「どうする家康」長篠合戦を『徳川実紀』『三河物語』などはどのように記したか?
- 2023/06/12
大河ドラマ「どうする家康」第22話は「設楽原の戦い」。史上有名な長篠の合戦が描かれました。天正3年(1575)5月、甲斐の武田勝頼に、長篠城(愛知県新城市)を攻められて苦戦する徳川家康は、織田信長に援軍を要請。信長は家康の要請に応え、自ら岐阜を出陣します(5月13日)。5月14日に岡崎に入った信長は、同月18日には、長篠(愛知県新城市)に到着。武田軍に見えにくい窪地に3万の大軍勢を配置しました(『信長公記』)。
家康は高松山に陣をおき、織田の部将・滝川一益の軍勢の前に馬防柵を取り付けます。武田勝頼は、織田・徳川連合軍の行動を防御の姿勢をとっている、臆していると見做したのでしょうか。渡河し、連合軍に決戦を挑んでくるのです。長篠城を見下ろせる鳶ノ巣山に勝頼が陣を置いたならば、織田方も苦戦したでしょうが、勝頼はそれをせず、決戦を選択したのです。
信長は、5月20日に、鳶ノ巣山に軍勢を急行させ、長篠城を包囲する武田軍に攻撃を加え、退散に追い込みます(5月21日)。そして、5月21日の早朝には、勝頼軍がついに織田・徳川軍に襲いかかってくるのです。しかし、次々に来襲する武田軍は、織田・徳川の鉄砲により、薙ぎ倒され、退却を余儀なくされるのです(『信長公記』)。
『三河物語』にも、織田・徳川軍が馬防柵を設けていたと記されています。信長軍は柵際まで武田軍に押し寄せられて、少し苦戦していたとの表現もあります。しかし、雨あられのような鉄砲玉に当たり、多くの武田の将兵が戦死したという描写は『信長公記』と同じです。馬場美濃(信春)と山県三郎兵衛(昌景)という重臣が戦死したことにより、勝頼は戦の帰趨は見えたと判断。武田軍は退却していくのです(『三河物語』)。
『徳川実紀』には、軍勢の前に、堀をつくり、塁を築き、柵を2重3重に構える織田・徳川軍の姿が記されています。同書によると、鉄砲は「数千挺」あったようです。武田軍が攻めかかってくると、やはり鉄砲により、攻撃を加えたと書かれています。それにより「人塚」が築かれるほど、武田方は戦死したとのこと。武田重臣も多く討ち死にしました。武田方は「一万三千」余りが討ち死に。その中でも「七千」は徳川方が討ち取ったと『実紀』にあります。
勝頼は、この戦に家康の嫡男・信康が参戦し、良き采配をしているのを見て、舌を巻いたと同書にはあります。『信長公記』『三河物語』『徳川実紀』の長篠合戦に関する記載を見てきましたが、馬防柵が築かれ、大量の鉄砲により、武田方が苦戦・撤退していく描写は共通していました。大量の鉄砲が織田・徳川方を有利にしたことは間違いありません。しかし、もし勝頼が鳶ノ巣山に陣を置き、主力決戦を挑まなければ「長篠合戦」はまた違う帰趨になったでしょう。
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