新選組監察・山崎烝 池田屋事件における探索の実際のところは?
- 2023/11/17
新選組の名を一躍とどろかせた池田屋事件(1864)。数々のドラマや映画、小説として描かれ、よく知られた事件である。その池田屋へスパイとして潜り込んでいたとされる山崎烝(やまざき すすむ)が今回の主役である。
新選組の優秀な監察であった山崎が、その手腕を思う存分発揮し、池田屋での新選組の活躍を後押しした。池田屋事件はまさに山崎烝にスポットライトが当たった事件と言えるが、そのときの山崎の行動は、ほとんどがフィクションだった。
とはいえ、山崎の探索スキルは、新選組内ではなくてはならないものであったことは確かだ。池田屋事件の際、山崎は何をしていたのか? そもそも山崎烝とはどのような人物だったのか?
今回は、新選組における山崎烝の活躍ぶりと、その人物像を探ってみた。
新選組の優秀な監察であった山崎が、その手腕を思う存分発揮し、池田屋での新選組の活躍を後押しした。池田屋事件はまさに山崎烝にスポットライトが当たった事件と言えるが、そのときの山崎の行動は、ほとんどがフィクションだった。
とはいえ、山崎の探索スキルは、新選組内ではなくてはならないものであったことは確かだ。池田屋事件の際、山崎は何をしていたのか? そもそも山崎烝とはどのような人物だったのか?
今回は、新選組における山崎烝の活躍ぶりと、その人物像を探ってみた。
不明確な山崎烝の経歴
山崎烝の生い立ちは、あまり詳しいことがわかっていない。大坂に住んでいた医者(薬屋か?)の息子と言うのが定説だが、壬生村の針医者の息子だったとも言われている。生まれは天保4年(1833)ごろと伝わっており、近藤勇や土方歳三とほぼ同年代だったと考えられる。新選組に入隊する以前の経歴についても、ほとんどわかっていない。
新選組入隊
山崎が新選組に入隊した時期についても、文久3年(1863)秋頃か、元治元年(1864)年春頃とはっきりしていない。京や大阪について詳しく、文筆の才があり、非常に有能であったようで、諸士取調役兼監察と副長助勤を兼任していた。入隊時期が明らかになっていないのも、探索のために変名を使用したり、新選組とは別行動をとったりすることが多かったためだと考えられる。
池田屋事件前後の山崎
山崎の活動が初めて記録上に出てくるのは、池田屋事件のときである。同じ監察方で、明治まで生き残った島田魁の手記には、「共に長州藩士の探索に当たった」とあり、忍耐強い探索の結果、四条小橋の古道具屋・枡屋が過激派尊攘浪士の古高俊太郎であることを突き止めた。古高逮捕が池田屋事件につながり、尊攘浪士の御所焼き討ちなど、過激な行動を阻止したのである。
ただ、新選組が浪士の集まる池田屋へたどり着くまでには、四条から三条までにある宿を近藤隊・土方隊がローラー作戦で調べている。ということは、事前に池田屋がターゲットだとはわかっていなかったということだ。
もしもドラマや小説の通り、山崎が池田屋に潜入していたのなら、そんな手間をかける必要はない。ましてや隊を2つに分ける必要もなかったはずだ。このことから、おそらく山崎は、別の探索を行っていたか、もしくは土方隊として共に宿改めを行っていたのではないだろうか。
山崎が報奨金名簿に載っていなかった理由とは?
仮に山崎が、池田屋事件に出動していたとすると、1つおかしな点が出てくる。池田屋事件の後、新選組は報奨金が与えられたが、その名簿に山崎の名が見当たらない。つまり池田屋において山崎は活躍していなかったとされているのだ。
実は池田屋事件当時、新選組では食あたりや夏バテで多くの隊士が床に伏していたことから、限られた人数で出張ったと言われている。山崎もその一人だったとの考え方もできるが、前日まで古高俊太郎の探索をしていたのであるから、その可能性は限りなく低い。となると、やはり別の探索活動に入っていたと考えるのが最も妥当だろう。
少しドラマチックに考えるなら、スパイ活動の多い山崎の名は、あえて報奨金名簿には載せず、土方あたりから個人的に何かしらの褒美金を手渡したということも…。
まあこれは、新選組ファンとしての希望や妄想に近い推測でしかない。
監察方・山崎の活躍ぶり
池田屋事件以外に山崎が関わった案件は、もちろんほかにも多数考えられる。しかし、監察方という仕事柄、史料として残されているものは少ないだろう。ここでは客観的に事実だとされている案件についてのみ紹介しておく。禁門の変
池田屋事件から1か月余り後、長州藩の久坂玄瑞らが軍勢を率いて京へやって来る。天龍寺や天王山などに陣を置き、京における長州藩の地位を奪還しようと企てた末、会津藩・薩摩藩と衝突したのが「禁門の変」(1864)である。山崎は、山崎大三郎と言う変名で、勘定方の河合耆三郎とともに摂津国河辺郡昆陽(こや)宿へ出張している。禁門の変で敗走した長州藩兵から押収した荷物を、大坂へ送る人足手当の手配をするためであった。
第一次・第二次長州征伐
慶応元年(1865)末。禁門の変で朝敵となった長州藩を征伐するため、幕府は諸藩に長州征伐(第一次長州征伐)を命じた。それ以前、新選組は近藤勇以下、数名の隊士が幕府の長州藩訊問使派遣に同行し、山崎もこれに従っていた。近藤たちが帰京した後も、山崎は吉村寛一郎と共に広島に残り、長州藩の情報収集にあたっている。彼らが戻ってきたのは、慶応2年(1866)7月頃で、第二次長州征伐における戦況の報告も行っていた。
侠客とのつながり
諜報活動を滞りなく行うためには、独自の情報が必要不可欠であるが、山崎も多方面にわたる情報網を持っていた。その中には、侠客と呼ばれるアウトロー的な人物もいたようだ。慶応3年(1867)3月、近江国八日市宿の侠客・四郎左衛門が、近江出身の新選組隊士・江畠小太郎を通じて会津藩にある依頼をした。その依頼とは、四郎左衛門が訴えられた事案をつぶしてほしいというものだった。
会津藩はその依頼を新選組に任せており、動いたのは山崎である。すでに村役人が許可した訴訟ではあったが、山崎は村役人と庄屋を脅し、拷問まで行って訴えを取り下げさせた。
京都の治安を守るべき会津藩、そして新選組がなぜこのような依頼を受け、強引なやり方を実行したのか? それは、当時の侠客が持っていた裏の情報網を利用するためだと考えられる。
過激派の尊攘浪士は、さまざまな方法を用いて京に潜入してくる。それを把握し、取り締まるためには、まっとうなルートから得た情報だけでは難しい。そこで侠客に恩を売り、会津藩や新選組にとって有益な情報を取るため、監察方である山崎が動いていたのだ。
公卿とも接触していた監察方
2004年に発表された『新選組隊士山崎丞取調日記』の中には、幕府老中の阿部正外(まさと)、将軍側近の土岐朝昌、大目付の大久保忠寛、軍幹部業の勝義邦(海舟)のほか、諸藩士の名が記されている。また、慶応3年(1867)6月には、近藤勇が摂政・二条斉敬(なりゆき)へ建白書を提出するため、土方が取次である公卿の屋敷へ参上している。取次は、妹が大正天皇の生母となった公卿・柳原前光(さきみつ)と正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)で、土方に同行したのが、諸士取調役兼監察の尾形俊太郎、吉村寛一郎、そして山崎烝である。
新選組の諸士取調役兼監察は、幕閣から公卿まで、幅広いネットワークを持っていた。人斬り集団と言われ、刀を振るうしか能がないと揶揄されることもあった新選組だが、スパイ活動に長じた有能な諜報集団という性質も持っていたのである。
新選組の医師
明らかになっていない山崎の出自だが、医学に関係した家に生まれたことは間違いないようだ。時は遡り、慶応元年(1865)5月。西本願寺にあった新選組屯所へ、幕府の御典医・松本良順が訪ねてきた。屯所を見回った松本は、あまりの不衛生さに、その改善を土方に指導した。同時に、山崎に応急処置や初歩的な西洋医学を指導している。
当時の山崎は、新選組の隊医のような役割もしていた。「我は新選組の医師なり」と笑っていたという逸話も残っており、松本の指導を受けた山崎は、より一層隊士たちの体調を管理し、治療を行ったという。
温厚で忍耐強い
松本良順は、山崎の ”人となり” について、次のような言葉を残している。「もと医家の子なり、性温厚にして沈黙 よく事に耐ゆるあり。勇のもっとも愛するものなりし」
物静かで温厚、辛抱強く、近藤の信頼も深く愛すべき人物だと言っている。初期の新選組屯所であった八木邸の人々は、山崎について「体は大きく背が高くて色黒。寡黙な人」だったと回想している。
山崎は、目立たず辛抱強く、やるべきことをやり口が堅い有能な新選組の探索方として、近藤や土方、そして同僚の島田魁や尾形俊太郎にも絶対の信頼を受けていた人物だったのだろう。
山崎の最期
山崎は、慶応4年(1868)1月3日に勃発した鳥羽伏見の戦いで重傷を負い、大坂から江戸へ向かう途中の船の中で亡くなったと言われている。しかし、実はこれもはっきりとした証拠や史料が残っていない。山崎の最期について、各隊士が伝えているのは以下の通りである。
- 島田魁:京から大阪へ向かう途中の橋本で討死した
- 永倉新八:銃で撃たれて死亡した
- 横倉甚五郎(新選組伍長):淀において討死した
- 近藤芳助(新選組伍長):大坂の京屋忠兵衛宅で負傷している山崎を見た、そして大坂で死んだのではないかと考えていた
その最期までわからないとは、山崎はどれほどスパイ気質だったのだろうか。近藤勇に愛され、土方歳三に信頼され、隊士たちに慕われた山崎烝という男の真実は、このまま明らかにならない方が良いのかもしれない。
おわりに
諸士取調役兼監察として活躍していた山崎は、その活動の多さにもかかわらず、歴史の表にはほとんど出ていない。そんな仕事なのだから当然ではあるが、私たちはなぜか山崎に魅かれる。目立たず、控えめで、でも仕事ができるという人物に、日本人は好感を持ちやすい。忍者や戦国武将に従う軍師が人気を得るのと同じように、山崎も受け入れられたのだろう。
陰の存在だった山崎が、池田屋事件での架空の働きにより、今や好きな新選組隊士の上位に食い込むほどだ。土方の右腕として働く山崎の姿は、確かにサマになるし、格好いい。
でももし山崎がどこかで見ているなら、「俺としたことが、目立ち過ぎだ」と自責の念に駆られているかもしれない。
そんな山崎烝…やっぱりいい。
【主な参考文献】
- 前田政記『新選組全隊士徹底ガイド』(河出書房新社、2004年)
- 歴史群像シリーズ『新選組隊士伝』(学研プラス、2004年)
- 『新選組史料集』(新人物往来社、1998年)
- 中村彰彦『新選組全史 幕末・京都編』(角川書店、2001年)
- 吉岡孝『明治維新に不都合な「新撰組」の真実』(ベストセラーズ、2019年)
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