日本の精神的植民地化の歴史は幕末から…地獄への道は希望で舗装されていた!?
- 2023/10/20
今回は、テレビや新聞では決して発信されない終戦後の日本と、日本人を蝕みつづけている売国・植民地化政策のうち、ことに精神的植民地化の歴史と、いま現在の深刻な状況について、これまで私自身が裏取りしながら積み重ねてきた知識情報をお伝えいたしましょう。
なお、タイトルの《地獄への道は善意で舗装されている》というのは、西洋に古代から伝わる格言を拝借してもじったものですので、原文の意味を踏まえながらお付き合いくだされば幸いです。まず、人類史上に地球規模で植民地化が始まったころからながめていきます。
なお、タイトルの《地獄への道は善意で舗装されている》というのは、西洋に古代から伝わる格言を拝借してもじったものですので、原文の意味を踏まえながらお付き合いくだされば幸いです。まず、人類史上に地球規模で植民地化が始まったころからながめていきます。
植民地という、生き地獄への道が開通した日
かつて小中学校の授業で私は、ざっと16世紀初頭から大航海時代が始まったと教わり、新大陸を発見したというコロンブスを偉大な人だと信じ切っていたものです。しかし、それは真っ赤なウソでした。コロンブスの正体は、無慈悲な虐殺者だったのです。1492年にスペインと契約して大航海に挑み、たまたま水夫が見つけた島に上陸すると、歓待してくれて水や食料も贈ってくれた先住民を、さも親しげな笑顔でダマし、黄金や宝石を略奪し、近くの島々でも同様にしてから基地を造り、勝手に植民地とした人でした。
翌1493年3月にはスペインに帰りましたが、半年後にはスペイン軍を率いて2度めの航海に出ます。そのとき、
コロンブス:「今度は、ありったけの黄金、ありったけの奴隷を連れて帰る。我々の神は、一見不可能なことでも、主の仰せに従う者たちには勝利を与えるものなのだ」
と言い放ち、スペイン軍による徹底的な弾圧と千人単位の虐殺を実行。これが、ヨーロッパ東方を植民地とするための手本となったのです。
神の名のもとに布教する宣教師を先導させて現地偵察させ、およそユーラシア大陸の南半分がヨーロッパ諸国の植民地となり、のちにその魔の手は織田信長にもおよんだものでした。
信長は宣教師たちに対して好意的でしたが、その護衛と称する船員たちが裏で日本人男女を拉致し、海外へ奴隷として売り飛ばしていることに気づいたのでしょうか?!キッパリと手を切っています。やがて信長の遺産を引き継いだ豊臣秀吉は、明らかに宣教師一行の悪事と真意を見抜いてバテレン追放令を断行しましたし、その後を継いだ家康はキリスト教禁止令を出し、徳川第3代将軍・家光は長崎の出島だけを開港して鎖国したのです。
幕末の動乱期に日本植民地化のタネが撒かれた
幕末といえば、嘉永6年(1853)7月8日にペリーが率いるアメリカ海軍艦隊つまり黒船4隻が浦賀沖にやってきて、江戸幕府を大砲で脅して開国を迫ったときから始まったというのが一般的でしょう。
泰平の眠りをさます上喜撰 たった四盃で夜も寝られず
こんな狂歌が流行ったほどに、江戸幕府の狼狽ぶりは深刻ながらも滑稽に映ったようで、《お江戸に大砲を撃ち込むつもりらしいぜ》などと書きたてた瓦版がばらまかれました。
諸藩の大名屋敷からも偉いさん方が三々五々浦賀に駆けつけて右往左往し、もちろん物見高い江戸っ子たちも押し寄せては、たちまち飲み食いの露店まで並んだほどです。
けっきょく、翌年すなわち嘉永7年(1854)3月31日には日米和親条約という有名な不平等条約が締結され、同年10月14日には日英和親条約にも調印。さらに翌年つまり安政元年(1855)2月7日にはロシアとの和親条約が結ばれると、その翌年からはオランダやフランスとも同様の条約を締結しました。
そののち、安政の大獄で有名な井伊直弼が五ヵ国との和親条約を、さらに不平等な内容の修好通商条約として五ヵ国それぞれと締結し、これを安政の五ヵ国条約とも言います。
こうした幕府の腰抜けぶりに井伊直弼の強権・横暴が重なっては、かつて関ヶ原にて敗退し、2百数十年もの屈辱に耐えてきた薩摩・長州・土佐・肥前などの藩士たちに国防意識の高まりとナショナリズムの高騰をうながし、ついには倒幕の機運に火がついたのでした。
薩長同盟や大政奉還という新たな希望の光によって生まれた陰とは?!
じつは私は幕末の志士のうちに長州藩士・高杉晋作を敬愛しきりなのですが、とうの晋作は文久2年(1862)に藩命で、長崎から清の上海へと派遣されています。同年4月29日に幕府使節随行員の1人として幕府の千歳丸に乗船・出帆し、5月6日に上海に到着しました。そこで、清が欧米の植民地となりつつある実情を自身の目と耳で見聞し、清とイギリスが1840年から2年ほど戦ったアヘン戦争の実態と結末、さらにはキリスト教を狂信する太平天国の乱を見聞しながら約2ヶ月を過ごして帰国したのです。
さっそく翌年には関門海峡で外国船を砲撃しますが、アメリカ・フランスに惨敗したのち奇兵隊を創設。同年の京では薩摩・会津のクーデターによって長州藩が追放され、その翌年には朝敵ともなり、この年の8月には米英仏蘭の4ヵ国連合艦隊が下関を砲撃して長州砲台を占拠しました。この和議交渉を任ぜられた晋作は、ときに齢24。
連合国サイドは多額の賠償金ばかりか彦島の租借も要求しましたが、晋作は眼を据えて一歩も退かず、賠償金は幕府に肩代わりするよう要求することを勧めて合意。しかし、彦島租借は問答無用の拒絶を貫きとおした上で、最後には肝心の和議を成立させたのです。
できることなら、近年の日本政府はじめ国会議員連中と官公庁の幹部たちに、高杉晋作の爪の垢ばかりか耳垢と鼻クソも飲ませたい!と願うのは、はたして私だけでしょうか?!いえ、じつは晋作が在世の当時なら、きっと少なからずの皆さんが大好きでありましょう坂本龍馬にこそ、せめて爪の垢だけでいいから飲んでほしかったと、私は考えています。
そんな私も若いころには龍馬の大ファンでしたが、あらためて終戦後から80年近い日本の現状と、激変しつつある国際情勢をながめるにつけ、憧れていた龍馬への想いも徐々に変わってきたのです。いま現在の日本政府と関係者たちのような革新的売国奴とまでは言いませんが、たとえば高級料亭での接待とか海援隊の運営資金なども援助してくれていたのではないか?!と思われるグラバーに、まんまとフワッとダマされて使いっ走りにされていたんじゃないのか?!などと、ふと思ったりしている今日このごろなんです。
ご存じのとおり、龍馬の仲介によって薩長同盟が成立し、最新兵器を手に入れて皇軍ともなっては倒幕を成し遂げ、日本の近代化という、新たな希望に満ちた新時代を切り開いてくれたことについては、もちろん、ありがたく感謝しています。
しかし、幕末の動乱を生き延びて明治政府の要人となった人々や、さまざまな分野で指導的立場についた方々の脳裏に、自国の前時代に対する過度な否定感覚と欧米に対する手放しの憧憬感覚、そうしたタネを撒いてしまったのでは?!とも思っているのです。
そのような推察を私にさせているキーワードは、散切り頭を叩いてみたら鳴り響いたと言われる《文明開化》で、その象徴が、五ヵ国の偉いさん方からイエロー・モンキーなどと嘲笑されながら、着こなしもままならない背広やドレスで踊り浮かれた鹿鳴館の饗宴です。
おわりに
こうして幕末に撒かれた日本植民地化のタネは、昭和20年からのGHQによる占領統治によって、たとえばタンポポみたいな花となり、そのタネすなわち綿毛は、昭和27年のサンフランシスコ平和条約という風にのって日本中に撒かれたのだと、私は考えているのです。そして、いまでは大多数の日本人の心に花を咲かせて根づき、それを国際連合はじめ国際機関の方々がながめているのが現在日本の現状だろう・・・と、私は泣いています。
【主な参考文献】
- 田中英道『日本国史』上下巻(扶桑社、2022年)
- 高須芳次郎『海の二千六百年史』(2022年)
- 三橋貴明『明治維新の大嘘』(経営科学出版、2019年)
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