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 2019/03/05

戦国最強!?本多忠勝と蜻蛉切にまつわるエピソードとは

本多忠勝のトンボ両断イラスト

生命をかけて戦うことが日常だった戦国時代。動乱の時代はあまたの戦士を育て上げ、戦闘集団を率いる地方領主である「戦国武将」が形成されました。数ある濃密な歴史ドラマの中でも「戦国最強の武将は誰か?」という問いは、歴史ファンの大きな関心事の一つではないでしょうか。

そこで、必ずといっていいほど名を挙げられる一人が「本多忠勝」。

いわずと知れた徳川家康の側近中の側近、徳川軍においては「三傑」「四天王」「十六神将」等々、いずれにも数えられる猛将です。

忠勝のあまりにも有名なプロフィールはすでにご存じかと思いますので、本コラムでは特に槍の達人として知られた彼の象徴ともいえる「愛槍」と、そのエピソードに焦点をあててみましょう。
(文=帯刀コロク)

本多 忠勝のトレードマーク、名槍「蜻蛉切」

忠勝を象徴する武器として知られる「蜻蛉切」。

「天下三名槍」の一角としてあまりにも有名なこの槍は、笹の葉形の大きな穂先を持つことから「大笹穂槍」と分類されています。

刃長およそ一尺四寸(約42~43㎝、公称長は43.7㎝)、最大幅約3.7㎝とあたかも剣のような穂先を、二丈(約6m)もの柄に装着した長大な槍だったと伝わっています。(柄の長さは諸説あり。“二丈ばかり”は18世紀初めの『藩翰譜』による)

槍身の背には梵字や三鈷剣などの美しい彫金が施され、茎(なかご)には三河文殊派の刀工・「藤原正真」の銘が切られています。 ふだんよく耳にする「蜻蛉切」とは、ブランドである「銘」に対する各自のネーミング、いわゆる「号」にあたります。

名の由来は、その穂先のあまりの鋭さに当たった蜻蛉が真っ二つになってしまった、または忠勝が素早く飛び交う蜻蛉を両断した、等々いくつかの説があるようです。

前者は槍そのものの性能、後者は忠勝の槍の腕前を示すエピソードであり、ともに武勇を伝えるに十分な説得力を感じさせます。 また、蜻蛉は別名を「勝虫」ともいい、勇ましいその姿から武人にとっての吉祥としてさまざまな武具に用いられる意匠でもありました。

現存しているのは槍身のみで、柄などの一切はすでに失われてしまっています。いくつかの文献で柄の寸法や拵えが記載されていますがそれぞれに異なっており、複数のバリエーションがあったことも考えられます。

また、本多家の伝承ではもう一筋「蜻蛉切」と呼ばれた槍があったともいい、スペアや影打ち、あるいはレプリカなどの存在もあわせて想像させ、興味が尽きません。

忠勝の槍の腕前を考察する

槍の達人としてその勇名を馳せる本多忠勝。では、具体的にはどれほどの腕前をもっていたのでしょうか。

技術的な詳細は分かっていませんが、槍術のセオリーや戦国期の戦闘環境、そしていくつかの伝承を手掛かりに、忠勝の強さの秘密について迫ってみたいと思います。

まず重要なのは、戦国期における戦闘スタイルの特徴を前提に考える必要があるということです。体系だった集団戦が確立されたこの時代、足軽から上級武士に至るまで槍は主兵装として広く使われました。

「一番槍」「槍一筋」「槍働き」等々、“槍”が付く慣用句が多いことからもわかる通り、槍の扱いに習熟することは当時において必須のことだったとも言えるでしょう。そのようなポピュラーな武器について、「達人」と称されるからには殊の外際立った強さを戦場で印象付けたことが想像されます。

また、忠勝クラスの武将であれば、基本的に騎馬であることにも注意が必要です。

徒歩(かち)であれば足軽の「槍衾(やりぶすま)」のように、長い槍を一列横隊に構えて突撃するというシンプルな使い方も可能ですが、馬上では武器の取り回しが大きな問題でした。

また、騎馬武者は武器の操作と馬の騎乗を同時に行いつつ、複数の敵を相手にする必要があるため、その挙動は一層複雑なものとなりました。

馬の手綱をとるために、本来なら諸手で構える槍などの長柄武器も、片手で扱う局面も多かったでしょう。 そのため、通常の騎馬武者が使用する槍は3m前後と短めに設定され、小回りがきくように配慮されていたといわれています。

「蜻蛉切」は文献上、最大で6mにも及ぶ長大なものと伝わり、これを実戦の場で使用したと仮定するならば、それだけでも忠勝のパワーとテクニックを想像するにあり余りますね。

槍はそのリーチにより、相手の武器が短い場合には自身の安全圏から攻撃を加えられるという利点があります。しかし一方で、懐に入られたり初撃を大きく外されたり、あるいは柄の部分を掴まれたりすると著しく弱体化してしまいます。

そこで槍術者はそのデメリットを克服するため、手の内で滑らせるように槍の柄を長く持ったり短く持ったりしながら戦うのがセオリーとなっています。

刃部は穂先だけですが、長い柄を利用して叩く・払うなどの動作を行い、後端に取り付けられた「石突」という金具も打撃武器なるなど、バリエーションに富んだ技を使うことができます。

忠勝が戦場でもし蜻蛉切を振るったとしたら、騎馬による戦闘機動において上記の挙動を実現したということになるでしょう。 しかも敵は複数、兜首である忠勝めがけて死に物狂いで殺到してきたことが想像できます。

そんな修羅場を潜り抜けた忠勝とその愛槍は、敵の目にもさぞや強烈な印象となって焼き付いたでしょう。 さればこそ、「蜻蛉切の本多忠勝」が伝説となって語り継がれたのではないでしょうか。

槍の長さを変えた逸話から窺える、忠勝の凄味

おしまいに、老境になった忠勝の印象的なエピソードについて考え、まとめにしたいと思います。

忠勝は加齢とともに、長大だった蜻蛉切の柄を短くしたと伝わっています。これも文献や伝承によってまちまちですが、1m近くも寸法を詰めたともいいます。これを体力の衰えを自覚してのことと、栄枯盛衰を締めくくる逸話と捉える向きもありますが、筆者はむしろここにこそ忠勝の“凄味”を感じます。

通常、侍大将は司令官であるため、自ら槍をとって白兵戦を行うことはまずなかったと考えられています。 ましてや忠勝ほどの大功臣で、しかも晩年とあってはますます現実的なシチュエーションではないでしょう。

それにも関わらず、槍の寸法を現状の体力に合わせて短くしたということは、尚も自ら槍をとって闘うという意思表明にほかならないのではないでしょうか。

つまり“デチューン”ではなく“最適化”であったと考えられ、最後の最後まで一戦士であろうとする、忠勝の武人としての矜持を思わせるのです。




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