本多忠勝ってどんな人? 名言や逸話からその人物像に迫る

桑名城跡にある本多忠勝像
桑名城跡にある本多忠勝像
 武田信玄の家臣・小杉左近の言葉として伝わるものに、こういう話があります。

「家康の過ぎたるものふたつ 唐の頭に 本多平八」

 実際は小杉左近ではないとも言われますが、とにかく徳川家康の家臣で最も素晴らしい武将と言えば本多忠勝というのが当時の評判でした。今年の大河ドラマ「どうする家康」でも、山田裕貴さんが熱演している本多忠勝。今回は彼の名言や逸話について紹介していきたいと思います。

誕生から姉川の戦い・三方ヶ原の戦いなどの数々の合戦に参加する

 本多忠勝は本多忠高の子で、三河国額田郡(現愛知県岡崎市)出身です。天文18年(1548)に生まれましたが、父の忠高は天文19年(1549)に安城城で戦死しています。その後は叔父の本多忠真の元で過ごし、永禄3年(1560)に初陣を飾りました。その後も三河一向一揆との戦いや姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなどの主要な合戦に参加し、その武名を轟かせていきました。

若き猛将・本多忠勝

 忠勝は初陣後の永禄4年(1561)、今川氏真配下の小原鎮実との戦で大活躍しています。当時の年齢は数えで14歳、満年齢なら13歳です。しかし、忠勝は叔父の本多忠真が戦闘中に敵を倒した際、功績とすべくその首級をとるよう言われました。しかし忠勝はこう返します。

「私は決して人の力を借りて武功は立てません」(『寛政重脩諸家譜』より)


 忠勝はそのまま敵陣に突入し、首級を自分の手でとってみせました。その様子を見て忠真は大いに喜び、後々すごい武将になると周囲に言っていたそうです。

姉川は世代交代の戦

 忠勝が元亀元年(1570)に姉川の戦いに出陣する前に、長年の老将が忠勝は参陣するのに、自分は参加できないのは何故かと家康に尋ねたことがありました。これに対し、忠勝は自分の覚悟をこう語っています。

「私は信長殿を味方とは思わない。機会があれば殿を討死させようとするだろう。今回の御出陣は特に大事なのです」(『寛政重脩諸家譜』より)


 この頃は家康が岡崎に戻る前の家臣団がちょうど世代交代する時期だったため、ある意味忠勝が嫌われ役となったことが推測されます。忠勝は父が早くに亡くなり、他の重臣より早く世代交代した家臣でした。そうした事情がこうした逸話に残されていると考えられます。

信長が本多忠勝を激賞

 長篠の戦いで忠勝は大いに活躍したとされ、その武勇のすごさに信長が忠勝をこう評したと伝わっています。

「花実兼備」(『家忠日記増補追加』より)


 花も実もある本当に優れた勇士という意味で使われていますが、一説には信長が忠勝を配下に欲しがったとも言われています。忠勝の武勇が並外れたものであったことが良くわかります。

戦術眼にも優れていた忠勝

 三方ヶ原の戦いの前哨戦となった武田信玄の進行中に、家康は何度か戦を仕掛けています。しかし、その1つで忠勝は軍議中に家康にこう諫言しています。

「敵は多勢で進退自由の地に布陣しており、我が軍は微勢で地の利も良くない故退くべきだ。もし追撃してきたなら、敵軍が天龍川を渡っている際に反転攻勢すべきである」『家忠日記増補追加』


 家康はこの意見を取り入れ、最終的に浜松城での籠城策をとります。ただ、信玄の挑発に乗って三方ヶ原で戦うことになり、徳川軍は大敗を喫することになるのです。信玄の病死がなければどうなっていたかわからない出来事ですが、三方ヶ原の前から信玄は家康を誘き出すような動きを見せていたことがわかります。そして、そうした誘いを忠勝は見抜く戦術眼を持っていたことがわかります。

いつも殿にいる鬼神

 初鹿野伝右衛門という元武田家臣だった武将が家康の家臣となった際、彼は敵から見た忠勝の恐ろしさを家康の家臣にこう話しています。

「三河で戦うと、忠勝が殿の時に追撃しようとすると蜻蛉切を振り回してこちらを睨む顔が鬼神に見えたものだ」(『寛政重脩諸家譜』より)


 蜻蛉切という名前が付いたであろう時期を考えると、この言葉は後世に修正されたか創作の可能性があります。ただし、敵方から見た忠勝がどういう人物だったのかが推測できる逸話となっています。

神君伊賀越えから大多喜10万石の領主へ

 本多忠勝は天正10年(1582)に家康が京を訪問した際も同行しています。その後家康の畿内脱出を助け、羽柴秀吉との天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでも活躍し、小田原攻め後の家康関東移封に伴って上総国大多喜に10万石の所領を与えられています。これは家臣団では井伊直政の12万石に次ぐ領地であり、安房の里見氏への備えも兼ねた配置だったと考えられます。

信長の死と忠勝の諫言

 信長が本能寺で明智光秀に討たれた後、二次史料などでは絶望した家康を本多忠勝が諫めて神君伊賀越えと呼ばれる山道を抜けて三河へ帰る話となります。しかし、実際の家康は京で戦う気満々だったのが史料上でわかります。

 茶屋四郎次郎から本能寺の変を聞き、すぐさま京で戦おうとしたことが『家忠日記増補追加』などに記されています。しかし、忠勝はこれを諫めて三河で軍勢を整えることを進言し、家康はこれを受け入れて伊賀越えを決断したのです。

秀吉の誘いを断る

 忠勝は小牧・長久手の戦い(1584)で秀吉の軍勢を大いに破り、秀吉の家臣から大いに警戒されました。一方で秀吉はその武勇を気に入り、福島正則らに忠勝を討つのを禁止しています。

 家康と秀吉の和睦が成立した後、秀吉の姫である旭日姫が家康に嫁いだ際の祝言の使者に忠勝が選ばれています。秀吉はこれを大いに喜び、忠勝に定宗の脇差という名刀などを与えたことが『家忠日記』に記されています。

 またその際、秀吉は忠勝に自分の部下にならないか誘ったという逸話があります。その際、忠勝は以下のように誘いを断ったそうです。

「秀吉公からの御恩は海より深いと言えますが、家康は譜代相伝の主君であって年月で語るべき関係ではありません」(『三河後風土記正説大全』より)


関ケ原の戦いと晩年

 忠勝は関ヶ原の戦いにおいて、その武功よりも井伊直政とともに西軍への寝返り工作を進めて活躍しました。その結果、嫡男・忠政とは別に関ケ原後に伊勢国・桑名10万石を与えられています。しかし、慶長9年(1604)には病気を理由に隠居願いを出しています。慶長14年(1609)には嫡男の忠政に家督を譲り、翌慶長15年(1610)に桑名で病死しました。

天下三名槍「蜻蛉切」

 『本多家由緒書』によれば、本多忠勝を象徴する武器である名槍「蜻蛉切」は忠勝の普段使いの槍だったそうです。戦場でも使用されたこの槍は天下三名槍と称されています。

 名前の由来として有名なのは「戦場で槍に止まろうとした蜻蛉さえ斬り落とした」というものです。しかし、『本多家由緒書』では慶長5年(1600)に「日本の形は蜻蛉に似たり」という理由から、「日本切」と名づける代わりに「蜻蛉切」と名づけたと書かれています。こちらは写本な上一次史料ではないのでどちらの説が正しいかは不明です。しかし、天下一の武将の槍に相応しい名をつけようとしたことは間違いありません。

忠勝槍を選ばす

 忠勝は常日頃から家臣にこう話していたと伝わっています。

「武器を頼みにしては中々勝負はつかないものだ」(『寛政重脩諸家譜』より)


 蜻蛉切で有名な忠勝ですが、一方で武器に頼る戦い方は否定しているのです。これは家康の側でボディーガード的に活動していた忠勝は、状況によって武具の持ちこみを制限される立場だったことが影響しているのでしょう。脇差しか持っていない状況で家康を守るにはどうするか、などを常日頃考えていたことで、こうした考えになったと推測されます。

外交も担当した本多忠勝

 関ケ原の戦いでは戦場での活躍よりも、西軍の将との連絡係を務めて貢献しています。吉川広家や小早川秀秋の重臣・稲葉正成らへの書状には、井伊直政と本多忠勝の連名で出されたものが複数伝わっています。

 実は忠勝は武田氏と戦っていた頃は上杉謙信の家臣・村上国清との交渉役を任されており、本能寺の変後明智光秀討伐軍を派遣しようとした時も美濃の国人吉村氏との連絡役を務めています。これらは書状が現存しており、武勇一辺倒ではない忠勝の非凡さが見える史料となっています。真田信繁の兄・真田信之の正室に自分の娘を嫁がせたことからも、外交と軍事の2つで家康を支えていたことがうかがえます。

生涯傷なし?

「武功、優れて多しと言へども、未だかつて傷を被る事無し」(『寛政重脩諸家譜』より)


 忠勝は生涯57回(史料によって回数は変化。約60回)の合戦で一度も傷を負ったことがないと言われています。『家忠日記』などでも殿をした合戦から戻ると鎧に折れた矢が刺さっていたことなどが記されていますが、怪我をしたとは一切書かれていません。

 一方で、死の数日前に小刀で怪我をしたと伝わっています。この時に忠勝は「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな」と言ったと伝わっていますが、信憑性には疑問が残ります。眼病などで晩年は満身創痍だった忠勝が、小刀を使うような作業をできる体調だったとは思えないためです。

葦を斬った忠勝

 桑名移封後のある日、忠勝は次男の忠朝を連れて船で川を下っていました。その途中、葦の群生する場所を見つけ、忠勝は櫂(船を漕ぐオール)を持ってこう言いました。

「この櫂であの葦をなぐってみよ」(『寛政重脩諸家譜』より)


 忠朝は忠勝に言われた通りに葦をなぐると、葦は折れ曲がりました。次に忠勝自身が同じように櫂を振るうと、鎌で刈り取ったように葦が斬れたそうです。晩年の病になる前の忠勝は、息子よりも剛力でまだまだ武士としても超一流だったことが伺えます。

人を動かす将となれ

 忠勝は晩年を桑名で過ごしましたが、一部の旧臣は嫡男・忠政のために万喜に残しました。そんな旧臣が集まった際に、忠勝は忠政の家臣たちに遺す言葉としてこう言ったと伝わっています。

「思慮なき人も、思慮ある人も功名するなり。思慮ある人の 功名は士卒を下知し、大なる功名を遂ぐるものなり」(『常山紀談』より)


 思慮のない人も、思慮のある人も功名を立てる。思慮のある人の功名は、士卒を下知して大きな功名をあげる。だが、思慮のない人は鎗一本の功名であって大きな事は出来ないという内容です。現代社会でも、会社では優秀な社員が出世して人を動かす立場になっていくのと同じです。忠勝は上手く人を動かせる武士になるよう説いたのでしょう。

子孫よ、本を読め

 『本多平八郎忠勝聞書』は本多忠勝が徳川家康が言ったことを子孫に受け継ぐために編纂されたと伝わっています。そうした家康の言葉の中に、本多忠勝自身の言葉が少しだけ記されています。その1つがこれです。

「物の本を読むことは、身を正しくせん為」(『本多平八郎忠勝聞書』より)


 戦場で活躍した忠勝ですが、家康から文武双方の重要性を説かれた逸話の最後に、このような言葉を付け加えています。これから太平の世がやって来ることを忠勝は理解していたのでしょう。

忠義とは主君を守って死ぬこと

「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という」(『名将言行録』より)


 本多忠勝が病で臨終間際に遺言の1つとして言ったとされる言葉です。侍は手柄をとることよりも主君とともに死ぬくらいの忠節を尽くせればそれでいいというものです。常に家康のために戦い続けた忠勝らしい『武士像』が感じられる内容です。

辞世の句は本物か?

「死にともな、嗚呼死にともな、死にともな」(『名将言行録』より)


 こちらは本多忠勝の辞世の句として伝わっているものです。生涯傷なしと言われた武将ですが、句では『死にたくない』をひたすら連呼しているものになっています。

 実はこの辞世の句が別人のものという説があります。「御旗本の豪傑と呼れ、神君の御代戦場にて数度武功を顕はしたる梶金平」という本多忠勝の部下だった人物の辞世の句として、江戸時代の『耳嚢』という雑話集に登場します。

 『名将言行録』は幕末から明治期編纂ですので、年代を考えるとこの辞世の句は梶金平のものを忠勝のものとした後世の創作と見た方が良さそうです。

まとめ

 本多忠勝はその生涯を家康の側仕えとして過ごした関係で、あまり単独行動がありません。その結果、戦場での活躍は多いのに本人の言葉などはあまり残っていません。

 家康のボディーガード的な立ち位置を務め、常にその側で命を守るという重大な役目だったために、本人があまり言葉を残さなかったのでしょう。だからこそ、家康の側を離れた晩年は多くの言葉を残しており、子孫や家臣へその思いを伝えたと言えます。ただし、その活躍ぶりは時代の偉人たちには理解されており、だからこそ信長や秀吉だけでなく、敵だった武田氏にもその存在は知られていたのでしょう。


【主な参考文献】
  • 『国書総目録』(岩波書店)
  • 『本多家由緒書』(徳川宗敬寄贈、写本(年不明)、東京国立博物館デジタルライブラリー)
  • 『三河後風土記正説大全』(1992年、新人物往来社)
  • 岡谷繁実『名将言行録』(1909年、国立国会図書館デジタルアーカイブ)
  • 根岸鎮衛『耳嚢』(1991年、岩波書店)
  • 堀田正敦『寛政重脩諸家譜』(国立国会図書館デジタルアーカイブ)
  • 松平忠冬『家忠日記増補追加』(市立米沢図書館デジタルライブラリー)

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  この記事を書いた人
つまみライチ さん
大学では日本史学を専攻。中世史(特に鎌倉末期から室町時代末期)で卒業論文を執筆。 その後教員をしながら技術史(近代~戦後医学史、産業革命史、世界大戦期までの兵器史、戦後コンピューター開発史、戦後日本の品種改良史)を調査し、創作活動などで生かしています。

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