明治期の博覧会ブーム 正統派から駄洒落まで、さまざまな趣向の博覧会が開催!
- 2023/07/19
博覧会とは本来そのような主旨の催しものです。日本でも慶応3年(1867)第2回パリ万博への参加を契機として国内での開催、国外開催への参加が盛んに行なわれるようになりました。
しかし国内の勧業博覧会、さらには各府県や特定の団体が主催する博覧会が盛んに開かれるようになると、なかには珍奇な催しも目に付くようになります。
太夫の遺品などを展示した吉原博覧会
各地での博覧会ブームは、ついに吉原遊郭にまで及びました。明治8年(1875)2月15日から、新吉原江戸町金瓶楼(きんぺいろう)と言う妓楼を会場として「吉原博覧会」が開かれます。主催者は俵屋和助・泉屋忠兵衛など吉原の楼主たちです。さすがに元和4年(1618)年から250年余り、貴顕諸氏や豪商・文人墨客が出入りした場所だけあって、由緒ある書画や骨董品が数多く展示されました。東京日日新聞によると、
「綱宗公の真跡なりといふ遊女高尾の額や、紀伊国屋文左衛門の千両箱」
などが出品されたようです。他にも歌舞伎十八番の1つ助六が持っていた尺八とか、初代高尾名入りの灯籠に白井権八が鈴ガ森で討ち取った賊の骸骨とかいろいろと賑やかでした。名妓が遺した筆跡や豪華な衣装も展示され、吉原全盛の頃をしのぶ人たちが来場し大当たりを取ります。
対抗意識を燃やしたのでしょうか、京都島原でも明治20年(1887)5月7日から1週間、揚屋の角屋(すみや)で展覧会が行われました。展示品は吉野太夫・八千代太夫など名だたる名妓の残した短冊類、有栖川宮織仁(おりひと)親王の掛け物など、京都らしいものが目を引きます。菱川師宣の絵や、宝井其角や服部嵐雪が詠んだ句の色紙も展示され、見終わった後は太夫の茶のお手前でもてなされました。
悪ノリした博覧会もどきの百覧会
吉原博覧会の盛況を見て「俺もひとつ」と悪ノリした人もいたようで、駄洒落のような博覧会まで開かれ始めました。先頭を切ったのは明治8年(1875)4月、上野の自宅で「笑覧会」を開いた剣術家・榊原健吉でした。展示品は源義経愛用の横笛・小野小町普段使いの湯呑み・宮本武蔵が稽古に用いた木刀・由井正雪の扇に浦島太郎の釣り針・茂林寺の文福茶釜など、どれも話のタネにはなるかなと言う品々です。
榊原健吉は明治の散髪脱刀令で困窮に陥った武芸者を救うために「撃剣会」を組織して、見世物興行を打って回った人物です。この行動は神聖な剣の道を汚すとの批判もありましたが、今では現在まで剣術を伝えた一助になったと評価されています。
明治11年(1878)7月には仮名垣魯文が猫を集めて「珍猫百覧会」を、続いて同年9月には大阪で「劇場百覧会」が開かれます。こちらの展示品は塩谷判官が殿中松の廊下で高師直に切りつけた九寸五分の短刀や、歌舞伎の演目廓文章(くるわぶんしょう)の中で藤屋伊左衛門が着ていた紙子、平清盛が沈む夕陽を呼び返した扇、安宅の関で弁慶が読み上げたニセの勧進帳などお芝居に関係する品が並びました。
明治19年(1886)6月には三遊亭円右が浅草で「落語百覧会」を開き、三遊亭円朝や談州棲燕枝(だんしゅうろうえんし)らを招いて、普段あまり高座にかけない艶話やバレ噺などの演目を語り「珍芸の土用干し」を行ないます。
文部省が主催した博覧会、名古屋城の金鯱鉾も展示
東京九段の靖国神社がまだ招魂社と呼ばれていた時代、文部省が主催して明治4年(1871)4月に招魂社で「物産会」を開きました。評判が良かったのか 翌5年の3月と4月にも文京区の湯島聖堂で「文部省博覧会」を開きます。3月13日には明治天皇が行幸を、27日には昭憲皇太后が行啓される賑々しさで、横浜毎日新聞はその盛況ぶりを「入場者は引きも切らず群蟻の如し。上野の花見や守田座の芝居を押さえて今春第一の見ものなり」
と書いています。
人気だった展示品は加藤清正が朝鮮で虎退治に使ったと言う片鎌槍や、源義経着用の袴・豊臣秀吉が書状に押した印・千利休愛用の茶杓などですが、中でも観客の興味を引いたのは奈良県の吉野山で獲れた大山椒魚でした。そして会場中央にデンと据えられたこの博覧会のハイライトは、名古屋城の金の鯱鉾(しゃちほこ)です。普段なら遥か城の天守閣の高みを仰ぎ見るだけですが、それを目の前にして人々はその迫力に圧倒されました。
この後、鯱鉾は明治6年(1873)のウイーン万国博覧会へ出品のために海を渡り、帰国してからも各地の博覧会へ出品されて好評を得ますが、その後、東京で保管されていた時にご難に会います。明治9年(1876)4月28日、落ちぶれた士族が暴風雨を突いて建物に忍び込み、鯱鉾の鱗を3枚削り取って売り払い、生活費に充ててしまいました。
力士の外国巡業、日英博覧会
明治43年(1910)5月14日から10月29日まで、ロンドン西部のシェパーズ・ブッシュで日英博覧会が開かれます。 会場の「フェア・ジャパン(美的日本)」は日本家屋を模した造りで、中では日本からやって来た職人たちが桶や和傘・和菓子を作り、象牙細工や七宝細工の制作工程を実演販売しました。「ポエチック・ジャパン(詩的日本)」と名付けた茶店では、小川を流して水車を回し、橋を架け、藁葺き(わらぶき)の家で稲藁を打ち、縄をなう日本の農村生活を見せます。
アイヌ民族や台湾のパイワン族の人たちも連れて来られて暮らしの様子を見せ、民族舞踏を踊ったり民芸品を作って販売したりしました。余興として京都の横綱大碇(おおいかり)を始め、力士34による取り組み、曲独楽や日本手妻・水芸・玉乗りなども演じられます。異国趣味を喜ぶ他国の人々の姿に、「金を取って日本人が見世物になっている」と不快がる現地邦人も少なくなかったようです。
おわりに
万博と言えば昭和45年(1970)大坂開催を思い出される方も多いでしょう。6400万人以上が来場する大盛況でしたが、2025年開催予定のも成功すると良いですね。【主な参考文献】
- 椎名仙卓『日本博物館成立史』雄山閣/2022年
- 倉田喜弘『幕末明治見世物事典』吉川弘文館/2012年
- 倉田喜弘『海外公演事始』東京書籍/1994年
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