の中にもボールが飛び込んで、試合の臨場感が体験できそうだ。また、当時は試合日になると子供たちがグローブを持って路地に集まり、飛んでくるホームランやファールのボールを待ちかまえていたという。
東京スタジアムの入場者は60年代後半になると1試合平均4000〜5000人にまで落ち込み、採算が取れなくなっていた。
1970年に大毎オリオンズがパ・リーグで優勝し、永田オーナーも胴上げされて宙を舞ったのだが……これが最後の栄光だった。
優勝の翌年には親会社の大映が倒産し、球団はロッテに売却される。すでに数十億の負債を抱える球場は、ロッテも購入に二の足を踏んだ。そのため1972年には閉鎖となり、1977年に解体されてしまう。
東京球場の跡地を離れて、さらに北へと向かう。すると道に沿ってある古い煉瓦塀が見えてくる。1879年に完成した千住製絨所を囲っていた塀の一部で、近代遺跡として保存されているものだ。
明治政府が外貨獲得のために建造した羊毛製品製造の官営工場、戦後も民間企業に払い下げられ1960年まで操業していた。その敷地の一部を大映が購入して、球場建設地を確保したのである。
現代遺跡・東京スタジアムは、近代遺跡の上に建設されていた……これも、スクラップアンドビルドが繰り返される東京ならではの事象だろうか。
操業停止となってからの千住製絨所は、いつも無人で静まり返り陰鬱な雰囲気を醸していた。張り巡らせた煉瓦塀に遮断されて内部の様子が分からず、人々は「まるで刑務所のようだ」と囁きあい不気味に感じていたという。
そこに忽然と光あふれるボールパークが出現したのだから、当然、地元民は喜び大歓迎。しかし、その歓喜からわずか11年で「光の球場」は消滅した。
球場跡地から500〜600メートルほど行ったところには、荒川の流れがある。川の対岸からも、煌々と光輝く球場の眺めが楽しめたという。
対岸に渡って球場があった方向を眺める。が、そこには高層のアパートが壁のように立ちはだかっていた。千住駅前と状況は同じ。現代では下町にも高層建築が林立して、球場が遠望できる場所などどこにもない。
また、現代の街には光があふれている。たとえ「光の球場」が現存していたとしても、そこに当時の人々と同じ感動や興奮を覚えられるだろうか?
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