細川ガラシャはなぜキリシタンになったのか?
- 2021/01/08
細川ガラシャといえば、名門細川家の細川忠興の正室であり、信長を討った明智光秀の娘としても知られていますね。
父・光秀の謀反とその失敗により、一転して謀反人の娘となった彼女は、細川家にかくまわれる形で若かりし日々を過ごすことを余儀なくされてしまいます。そんな過酷な日々を耐え忍んでいたガラシャは、とある日、キリスト教と出会い、その信仰に惹かれるようになっていくのです。
本記事ではガラシャがキリスト教を信仰するに至った経緯と、キリシタンとなるまでのガラシャの行動にフォーカスして見ていきます。
父・光秀の謀反とその失敗により、一転して謀反人の娘となった彼女は、細川家にかくまわれる形で若かりし日々を過ごすことを余儀なくされてしまいます。そんな過酷な日々を耐え忍んでいたガラシャは、とある日、キリスト教と出会い、その信仰に惹かれるようになっていくのです。
本記事ではガラシャがキリスト教を信仰するに至った経緯と、キリシタンとなるまでのガラシャの行動にフォーカスして見ていきます。
彼女の正式名称は「たま」あるいは「玉子」ですが、キリシタンであったことから「ガラシャ」という名称で親しまれるようになり、現代ではこちらの名称のほうが一般的です。こ記事でも「ガラシャ」の呼称で統一します。
ガラシャがキリスト教と出会ったころの時代背景
細川ガラシャは織田政権時代、明智光秀の娘という間柄から、必然的に光秀の上司にあたる織田信長の影響を強く受けていました。信長はキリスト教の布教に寛容であり、自身もキリスト教に興味を示していたために、特にイエズス会の宣教師らと深いつながりがありました。『日本史』を執筆したルイス・フロイスなどがその代表例です。
こうした背景からか、信長配下の将もキリスト教の文化と触れ合う機会が多く、高山右近などのようにキリシタンであることを公言する大名もいたほどです。
そして、光秀もフロイスらと交流があったために、史料こそ見つかっていませんが、幼少期のガラシャもキリスト教を身近に育っていたことは容易に推測できます。ただし、フロイスは光秀をあまり評価していなかったようで、『日本史』の中で光秀を「優秀な人間とは思うが、裏切りと陰謀を好む男だ」と評しています。
キリスト教を身近に育っていったと思われるガラシャですが、冒頭でも触れたように本能寺の変によって信長は死に、光秀も秀吉に討たれることになります。
その後、秀吉が信長後継の座を勝ち取ったのは周知のとおりですが、秀吉はキリシタンの弾圧を進めたことでも有名です。天正15年(1587)6月にはバテレン追放令が発布されており、ガラシャがキリスト教に入信したのはそのすぐ後です。
これはガラシャが洗礼を受けたころには既にキリシタン弾圧の動きがみられた、ということを意味します。ただでさえ謀反人の娘として立場を悪くしていたガラシャのこの行動には、彼女の意志の強さを感じさせます。
次からはガラシャがキリシタンになるまでの経緯をみていきましょう。
キリスト教と出会い、興味を示すガラシャ。
ガラシャが教会を訪れたのは生涯でただ一度だけ。それはバテレン追放令発布の少し前、豊臣政権による九州征伐で夫忠興が同年2月から留守にしたときのことです。当時のガラシャは忠興によって半ば軟禁の状態にあったため、これは相当に思い切った行動であったことでしょう。このときの教会訪問の様子はフロイスの『日本史』や本国へと送られていた書翰に記されているので、それを元にみていきます。
当初のガラシャは仏教徒であり、現世を顧みようとしない彼女の価値観は忠興を心配させ、それが原因で言い争いをすることも多かったようです。それを耳にした高山右近は、忠興と親交が深かったこともあって、キリスト教のことを彼に話したそうです。それを忠興がガラシャに対して語ったところ、彼女はキリスト教にたいそう興味をもったとされています。
このようにしてキリスト教に関心を示したガラシャは、忠興の留守中に侍女数人を引き連れ、大坂の教会へと出向いて教示を聞いたとされています。
教会訪問で洗礼を望むも、叶わず…
教会でガラシャに対応したのは、日本人修道士とスペイン人のセスペデスという宣教師でした。彼はガラシャが高貴な身なりをしており、非常に優れた人物であることを見抜きました。しかし、彼自身はあえてガラシャとは深く対話しなかったとされています。この理由は、先行研究ではセスペデスに「ガラシャと対話できるだけの優れた日本語力がなかったから」であると解釈されていました。
ガラシャはキリスト教に関する思慮深い対話をいくつか交わしたのち、洗礼を授かることを強く望みました。しかし、セスペデスはそれを認めず、次の機会にしたほうがよいと判断を保留にしています。この理由は、ガラシャの高貴な身なりと大坂という場所を考慮した結果、彼女を秀吉の側室だと考えたためとされています。
キリスト教の教義で側室の存在そのものは禁止されていませんが、原則として一夫一妻制を強調しているという特徴があります。それゆえに、明らかにそれに反する側室という立場の女性に洗礼を授けなかったとしても不思議ではありません。
また、ガラシャが教会訪問中にバテレン追放令が出されたことで、秀吉の側室に洗礼を授けることは、秀吉の意に沿わない行動となるだけでなく、側室自身の身にも危害が及ぶ、と考えたのかもしれません。
悲願のキリシタンへ
先ほど「生涯一度」と書いたように、再び教会を訪問することは叶わなかったガラシャでしたが、侍女を教会に派遣して情報や書物を入手していたようです。また、彼女は依然として洗礼を授かれなかったものの、侍女たちは次々と洗礼を授かっていきました。さらに、侍女だけでは物足りず、ガラシャの警護を担当していた細川家家臣の小笠原小斎をも教会に派遣しています。
こうした状況下、同6月19日に秀吉からバテレン追放令が発布されます。
バテレンとは、ポルトガル語で「padre(神父)」の意味に由来します。ゆえに、バテレン追放令はあくまで宣教師の国外退去を命じたもので、個人のキリスト教信仰を否定するものではありません。しかし、ガラシャはこれを深刻に受け止めており、弾圧が強まれば殉教も厭わないという強い決意をみせています。
こうした強い決意と、バテレン追放令によって宣教師が大坂からの退去を余儀なくされたという事情があったために、ガラシャもついに洗礼を授かることになりました。
ガラシャの洗礼を担当したのはイタリア人宣教師オルガンティーノで、洗礼そのものは既に洗礼を授かっていた侍女のマリアを介して行われました。これは、忠興の監視によってガラシャもオルガンティーノもお互いのもとを訪ねることができなかったためです。
こうしてオルガンティーノの手ほどきによりマリアを通じて洗礼名「ガラシャ」を授かり、ついに悲願であったキリシタンとなったのでした。
まとめ
ガラシャは、その後もカトリックとして生涯を過ごしました。ただし、忠興は家庭内で奇行に走ることも少なくなく、ガラシャがそれから逃れるために殉教や離婚を真剣に考えていた様子が史料から読み取れます。しかしながら、カトリックの教えでは原則離婚を認めていないため、オルガンティーノはガラシャに離婚を思いとどまらせるのに苦労したようです。それでも、最終的にガラシャは宣教師の教えを理解し、主への奉仕を約束したと書翰には書き残されています。
ただ、こうして教義によって離婚を禁止されたことが引き金となり、ガラシャは壮絶な最期を遂げることになります。
おそらく、ガラシャもオルガンティーノの教えを受け入れたことで、自分が忠興の監視下から逃れられないことを理解していたでしょう。それでもなお、彼女自身の意思や希望をこらえてまで宣教師の説得を聞き入れたという点に、彼女の聡明さの一端が垣間見えるのではないでしょうか。
【主な参考文献】
- 上総英郎編『細川ガラシャのすべて』新人物往来社、1994年。
- 安延苑『細川ガラシャ』中央公論新社、2014年。
- 田端泰子『細川ガラシャ ―散りぬべき時知りてこそ― 』ミネルヴァ書房、2010年。
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