「どうする家康」巨星・武田信玄死す!自らの死を秘せという勝頼への遺言は本当にあったのか?

信玄の最期を描いた浮世絵(『大日本名将鑑』より。月岡芳年 作、出典:wikipedia)
信玄の最期を描いた浮世絵(『大日本名将鑑』より。月岡芳年 作、出典:wikipedia)

 大河ドラマ「どうする家康」第19話「お手付きしてどうする」。三方ヶ原の戦い(1572年12月22日)で、武田信玄の軍勢に敗れた徳川家康。家康の居城・浜松城はすぐに攻め取られるかと思われましたが、武田軍は同城を攻略することなく、刑部(静岡県浜松市北区)に向かい、越年。三河国に進軍していきました。三河に進んだ武田軍は、野田城(愛知県新城市)を包囲し、元亀4年(1573)2月中旬には攻め取ります。

 だが、この頃には、信玄の病は相当悪化していたようです(信玄の病というと肺患が有名でしたが、胃癌説も唱えられています)。野田城を陥れた武田軍は、長篠城(愛知県新城市)に向かいます。この長篠城で信玄は暫く療養していたと思われますが、病に好転の兆しは見られず。武田軍は勝利していたにもかかわらず、甲府に引き上げることになるのです。が、信玄が生きてその郷里を見ることは叶いませんでした。

 甲府に引き上げる途中の4月12日、信濃国駒場(長野県阿智村)において、信玄は53歳の波乱の生涯に幕を閉じたからです(信玄が亡くなった場所については、三州街道沿いの浪合=長野県下伊那郡など諸説あります)。信玄は死に際して、遺言を残したと言われています。『甲陽軍鑑』(江戸時代初期に編纂された武田家にまつわる軍書)には、信玄の遺言が載っているのですが、よく知られているものには「自分の死後、3年間はその死を秘すように」があります。「本当にこのようなことを信玄は遺言したの?」と思われる方もいるかもしれません。

 信玄の後継者は武田勝頼ですが、勝頼は信玄死後も「信玄の名前」で各所に書状を出していました。これには信玄死去を秘匿する意味もあったでしょう。「自分の死を隠せ」という父・信玄の遺言を守ろうとした勝頼。

 しかし、人間の死というものは、そう簡単に隠し通せるものではありません。信玄死すの噂は、勝頼の努力にもかかわらず、すぐに広がってしまいます。三方ヶ原合戦で大勝し、野田城を攻略し、乗りに乗っていた武田軍が突如、甲府に引き揚げたのだから「信玄の身に何かあったな」と思うのが普通です。家康は元亀4年(1573)5月に駿河に出兵、その時、駿府辺りまで進軍できたということで、信玄が死んだことを確信したとの話もあります。信玄の死は、家康を窮地から抜け出させたと言えます。それを思う時、家康も実に運の良い武将だと私は感じるのです。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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