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悲劇の美女・細川ガラシャ最期の地「越中井」とは?
- 2024/03/19
明智光秀の娘・ガラシャ
細川ガラシャの本名は明智玉(玉子)。明智光秀の娘として産まれ、聡明かつ美人であったと評判でした。15歳の時に織田信長の勧めで細川忠興に嫁ぐことになります。政略結婚ではありましたが、二人は同じ年で美男美女と評判であり、理想の夫婦だと言われていたといいます。
夫となった細川忠興は戦国武将として名を上げていき、二人の間には子供も生まれ順風満帆な生活を送っていたそう。しかし本能寺の変が起こり、細川ガラシャは謀反人の娘となってしまいます。織田信長の家臣が報復として明智光秀の娘=細川ガラシャを狙うことを恐れた忠興は、ガラシャを幽閉して守ります。この時離縁したという説もあるといいますが、かたちだけのものだったようです。
その後、無事屋敷に戻ったガラシャですが、忠興が九州平定に出陣している間にキリスト教の教えに傾倒。洗礼を受けることになります。しかしこの時期は秀吉による「バテレン追放令」が出ていた頃。忠興も困り果てますが、結局はガラシャの信仰を許していたと言われています。
実はこの頃、忠興が側室を持つと言い、ガラシャは離婚を考えるなど一時期は二人の間に微妙な空気も漂っていたといいます。しかし宗教的に離婚は認められません。ガラシャは思いとどまっていたと言われています。
ガラシャの最期
そして秀吉死後、関ケ原の戦い(1600)で石田三成が挙兵。石田三成は細川家の屋敷を取り囲み、ガラシャを差し出すように迫りました。ガラシャはこれを拒絶。ガラシャは祈った後で屋敷内にいた女子供を逃し、家老に介錯をさせ自害。キリスト教では自害は禁じられているため、介錯をさせたと言われています。また、その遺体が残らないように火をつけ、家老も自刃しました。この時はガラシャの子や、長男・忠隆の正室で前田利家の娘だった千世も逃れることができました。
石田三成はこの壮絶なガラシャの最期を見て、大名の家族を人質にとるという方針を覆さざるを得なかったと言われています。
ガラシャの骨は神父が密かに広い、大阪・堺にあるキリシタン墓地に葬られました。忠興も大いに悲しみ、後にガラシャを教会葬にするなど見送ったそうです。
越中井とは
越中井はその時の細川の屋敷跡になります。ガラシャが火を放ち亡くなったあとの細川屋敷の焼け跡には、台所の井戸が焼け残っていたといいます。
細川忠興が越中をおさめていたことから「越中井」と呼ばれるようになりました。江戸時代を通して保存されており、江戸時代でも「観光地」「史跡」というような扱いだったそうです。それほど細川ガラシャの物語は有名であり語り継がれていたのかもしれません。
その後、井戸は大正時代に一旦埋め立てられたといいますが、地元の住民らによって復元され保存されています。
現在の越中井を訪れてみました。
石造りの井戸と地蔵堂、石碑があり、ガラシャの辞世の句である
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
が刻まれています。
ここから大阪城まではすぐそば。細川家をはじめ大名屋敷が周囲に立ち並んでいた風景が思い起こされます。かつてこの周辺は越中井にちなんで、「越中町」という地名もついていたといいます。
おわりに
細川ガラシャは数々の不幸や不運があり、悲しい最期を遂げることになりました。しかし最後まで戦国時代の武将の妻として生き抜いた強い女性だったのかもしれませんね。ガラシャのや名前が付いたゆかりの史跡などは越中井だけでなく全国にあります。ガラシャの子孫はその後も繫栄し、現代まで血脈が続いています。戦国時代は武将に注目しがちですが、その家を支えた細川ガラシャのような女性にも注目してみてください。
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