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44年に渡り、関東管領に君臨し続けた上杉顕定の手腕

  • 室町幕府
 2017/10/19

古河公方と室町幕府の対立によって関東で起こった戦乱は、収束と再発を繰り返し、関東の戦国時代はすでにここから始まっていたのではないかとも言われています。このような上杉家の内紛や古河公方との争いをくぐり抜け、関東管領の座に就いていたのが上杉顕定です。

人生の大半を関東管領として生きた彼の波乱に満ちた生涯を、今回はご紹介したいと思います。(文=xiao)

越後上杉氏から山内上杉氏へ、そして関東管領に

鎌倉(古河)公方・足利成氏が反・室町幕府を掲げて起こした享徳の乱が起きた享徳3(1454)年、顕定は越後上杉氏の当主・上杉房定の二男として誕生しました。

当時、山内上杉氏の当主で関東管領でもあった上杉房顕は、成氏に対抗するために幕府に対して新たな鎌倉公方(堀越公方)の下向を要請するなどしていましたが、寛正7(1466)年、五十子で陣没してしまいます。

房顕には男子がおらず、後継者問題が急務となりました。そこで、山内上杉氏の一切を取り仕切っていた家宰の長尾景信は、越後上杉氏の当主・上杉房定の息子を迎えたいと申し出ました。これは、景信の父で「関東不双の案者」と呼ばれた切れ者・長尾景仲の遺言もあったそうです。

しかし、山内上杉氏の中でも、越後から後継者を取ることには反対の声もありました。そんなところへ息子を出したくないと、房定もなかなか首を縦には振りません。そこで介入したのが、室町幕府第8代将軍・足利義政でした。

「房定の子を後継者にせよ」との命令により、房定の二男・顕定が山内上杉氏の次期当主として迎えられることとなったのです。同時に関東管領にも就任することになった彼は、まだ13歳でした。

これ以降、死ぬまでの44年間を、彼は関東管領として生きていくことになるのです。

長尾景春の乱のきっかけとなった顕定の人事

顕定が当主となった山内上杉氏の家中に不穏な空気が漂い始めたのは、文明5(1473)年に家宰の長尾景信が亡くなってからのことでした。

景信の次の家宰にと顕定が指名したのは、景信の息子・景春ではなく、別家の長尾忠景でした。顕定としては、家宰職が代々同じ家に集中することは権力の独占になるとしてどうしても避けたいとの思いがあったようですが、はなから自分が家宰になるつもりだった景春にとっては、大いに不満だったのです。

そこで景春は大胆な行動に出ました。何と、敵であるはずの足利成氏方に寝返ってしまったのです。扇谷上杉氏の家宰で景春とはいとこでもある太田道灌が、顕定や扇谷上杉氏当主・上杉定正に取り成し、これ以上の事態の悪化を避けようとしましたが、2人は景春の行動こそ不当であるとして、聞く耳を持ちませんでした。

そして事態は悪化し、文明8(1476)年、長尾景春の乱が起きてしまったのです。

長尾景春の乱と享徳の乱を抱えて

顕定や上杉定正は、当初、景春の力を見くびっていた部分があったようです。景春ごときが何するものぞと思っていたのかもしれませんが、2人は景春に重要拠点・五十子を急襲され、上野へと撤退しなければならなくなりました。五十子は対古河公方の拠点でしたから、これを失うということは痛恨の極みだったのです。若い顕定にとっては痛恨の判断ミスでした。

しかし、太田道灌の活躍により、何とか乱は収束へと向かっていきます。

そもそも、上杉氏の内紛と以前から続いていた享徳の乱と長尾景春の乱と、2つの大戦を抱えた状態でいるのは、どだい無理な話でした。このため、上杉氏と足利成氏との間では和睦が結ばれます。そして文明14(1483)年には成氏と幕府との間でも和睦が成立し(都鄙合体)、享徳の乱は終結したのでした。

ところが、顕定にはさらなる難問が降りかかってきます。太田道灌の活躍によって存在感を増した扇谷上杉氏の勢いは、主筋である顕定の山内上杉氏をしのぐものとなってきたのです。これに対処することが、顕定にとっての次の課題でした。

長享の乱を勃発させる

顕定が扇谷上杉氏の隆盛を危ぶんでいたのと同様に、扇谷上杉氏当主・上杉定正は太田道灌の名声ばかりが鳴り響くことに危惧を抱き始めていました。 そこで、顕定は動きます。道灌が謀反を企てているなどと定正に讒言し、道灌を殺させてしまいました。これは扇谷上杉氏に従っていた諸将を動揺させ、彼らの中には離反して山内上杉氏へ走る者も出たのです。

こうして、山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立が表面化し、再び上杉氏での内紛が始まることになります。 長享元(1487)年、顕定は越後守護となっていた実兄・上杉定昌と共に、山内上杉家臣でありながら扇谷上杉方についた長尾房清の居城・下野勧農城を攻めます。これが長享の乱の始まりでした。この内紛も長引き、以後20年近く続くこととなるのです。

長享の乱の当初は、顕定は苦戦しました。しかし、明応3(1494)年に定正が陣中で落馬し急死すると、重臣たちが相次いで死去したこともあり、徐々に顕定が挽回していきました。

ただこの一方で、堀越公方方面の情勢に大きな変化がありました。伊勢宗瑞が堀越公方を駆逐し、伊豆を足掛かりに小田原へと進出してきたのです。やがて宗瑞は定正の跡を継いだ上杉朝良と連合し、顕定に対抗してくることとなったのでした。

越後上杉氏の掌握に乗り出す

この頃、顕定はかつて敵対した古河公方と蜜月関係を築いていました。成氏の次に古河公方となった足利政氏とは、彼の弟・顕実を養子にもらいうけるなどしていたのです。刻々と変わる関東の情勢において、顕定が次の流れを読もうと必死に工作していたことがわかります。

そして永正元(1504)年、顕定は足利政氏と連合し、上杉朝良・伊勢宗瑞・今川氏親連合軍と立河原の戦いで激突しますが、ここで彼は死者2,000人を出して大敗してしまいます。

このまま衰退するかと思われましたが、顕定には実家の越後上杉氏がついていました。越後守護となっていた実弟の上杉房能の命令により、守護代・長尾能景が援軍として派遣され、これで勢いを得た顕定は、朝良を攻め、ついには降伏させたのです。両上杉氏の間で和睦が結ばれ、永正2(1505)年、長享の乱は収束しました。

越後上杉氏の内紛に介入し、自滅する

ところが、永正4(1507)年、弟・房能が、守護代となった長尾為景と同族の上杉定実に攻められ、自刃に追い込まれてしまいました。そこで、弟の仇討ちを名目に越後にまで攻め込んだ顕定は、為景と定実を追放して越後を掌握します。

しかし、ここでの顕定の統治方法に、越後の諸将は一斉に反発しました。すでに山内上杉氏の者となっていた彼は、すでに越後では余所者だったのかもしれません。やがて長尾為景が息を吹き返したため、顕定は劣勢に追い込まれていきました。そして永正7(1510)年、長森原の戦いで為景方の高梨政盛に敗れ、自害したのです。57歳でした。

44年間も関東管領に君臨した顕定は、戦乱の渦中にあった関東において、山内上杉氏の存在感を発揮しました。しかし彼の死後、2人の養子が争い、内紛続きの山内上杉氏は衰退へと向かいます。顕定は、崩壊しそうな山内上杉氏を懸命に支えた屋台骨だったのです。


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