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「日本の下層社会 2023」 執行猶予付の殺人事件判決

ACフリー写真
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 殺人事件というのは重罪なので判決に執行猶予が付くことは、まずありません。しかし、これまでに執行猶予が付いた判決が言い渡された殺人事件が数件あるのをご存じでしょうか?

 執行猶予というのは、猶予期間中に刑事事件を起こさずに無事に経過したら「判決で決定した刑罰は消滅する」という制度です。つまり「殺人を事実上、罰しない」のと、ほぼ同義なのです。

 一体、どんな事件であれば、そんな判決が出るのでしょうか?今回はその数件のうち、最も有名な「ある殺人事件」をご紹介します。

生い立ち

 昭和27年(1952)、Rは京都の伝統染色技法、京友禅の職人の父と母の長男として京都に生まれました。父親は「名人」と呼ばれる人で有名でもありました。ですので相当に裕福な家で、一人息子のRは、子供の頃は欲しい物は何でも買ってもらえたそうです。

 高校を卒業したRは父の元で修行を始め、自らも「染物職人」の道を歩き始めます。高度成長経済の波にのり、高級和服の需要は豊富にあり、R一家の将来は順風満帆に見えました。

暗転と悪化 そして限界へ

 しかし時代が経つにつれ、和服の需要は段々と少なくなり、特に高級和服の需要は極端に減ってしまいます。日常生活で和服を着る女性が少なくなり、必要な場合(成人の日、結構式など)はレンタルするようになったことが主たる原因と思われます。

 Rが染物職人の道を歩み始めて15年目、ついに家業の染物屋は廃業に追い込まれてしまいます。33歳だったRは仕方なく、警備員や工場の作業員として働き始めました。当時はバブル景気と呼ばれる空前の好景気でしたが、さすがに33歳という年齢で職人の経験しかないRを正社員として雇ってくれる会社は無かったのです。

 父親も母親も既に60歳を超えており、当時の感覚では、もう仕事が出来る年齢ではありませんでした。また職人は、いわば個人事業主なのでサラリーマンのような厚生年金ではありません。父親と母親の国民年金は「2か月ごとに二人分で10万円」、ひと月にすると5万円にしかならず、一家3人が暮らすには、あまりにも少なすぎました。つまりRの稼ぎが一家を支えていたのです。

 そして平成7年(1995)に父親が病死してしまいます。母との二人暮らしが始まったRですが、父親の年金がなくなり、さらに経済的に苦しくなります。そこへ母の様子がおかしくなってきたのです。病院で診察してもらった結果は「認知症」とのことでした。

 しかもバブル崩壊のあおりを受け、Rは会社からリストラされてしまいます。やむなく親戚から30万円を借り、さらに親族が持っているアパートに半額の家賃(月3万円)で住まわせてもらい、そして必死に仕事を探した結果、何とか派遣従業員の仕事を得ることができました。

 しかし母の認知症は進行。特に深夜になると30分から1時間おきに起きて来て、一人で外に出ていこうとするのです。ですのでRは昼間は仕事に行き、帰ってくると次の日の朝まで一晩中、母の対応をせねばならず、慢性的な睡眠不足に襲われます。一睡もせずに朝、出社することも珍しくなかったそうです。

 そしてある日のこと、Rが会社で仕事をしていると警察から電話があり、徘徊していた母が保護されていると知らされます。

「もう仕事は無理だ…」

 母の介護のために仕事を止めざるを得ない、とRは考えましたが、自分の職歴と年齢では再度仕事を見つけるのは難しいことが分かっていたので、とりあえず休職という形にして、母の介護に専念することにしました。

 収入は2か月ごとに5万円の母の国民年金だけとなりました。しかしRはこの時、初めて介護保険サービスを申請します。これまで自分1人だけで世話をしてきたのですが、やっと誰かに助けてもらう必要性を感じたのです。

 ケアマネージャーが付き、検査の結果、母は ”要介護3” と認定され、一週間に5回のデイサービスに行くことになりました。しかしデイサービスも無料ではありません。もう経済的に限界を感じたRは区役所の福祉事務所に行き、生活保護を受けられないか相談します。しかし、休職という形にしていることが問題になったようです。休職ということは無給ながらも、まだ会社に籍を置いていることになります。福祉事務所の係員に「働けるのだから頑張って欲しい」と言われ、Rは福祉事務所を後にします。

 Rは生活保護を受けられなかったことをケアマネージャーに伝えました。驚いたケアマネージャーは市に問い合わせますが、明確な答えは帰ってきません。やむなくケアマネージャーは社会福祉協議会の貸付制度を利用したらどうか、とRに勧めましたが、この貸付を受けるには保証人が必要でした。また、Rには返せるめどもありませんでした。

「親族にこれ以上、迷惑は掛けられない…」

 その提案を断りました。

 母の認知症はさらに進み、毎晩のように外へ出てゆこうとします。この状況では復職もできないと考えたRは会社に退職届を出し、失業保険を受け始めます。この段階でもう一度、福祉事務所に相談に行ったのですが、失業保険を受けていては生活保護は認められないとのことで断られてしまいます。

 経済的に行き詰ったRはデイサービスを2日に減らし、食費も押さえました。母には1日に2回の食事をさせましたが、自分は2日に1回だけの食事で我慢したのです。しかし失業保険の給付は3か月で終了し、その年の11月で給付は終了してしまいます。家賃は毎月、月末までに次月分を払う決まりでしたのでRはカードローンを使い、何とか年末に1月分の家賃、3万円を工面して支払いました。

 そして年が開けた2006年1月になって先月のデイサービスの料金として3600円の請求が来ます。Rはカードローンで最後の1万円を借り、それを払います。これでRがお金を工面する手立ては全て無くなり、残った6400円が全てでした。母の次の年金支給日は2月中旬で1月31日までに払わなければならない2月の家賃には間に合いません。それに一か月あたり2万5千円の年金では、その次の3月分家賃を払える見込みは全くありませんでした。

 Rは絶望感に襲われます。

「もうこの家に住むことができない。出て行って死ぬしかない…」

 そう考えるしかありませんでした。そして半額の家賃で住まわせてくれた親族宛の遺書を書きます。

1月31日

 1月31日の家賃の支払い期限の日、Rはいつも母に買っていたパンとジュースを買い、2人で食べました。そして電気のブレーカーを落とし、部屋を出て母を車椅子に乗せ、生まれ育った街を母と一緒に歩き、思い出話をしながら、京都の繁華街も歩きました。そして日が暮れて午後7時になると母が「家に戻ろうか」と言いました。

 Rは車椅子を押しながらアパートに戻ってきましたが、そのままアパートを通り過ぎ、桂川の河川敷に行きました。しかし1日中歩き回って疲れていたためか、Rと母はその河川敷で寝込んでしまったのです。

 朝が来て、母が目を覚まします。そして目を覚ました母にRは言いました。

R:「もう生きられへんのやで。ここで終わりや」

 母が返答をします。

母:「そうか、あかんのか」

母:「R、一緒やで。お前と一緒や」

 Rは何度も母に謝ります。

R:「すまんな。すまんな。」

 すると母は「こっちにこい」と言ってRの頭を掴んで、自分の額にくっつけて言いました。

母:「お前はわしの子や。わしがやったる」

 しかし車いすの母に何が出来るはずもありません。Rは母の、その言葉で覚悟を決めます。母の首にタオルを巻いて締めると、母はけいれんを起こして苦しみました。やむなくRは用意していた包丁で母の首の左側を切り、抱きしめました。やがて母が息をしなくなったのが分ったそうです。

 それからRは包丁で自分の腹を切りましたが死に切れません。次に木にロープをかけて首を吊ろうとしますが、途中でロープがほどけてしまったらしく、Rは落ちてしまい気を失います。そして通りかかった通行人が2人を発見、警察に通報したのです。

裁判

 生き残ってしまったRは「承諾殺人」という罪状で起訴されます。承諾殺人とは、殺される側が殺されることを承諾している殺人罪のことで通常の殺人罪とは異なる罪です。主に心中しようとして生き残ってしまった人が問われることが多い罪であり、通常の殺人罪よりは軽い刑罰になります。

 京都地裁で開かれたRの裁判では、Rのたどった悲惨な境遇をマスコミが報道し、全国的に取り上げられました。この裁判では検察側も事実だけを淡々と述べ、懲役3年を求刑しますが、最後に「犯行動機には同情の余地がある」と締めくくりました。そして裁判官はRに以下の判決を言い渡します。

主文、被告人を懲役2年6ヶ月、執行猶予3年に処す。
 判決理由、母親の同意を得たとはいえ、尊い命を奪った刑事責任は軽視できない。しかし被害者は被告人に十分に感謝こそしても、決して恨みなど抱いていない。被告人が厳罰に処せられることなく、今後は幸せな人生を歩んでいくことを望んでいるだろうと推察される。よって自力で更生し、母親の冥福を祈らせることが相当と判断する。

と判決、および判決理由を述べたあとに、

「裁かれているのは日本の介護制度や行政であり、とりわけ生活保護の相談窓口の対応が問われていると言っても過言ではない」と付け加え、最後に「自分を殺めることはしないようにして、お母さんのためにも幸せに生きてください」とRに諭し、裁判は終了しました。検察側も上告はしませんでした。

 実はここまではご存じの方もいらっしゃると思います。この事件はあまりにも悲惨なので発生当時、相当にマスコミに取り上げられたからです。休職中、失業保険給付中であれば生活保護は受けられないでしょう。これはちょっと考えれば分かることですが、Rにはそういった判断が出来ませんでした。世の中の仕組みにうとかったのです。失業保険終了後になぜ再度、相談しなかったのかが悔やまれます。

 生活保護の窓口相談員の対応に非難が集中しましたが「休職中」「失業保険給付中」では認める訳にいかないのは当然です。ですが「失業保険が終わったら来て下さい」の一言くらいあってもよかったのではないか?それが福祉に携わる人のあるべき姿ではないか、とも思えます。

 しかし実際に窓口対応をする訳ではない責任者は予算を守るため、窓口担当者には「出来るだけ認めないように」という指示を出しているとも言われています。上司と目の前の困窮した人達の狭間で苦しむ窓口担当者の姿が垣間見える話です。

 また、職人であった父親は常々Rに「人に迷惑をかけることだけはするな」と教えていました。今でも、生活保護は「人様に迷惑をかけることになる」といって受けようとしない人達がいます。すべての責任を行政に押し付けるのは簡単ですが、実情はそれほど簡単ではないのです。その一方、生活保護を悪用する人達も多くいることも良く知られています。いかに生活保護の窓口担当というのが難しい仕事であるか、も考えねばならないことの1つと言えるのではないでしょうか。

 この事件は裁判が終わるまで相当にマスコミに取り上げられましたが、裁判が終わるとマスコミは引き揚げてしまいました。ですので「その後のR」については、あまり知られていません。そこでその後のRについて述べてみましょう。

その後のR

 裁判は終わりましたが、行く宛のないRをどうしようかと親類で相談した結果、親類が多く住む滋賀県内に6畳1間に小さなキッチンのついた月2万2千円のアパートを借り、Rを住まわせました。そして親類の1人が身元引受人になり、木材会社の仕事も用意してくれたため、Rはそこに住み、木材会社で働き始めました。会社では黙々と真面目に働き、評判は良かったそうです。

 身元引受人になった親類はRのアパートで酒を一緒に飲み、昔話をしたこともあったそうです。当時、その木材会社は60歳定年制になっており、Rも2012年に定年を迎えましたが、会社側は1年単位の再雇用契約を結んでくれたため、Rはまだ会社で働けることになりました。しかし2013年になると、会社も不況に襲われ、Rとの契約更新もできなくなり、Rは失業します。

 それからのRはアパートに引きこもり、周囲との接触を避けるようになってしまいました。身元引受人になってくれた人からの電話にも出なくなってしまったのです。おそらくこの時期は貯金を切り崩して生活していたと推測されます。そして2014年の春、身元引受人の親類にアパートの大家から「7月末に契約が終了するが、本人がおらずに更新か終了か確認できない」という連絡が入ったのです。

 鍵を開けて部屋に入ってみると窓がすべて閉まっており、電気のブレーカーも落とされていて郵便物もどっさり貯まっていました。Rは行方をくらましていました。当時、Rは原付バイクを持っており、それに乗ってどこかに行ってしまったものと思われました。警察に捜索願を出しましたが、一向に行方は分かりまん。そして同年の8月1日、びわこ大橋の上から飛び降りた人がいる、という一報が警察に入ります。それがRでした。

 ウェストポーチを付けており、中のメモには

「自分と母のへその緒を一緒に焼いてほしい」

と書いてありました。所持金は数百円でウェストポーチにはへその緒が2箱入っており、それがRとRの母のものと思われました。後に調べてみると、貯金も底をついていました。アパートから姿を消し、びわこ大橋から飛び降りるまで、どこでどうしていたのかは今も不明です。びわこ大橋のたもとにはRの原付バイクが置いてありました。

 Rは7月31日がアパートの更新期限だということを知っていたと思われます。ですので期限を過ぎてしまった8月1日に飛び降り自殺を決行したのです。前回の時と同じく、今回も「アパートの期限」が決行日となったのです。

 遺体はメモの希望通り、2人のへその緒と一緒に焼かれました。身元引受人になった男性は、こう語ります。

「困った人を救う制度がないわけではないし、何でも行政が悪いとは私は思いません。でもRのように制度を使いたいけど使えない、或いは使わない人間もいるということですかね。そんな不器用な人も手を差しのべる公の何かがあれば、と感じます」

 多分、Rは父親の言った「人に迷惑をかけることだけはするな」という戒めをかたくなに守っていたのではないかと思われます。そしてRにとって生活保護という制度を使うことは「人に迷惑をかける行為」としか映らなかったのかもしれません。なぜ、木材会社を辞めさせられた時に生活保護を申請しなかったのかを考えると、他に理由が思い浮かばないのです。

 日本は平均年齢の伸びとともに少子高齢化社会に突入し、高齢者を支えることが難しくなってきているという現状があります。特に認知症を患った高齢者の中には大声を出して騒いだり、徘徊してしまう人もいます。こういった症状がある場合、施設側でも受け入れてはくれない、というのが現状です。何しろ施設側も担当者一人で20人以上の高齢者の面倒を見ているのですから問題行動を起こす人を受け入れる余裕などないのです。

 またご存じのように年金制度も生活に十分な金額は支給されておらず、生活保護を受けている人の半分は高齢者世帯なのです。しかし、それらの人達はまだ良いほうです。Rのように生活保護という制度があっても、それを使おうとしない人達も多く、わずかな年金で何とかしのいでいる高齢者世帯は生活保護を受けている世帯の数倍以上いるのではないか、とも言われています。

 そうした中、Rと同じではありませんが、やはり介護が原因となった”介護殺人”はどんどん増えてきており、社会問題化しても良い状況なのに、マスコミはそれを報じようとはしません。それはお茶の間に相応しい話題ではないからかもしれません。

 このように多くの問題を抱える日本の高齢者対策は一向に改善が見られません。いわゆる「団塊の世代」と呼ばれる昭和22~24年(1947~49)生まれの方は2023年現在、74歳~78歳になっています。そして日本の現在の平均寿命は男性が81.47歳、女性が87.57歳であり、団塊の世代の方達が平均寿命に達するまで、あと10年くらいかかる見込みです。

 不謹慎な計算になってしまいますが逆に言うと、あと10年経ち、2030年代半ばになるとこの問題は自然消滅してくれそうなのです。「もし10年経てば、この問題は自然消滅する。だから積極的な改善策を打ち出しても無意味」と考えている政治家がいるのであれば、それはとんでもない話である、とだけ述べておきます。


【参考文献】
  • 毎日新聞大阪社会部取材班『介護殺人 追いつめられた家族の告白』(新潮社、2016年)

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  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

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