文明開化の肉食ノススメ、広告塔は明治天皇だった?

明治維新を迎え世界に門戸を開いた日本。しかし欧米人と向かい合った新政府の役人たちは愕然とします。

「体格が違い過ぎる…」

明治初期の頃日本人の平均身長は男性が155cm、女性に至っては145cmほどしかありませんでした。欧米人は国によりばらつきはありますが、日本人より10cm以上は高身長です。彼らと対等に競いあうには、まず体格差を何とかしなければなりません。

やはり肉を食わねば

これから欧米列強に伍して富国強兵を計り、学問でも技能・芸術でも張り合って行こうとしているのに、こうも体格差があっては向き合うだけで気圧されてしまいます。

「何とかせねば…」

明治新政府の役人たちは焦りました。この差はどこから来ているのか?人種の違いもあるでしょうが、考えられる主原因は日本人の食生活です。

日本では古来四つ足、つまり獣の肉は食べるものでは無いとされて来ました。しかし肉食民族の欧米人と競い合うには、瞬発的エネルギーに結びつく高カロリー・高脂肪の獣肉食が必須です。そうは言っても長年獣肉を禁忌とし、1000年以上も食べなかった一般の人々がいきなり食べられるものではありません。はて何としたものか。新政府の役人の中にも知恵者が居ました。

「そうだ、陛下に召し上がっていただこう…」
「そうだ、陛下に召し上がっていただこう…」

日本人の頂点に君臨する天皇が召し上がれば、庶民の肉食への忌避感も薄れるのでは無かろうか。早速「陛下獣肉を召し上がるプロジェクト」が発足します。

本当は獣肉も食べていたんですけどね

かつて、仏教に篤く帰依した天武天皇は、西暦675年「殺生肉食禁止の詔」を発布しました。

これは牛・馬・犬・鶏・猿の五畜の肉を食べるのを禁じた命令で、それ以来、日本人は表向きは獣肉を食べませんでした。もっとも裏では薬喰いと称して猪や兎・鹿などを食べていましたし、飢饉の時には禁忌などは知った事ではなかったでしょうけどね。

江戸時代にもなれば、田畑を耕したり荷物を運ばせたりと身近に居る牛や馬は別として、獣肉も一部の人間にではありましたが結構食べられていました。人足や博打打ち下級女郎などが精を付けると称して、猪肉や鹿肉を牡丹・紅葉と呼んで、ももんぢい屋から買い求め鍋に仕立てて味わいます。

「ももんぢい屋」とは江戸の街に近い村々で村人が捕らえた山の獣の肉を買い付け、江戸へ運んで庶民相手に売る商売人の事です。商売として成り立って居たのですから、それなりに買い求める人は居たはずです。

他方、一般庶民の食事は米・麦の主食に野菜の取り合わせが普通で、蛋白源は納豆や豆腐などの大豆食品や魚肉に依存していました。現在ではいっそ健康的とされるような内容ですが、肉食大好きの欧米人相手にファイティングポーズを取るには心許ない内容です。

本来は和風好みの明治天皇

明治天皇も皇后も本来は和風の生活様式や食事を好まれ、肉食はお好きではありませんでした。しかし日本人の体格向上に役立つのなら私が率先して食べて見せようと、君主としての使命に従われます。

そうは言っても天皇もいきなり肉食に臨まれたわけではありません、それは無理でしょう。まず毎日2合の牛乳を飲むことから始められます。そして日を決めてしかるべき人々を招き、肉食を楽しむ食事会を開くと決定されます。

予定された食事会の前年の8月には、三条実美ら高官を招いて宮中で西洋料理を試食するなど、着々と肉食解禁の準備は整えられて行きました。

宮中晩餐会

明治5(1872)年1月24日、宮中の学問所に大臣や参議が招かれます。参列した者の日記によると、「西洋料理の晩餐に陪せしめたまふ」と書かれています。

※単なる晩餐会のイメージです
※単なる晩餐会のイメージです

明治天皇を囲んで、一同で大いに獣肉を味わおうではないかとの趣向で、後藤象二郎・副島種臣・江藤新平・井上馨など錚々たる維新の重鎮の顔が並びます。

明治天皇のこの日の回顧録には、「肉食は養生のためよりも、外国人との交際に必要だから食べたのである」と大久保利通に伝えたと書かれています。

欧米の使節団をもてなすのに、獣肉抜きの魚ばかりの日本料理では具合が悪かったのです。天皇の肉食にはこのような意味もありました。

政府の日本人肉食解禁計画は手順を踏んで練られたものであって、明治政府の指導者たちは豚・牛・鹿・猪・兎・羊の獣肉を解禁し、天皇に範を示していただき日本の近代化を進めようと考えていました。食事会の開かれる前年の明治4年に天皇は「食肉を禁ずるはその謂なし」との言葉も述べておられます。

敬うべき先祖の天武天皇の言葉に対し、「謂れなし」と言い切るのはずいぶん思い切った言い方ですが、それほど強い言葉で言い切らねば庶民が肉を食べるようにはならなかったのでしょう。

晩餐会開催当時の新聞「新聞雑誌」はこの日の事を、

「我が朝においては、中古以来肉食を禁ぜられしも、恐れ多くも天皇はこれを謂れのない事と思召して、これより肉食をあそばさるる旨宮内にお定めこれありと伝う」

と書いています。

おわりに

さて、天皇陛下まで動員した政府の肉食奨励策は、日本国民に行き渡ったのでしょうか。

福沢諭吉が初期の牛鍋屋の風景を書いていますが、

「およそ人間らしい人で出入りする者は居ない。彫り物だらけのごろつきや緒方塾の書生ばかりだ。肉も老牛や病死した牛のもののようで、随分固くて臭かった」

だそうです。一般家庭でも肉が食べられ始めるのは、明治も後半を待たねばなりませんでした。


【主な参考文献】
  • 川村 邦光『日本民族文化学講義』(河出書房新社、2018年)
  • 本田 豊『絵が語る知らなかった幕末明治のくらし事典』(万来舎、2012年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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日月
いくら新しもの好きの日本人でも、いきなり獣肉を食べるのには抵抗があったんですね。興味深い記事でした。
2022/11/17 11:59