新選組隊士で最強は一体誰なのか? 史実や様々な証言から検証

 幕末最強の剣客集団・人斬り集団などという名誉・不名誉な呼ばれ方をされている新選組。一般的なイメージはやはり、腕に覚えのある剣客が集まった隊というものだろうか。

 そんなに強い剣客が集まっているなら、一度腕比べをしてほしい。もちろんこれは到底無理な相談だ。ならば、客観的な事実や想像で新選組最強ランキングを決めてしまおう!と思い立った。これは私を含め、新選組ファンなら一度は考えたことのある、非常に自分勝手で楽しい企てではないか!

 さてさて、どの隊士がランキングに登場するのか、おのおの思うところを心に秘めながら、楽しんでいただきたい。なお、このランキングには、筋金入りの新選組ファンを自称する私の大いなる私見が入っていることをお断りしておく。

剣の流派と実績

 まずは、剣の流派別にその強さを検証してみよう。

天然理心流

 新選組の剣として一番に浮かぶのは「天然理心流」である。天然理心流の流祖は、近藤内蔵之助という遠江の人である。鹿島新当流を学び、その後武者修行をした末、寛政年間に創始したとされている。

 天然理心流には、剣術以外に柔術や棒術、居合術、気合術なども含む総合武術であり、普通の木刀よりも太く重い木刀を用いた稽古で、実戦にはめっぽう強かったが、道場での試合では、有名どころの流派には及ばない点もあったらしい。

 新選組隊士では、局長の近藤勇、副長の土方歳三、一番隊隊長・沖田総司、六番隊隊長・井上源三郎などがいる。幕臣では徳川慶喜のブレーンであった川村恵十郎、討幕方の赤報隊メンバー落合直亮も天然理心流門人である。

 天然理心流の特徴である気組(気迫)の剣で、池田屋の乱闘を無傷で戦い抜いたのが、近藤勇だ。竹刀で立ち合えば、弟子の沖田総司の方が強かったというが、真剣となると、近藤は無双の強さを発揮したと言われている。

 もちろん、沖田総司の天才ぶりもすさまじいものがある。試衛館の内弟子となって、わずか2年ほどで、白川藩の剣術指南役を負かしたという逸話も残るほどで、まさに天賦の才があったのだろう。

 彼の得意技とされているのが、三段突き、無明剣とも言われる技である。一瞬のうちに三度突かれながら、相手にはひと突きにしか見えなかったという。少し誇張されているとは思うが、それだけすごい技だったのだろう。

 土方歳三の剣は、本来の天然理心流にほかの流派が混ざっていたと言われている。試衛館で稽古をしながら、家伝の石田散薬を売り歩く先々で剣術の稽古を受けていたという逸話もあることから、彼の剣術は天然理心流を基礎とした土方流だったのかもしれない。そのため、天然理心流では免許皆伝を得ていない。しかし、勝つことへの執念は人一倍強く、泥臭く戦う剣だと言えるだろう。

 井上源三郎という人は、近藤勇の義父・周斎の弟子であったが、免許皆伝を得たのは、沖田や近藤よりも遅い。彼らと較べるとあまり目立たないが、努力の人であり、実力は十分備えていたとみて問題はない。

北辰一刀流

 幕末において最も隆盛した流派の1つが北辰一刀流である。流祖は千葉周作、その特徴は理論的な指導と合理的な稽古法で、上達の早いところにあるという。

 幕末の志士で最も有名な北辰一刀流の遣い手としては、坂本龍馬であろう。新選組内でも藤堂平助、山南敬助、伊東甲子太郎、服部武雄、吉村寛一郎らが名を連ねる。

 こうして並べてみると、ほとんどが新選組から離脱もしくは脱走した人物なのは偶然だろうか。気になるところだが、今回の趣旨からずれてしまうので、またいずれ検証してみよう。


 藤堂平助には「魁先生(さきがけせんせい)」というあだ名があった。これは常に命がけの戦いを繰り返していた新選組の戦場で、藤堂がいつも先陣を切っていたからだという。池田屋事件でも近藤、沖田、永倉らとともに奮戦しているが、一瞬の油断で額を斬られ、重傷を負っている。新選組離脱後、油小路事件で永倉新八に命を助けられそうになりながら、別の隊士に斬られて命を落としている。

 藤堂の師匠にあたるのが、伊東甲子太郎である。江戸では道場を開いていたくらいの腕前だったとされるが、新選組時代に刀を抜いて戦った記録はない。おそらく近藤らに闇討ちに合った油小路で新選組隊士に斬りつけたときが、彼が人を斬った最初ではないだろうか。実戦での実力はわからないままだ。

 山南敬助は、小野派一刀流、北辰一刀流を修めた剣の達人だと言われている。その上試衛館で天然理心流も学んでいるのだから、やはり剣の腕は秀でていただろう。新選組内では、大坂での力士乱闘事件や芹沢鴨暗殺事件でその実力を発揮している。だが、元治元年(1864)1月、大坂の岩城升屋での不逞浪士との戦闘により、重傷を負ったと言われている。

 この時は土方歳三とともにことに当たったらしいが、これ以来山南が表立って活躍した隊務は残っていない。ただ山南が新選組脱走の罪で切腹したときは、その見事さに近藤も土方も涙を隠さなかったとも言われている。

 服部武雄は、新選組ファン以外にはほとんどなじみのない名前だと思う。彼は伊東甲子太郎とともに新選組に入隊し、伊東とともに離脱、御陵衛士となった人物だ。永倉をして「新選組一、二の遣い手」と言わしめた剣士である。油小路事件では、全身20か所以上の斬られたうえ刀を両手に握った大の字の状態で亡くなっていたという。当時には珍しい二刀遣いの剣士で、御陵衛士の他の仲間を逃がすために孤軍奮闘した末の最期だった。

 浅田次郎氏の「壬生義氏伝」では、新選組で最も強い男とされていたのが、吉村寛一郎だ。盛岡藩脱藩の彼は、新選組に入隊して間もなく、諸士取締役兼監察、撃剣師範となっている。これは彼の真面目な性格と剣の腕が認められてのことだろう。吉村は、近藤が広島出張へ赴いたときも同行し、探索行動と近藤の身辺警護を行っている。このことからも史実にはほとんど出てこないながら、相当の腕前であったと想像できる。

神道無念流

 神道無念流の流祖は、江戸中期・宝暦年間の福井兵右衛門。幕末三大流派の中で「技の千葉」「位の桃井」とともに「力の斎藤」と言われたのが練兵館だ。道場主は斎藤弥九郎、頑丈な防具と重い竹刀を用いた真剣さながらの荒稽古で知られていた。


 一撃必殺の気概を持った流派で、新選組では初代筆頭局長の芹沢鴨、二番隊隊長の永倉新八が有名である。

 芹沢鴨の新選組での評判は、商家への押し借りや酒の席での大暴れなど悪いものばかりが目立っているが、その剣技は群を抜くものであったという。大阪出張の際に起こった力士との乱闘事件では、片手の抜き打ちで力士を一刀両断したというのだ。その怪力に永倉もあきれ果てたらしい。悪評ばかりが目立つ芹沢だが、文久3年(1863)の八一八の政変では、新選組の存在を知らなかった会津藩士に一喝するという胆力も持っており、傑物ぶりも無視できない。

 その芹沢と同じ神道無念流の達人が、永倉新八である。言わずと知れた新選組きっての遣い手として知られている。剣の才能は幼いころから発揮されていたようで、18歳の頃には、剣術修行のために松前藩を脱藩している。

 新選組での活躍としては、池田屋事件が最も有名である。沖田総司、藤堂平助が離脱する中、鎖も刀もボロボロになりながら、戦い続けていた。実は永倉自身も左手親指を斬られていたが、しばらく気づかないほど戦闘に集中していたらしい。

 明治を生き抜いた永倉は、孫と映画館へ行ったときにヤクザに絡まれた。ところが永倉の一喝と鋭い眼光でヤクザはすごすごと逃げ去ったという逸話が残っている。

新選組隊士が選ぶ最強の剣士とは?

 実際に彼らの剣さばきを目の当たりにしていた新選組隊士は、どのような評価をしているのだろうか。明治以降に残された史料や生き残り隊士の言葉から検証してみる。

永倉新八の証言

 永倉新八は後年、

「新選組では服部武雄が一、二の遣い手であった」

「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」

などと言っていたらしい。また、沖田総司については、

「土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、山南敬助などが竹刀を持っては子ども扱いされた。おそらく本気で立ちあったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた」

という言葉も伝わっている。

 永倉の中では、最強は服部武雄、続いて沖田総司と斎藤一というところだろうか。

阿部十郎(元新選組・元高台寺党)の証言

 阿部十郎は、伊東甲子太郎とともに新選組を離脱して御陵衛士になり、油小路事件で多くの仲間を殺されている。つまり、新選組幹部を強烈に憎んでいる人物だ。そんな彼が語った中に、次のような証言がある。

「沖田総司、これがまあ勇の一番弟子で、なかなかよく仕いました。その次は斎藤一と申します。それから是は流派が違いますが、永倉新八という者がおりました。この者は沖田よりもちと稽古が進んでおりました」
『新選組証言録』より

 つまり、阿部十郎の中で最強は永倉新八、そして沖田、斎藤だったらしい。ただ、阿部は、伊東とともに入隊しているので、このころはすでに近藤が実戦に出ることはなかっただろうし、芹沢の剣技も見ていないことになる。

桑名藩士・小山正武の証言

 桑名藩士の小山正武は、油小路事件の翌日に現場に行っている人物として知られている。彼の証言では、沖田、永倉、斎藤、藤堂が新選組四天王と呼ばれていたとある。また、服部武雄については新選組内で彼に適するほどの者はないとも言っている。

新選組の役職から検証

 最後に新選組の役職を調べてみた。強さと役職が必ずしも比例するとは限らないが、それなりの実力が無ければ、それなりの役職には就けないと考えてのことである。

 慶応元年(1865)4月時の編成表を見てみると、撃剣師範を兼ねているのは、やはり剣の達人という証言の多かった沖田・永倉・斎藤である。

総長:近藤勇
副長:土方歳三
参謀:伊東甲子太郎
一番組組長:沖田総司(兼撃剣師範)
二番組組長:永倉新八(兼撃剣師範)
三番組組長:斎藤一(兼撃剣師範)
四番組組長:松原忠司(兼柔術師範)
五番組組長:武田観柳斎
六番組組長:井上源三郎
七番組組長:谷三十郎(兼槍術師範)
八番組組長:藤堂平助
九番組組長:鈴木三樹三郎
十番組組長:原田左之助
撃剣師範:吉村寛一郎:池田小太郎・田中寅蔵・新井忠雄

結局最も強いのは?

 さて、誰を最強剣士と考えるか? ここからは今までの検証を元に、独断と私見に基づいたベスト5発表と行こう。

第5位:服部武雄

 壮絶な剣、服部武雄。二刀流で永倉新八のお墨付きもあるので、ベスト5には外せないということで、この順位。また死を覚悟の凄絶な戦いっぷりは、新選組ファンとしても心惹かれるものがあった。

第4位:芹沢鴨と近藤勇

 芹沢鴨、そして近藤勇と局長が仲良く同率の4位。芹沢の胆力と凄まじい剣豪ぶりはもし酒乱でなければ、もっと活躍の場があったのではという惜しむ意味も込めてのランキング。近藤は池田屋事件で最後まで戦いながら無傷であったというのは、さすが天然理心流宗家というところか。



第3位:斎藤一

 2位と僅差で斎藤一。永倉、阿部の証言と、3番組組長・撃剣師範という役職で十分その実力が推し量れる。沖田との差は単なる私のえこひいきでしかない。


第2位:沖田総司

 やはり沖田総司。天賦の才に恵まれながら、その実力を十分に発揮することなく、病に倒れた沖田へのはなむけの意味も込めてのランキング。子供好きの素顔とのギャップも萌える…いやこれは独り言。


第1位:永倉新八

 文句なしで永倉新八。誰にも文句を言わせない堂々の1位だと私は考えている。剣術を楽しんでいるようでもあり、真面目ばかりでないところも良い。結局明治維新を生き抜いたという運の強さと、新選組の汚名をそそごうと努めていた点も加味した。そりゃ新選組ファンだからね。


あとがき

 そうそうたる剣豪メンバーを前にして、土方歳三の名がないことを不審がっている方もいることは承知の上。かくいう私も土方は強い!と信じている。

 ということで、番外1位は土方歳三ということにしておこう。おそらく土方は逆境になればなるほど強くなる男だ。だから新選組が順調だった時は、彼の出番がなかった。だから箱館時代なら、ダントツ1位だ。最後まで個人的な見解で通した今回の記事、なにはともあれ新選組は強かった。



【主な参考文献】
  • 永倉新八『新撰組顛末記』(中経出版、2009年)
  • 歴史群像シリーズ『新選組隊士伝 蒼き群狼、その生と死の断章』(学研プラス、2004年)
  • 山村竜也『新選組証言録 』(PHP研究所、2004年)
  • 前田政記『新選組全隊士徹底ガイド』(河出書房新社、2004年)
  • 伊東成郎・菊池明・結喜しはや『土方歳三と新選組10人の組長』(新人物往来社、2012年)
  • 天然理心流とは  武術保存会公式サイト

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  この記事を書いた人
fujihana38 さん
日本史全般に興味がありますが、40数年前に新選組を知ってからは、特に幕末好きです。毎年の大河ドラマを楽しみに、さまざまな本を読みつつ、日本史の知識をアップデートしています。

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