”敵を知り己を知れば百戦危うからず” 原爆投下へのシナリオとは?

1945年7月16日にアメリカ合衆国で実施された人類初の核実験「トリニティ実験」での核爆発の画像(出典:wikipedia)
1945年7月16日にアメリカ合衆国で実施された人類初の核実験「トリニティ実験」での核爆発の画像(出典:wikipedia)
 戦争とは、戦時国際法という厳格な法律を遵守しつつ行われなければならない、「国と国とのケンカ」だと思っていいでしょう。人と人とのケンカなら、目が合っただけで勃発することもありますが、国と国であれば、それほど単純に勃発するものではありません。

 少なくとも、戦争しようと決断した国なら、その十中八九は開戦前に兵法書として有名な『孫子』に記された《敵を知り己を知れば百戦危うからず》から準備を始め、戦略や戦術といった作戦を練り上げ、軍備も整えてから開戦というのが、まあ、当たり前でしょう。

陰謀は、いつも人間世界にあふれています

 まず、陰謀と陰謀論は全く別モノだ!ということを、よくよくご理解いただきたいです。

 端的に言えば、陰謀論とは空想や妄想のたぐいであり、いっぽう陰謀は、いつの時代にも人間世界において絶えることなく、しかも秘密裏にうごめいている現実のことなのです。

 陰謀論を組み立てて発信する人なら、多少は自分のアタマを働かせているかも知れませんが、それを真に受けて信じる人のアタマは思考停止状態だということが、すでに著名な脳科学者方々によって明らかにされていますので、くれぐれもご用心。

 たとえば1969年にスイス政府が『民間防衛』と題した冊子を編纂し、260万部発行して国内の各家庭に無償で配布していますが、これを読めば武力戦闘しないで他国を侵略・占領統治する方法が具体的に書かれていますので、陰謀とは?!の答えにもなりますよ。

 今回にお伝えする、「アメリカの太平洋戦争開戦~原爆投下~戦後処理」というシナリオは、『民間防衛』の内容とは違って、むしろ実戦にむけた『孫子』の内容に近いかと思います。あるいはアメリカの戦争行為すべてを正当化するため、そして日本と日本民族を滅亡へと追い込んでゆく具体的手段の数々を綴ったものと言ったほうが、より正確かも知れません。

 いずれにせよ、それは実在し、その内容も明確になっています。終戦後にはトップシークレットが解除されてアメリカ公文書館の膨大な保管資料が公開、これを精査した国際的に著名な歴史学者たちの論文や研究書や講演記録などがあるからです。

マンハッタン計画とその背景

 マンハッタン計画とは、アメリカ政府による原子爆弾開発・製造計画です。

 1939年にヨーロッパで勃発した第二次世界大戦において、ナチス・ドイツが先に核兵器を保有することを恐れたのがきっかけで、アメリカ大統領・フランクリン・ルーズベルト主導で計画を始めました。

フランクリン・D・ルーズベルト。大統領の任期は 1933年3月4日~1945年4月12日(出典:wikipedia)
フランクリン・D・ルーズベルト。大統領の任期は 1933年3月4日~1945年4月12日(出典:wikipedia)

 このころイギリスのチャーチル首相から、アメリカの参戦を懇願する連絡がひっきりなしでしたが、ときの大統領選挙では《あなた方のご子息を、いかなる戦場にも送ることはない!》という公約を掲げて再選されていたため、議会の承認が得られるはずもありません。

 経済的にも世界大恐慌に苦しんで立ち直れないほどの苦境でしたが、ルーズベルトにすれば、どうにか参戦することで、軍需景気の高騰を目論んでいたのです。チャーチルには秘密裏に軍事物資を送っていましたが、アメリカの貨物船がUボートに撃沈されたと喧伝して国民の怒りを煽って参戦するという陰謀も、のちに発覚しています。

 さらには日中戦争で苦戦しきりの蒋介石には、1939年7月26日に日米通商航海条約を一方的に廃棄したり、翌年からは戦闘機100機にパイロット100名・地上要員200名を付けてフライングタイガースと名付けた航空隊を送るなどの支援をしています。

 こんな国際情勢のなか、マンハッタン計画は1939年10月11日にスタートしました。

 ちなみにフランクリン・ルーズベルトはアメリカ政治史上に唯一、4期就任した大統領で、その政権には、世界を共産主義で統治するという野望を掲げ、ソ連に本部を置いて世界各国に支部を持つたコミンテルンのスパイが大勢いたことが戦後間もなく判明しています。

 ルーズベルトの母親は、かつてユーラシア大陸のチャイナ地方に存在した清国とのアヘン貿易で巨万の富を得た先祖をもつ人です。そんな母から生まれ育ったルーズベルトは根っからの親中派、かつ病的な人種差別主義者でもあります。ことに日本民族の脳は白人より2千年も進化が遅れているという珍説を信じ込んでいて、戦時中にチャーチルやスターリンと会談した際にも得意げに語っていました。

1943年11月25日、カイロ会談での蔣介石(左)、ルーズベルト(中央)、チャーチル(右)(出典:wikipedia)
1943年11月25日、カイロ会談での蔣介石(左)、ルーズベルト(中央)、チャーチル(右)(出典:wikipedia)

原爆投下へのシナリオ

 マンハッタン計画スタート当初は、対ナチス・ドイツへの核兵器開発だったことに間違いなかったのですが、その翌年つまり昭和15年(1940)9月27日に日独伊三国軍事同盟が締結された瞬間から、原爆投下へのシナリオがはじまったと私は考えています。

 いずれ第二次世界大戦に参戦するというルーズベルトの悲願達成のために日本を利用するというシナリオが、政府をはじめ、関係各機関に潜入しているコミンテルンのスパイを中心として書きはじめられたのだろうと…。

 たとえば真珠湾攻撃(1941)は、反戦ムードのアメリカ国民が自らルーズベルトの公約を破棄するように仕組まれたストーリーです。その決定的な最後通牒として有名なハルノート(太平洋戦争開戦直前の日米交渉最終段階において、米国国務長官C.ハルが日本に提示した文書)は、当時のアメリカ上院議会に承認どころか知らされないまま日本に叩きつけられたもので、戦後にその存在と内容を知った議員たちは驚愕と失望を隠せなかったものです。

炎上する真珠湾と、その上空を飛行する日本海軍の九七式艦上攻撃機(出典:wikipedia)
炎上する真珠湾と、その上空を飛行する日本海軍の九七式艦上攻撃機(出典:wikipedia)

 また真珠湾攻撃の2ヶ月前、つまり1941年10月ころから開発が始まったM69とは、いずれ日本本土の主要都市を狙って無差別絨毯爆撃をするための焼夷弾です。

「日本の家屋は木と紙で出来ている」というキーワードのもとに設計された焼夷弾であり、1943年にはユタ州のダグウェイ実験場に建てられた日本家屋の試験用居住建築物=俗称は日本村にて実用テストが行われたのち、最も効果的であると評価されています。

 昭和20年(1945)2月の神戸大空襲をはじめとして、3月10日の東京大空襲では32万7000発のM69が投下され、それ以降に名古屋、大阪など都市部に投下されたM69の総数は、なんと192万発前後となりました。

1945年3月10日未明、東京大空襲後の浅草松屋屋上から見た仲見世とその周辺(出典:wikipedia)
1945年3月10日未明、東京大空襲後の浅草松屋屋上から見た仲見世とその周辺(出典:wikipedia)

 原子爆弾に言及したなら、1943年10月には原爆運搬計画スタート、翌年12月9日に第509混成部隊という原爆投下部隊が結成され、1945年5月10~11日にかけて日本での原爆投下予定都市がリストアップされています。

 同年7月16日にトリニティ実験と名付けられた世界初の核実験がニューメキシコ州南部のアラモゴードにて行われ、同月24日にトルーマン大統領がスターリンに、極秘だった原爆開発を打ち明けたのを受けて、翌日にはアメリカ空軍参謀長であるカール・スパーツ大将が8月3日以降に広島、小倉、長崎、新潟いずれか2都市に原爆投下を命令しました。

 そうして日時は未定ながら最初に広島、つづいて小倉への投下を決定していますが、長崎への投下は、小倉への投下ができなかったときのプランBとされていた計画でした。

おわりに

 今回のまとめとして、極東軍事裁判すなわち東京裁判というものに基づいて日本人の心に根づいた自虐史観に一言、もの申しておきましょう。

 YouTubeで《東京裁判》と検索すれば、GHQが撮影した実写フィルムに日本語の字幕と解説ナレーションをつけた冒頭陳述と動議の場面を視聴できますので、お勧めです。

 また、私としての見解ですが、マンハッタン計画によって開発したM69焼夷弾と原爆による無差別爆撃をすると決定した時点で、アメリカは戦時国際法に抵触することも自覚していたはずで、ただちに法的対処法も検討・計画し始めたに違いないと思っています。つまり戦時国際法を無視する言い訳を前提とした、確信的虚偽裁判のシナリオ作りですね。

 現在の日本人の少なからずが思考停止したドMであるならば致し方もないことでしょうが、違う!と言うのであれば、単純明快なウソにダマされ続けるのは止めにしませんか?!


【主な参考文献】
  • 松岡洋右『東亜全局の動揺』(経営科学出版 )
  • モーリス・ハンキー『戦犯裁判の錯誤』(経営科学出版)
  • 藤井厳喜『太平洋戦争の大嘘』(ダイレクト出版、2020年)

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  この記事を書いた人
菅 靖匡 さん
2004年、第10回歴史群像大賞優秀賞を受賞し、 2005年に『小説 大谷吉継』でデビュー。 以後『小説 本多平八郎』『小説 織田有楽斎』(学研M文庫)と、 さらに2011年から『天保冷や酒侍』シリーズなど、 フィクションのエンタテイメントにも挑戦している。 2020年には『DEAR EI ...

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