「どうする家康」死の間際の太閤秀吉は徳川家康に何を頼んだのか

 大河ドラマ「どうする家康」第39話は「太閤、くたばる」。徳川家康を翻弄してきた豊臣秀吉に、いよいよ最期の時が迫っていました。慶長3年(1598)5月頃、秀吉は病に伏せるようになります。

 『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)によると、病状が悪化した秀吉は、家康と前田利家(加賀藩主・前田家の祖。信長亡き後は秀吉に従い、豊臣政権を支える有力大名となる)を側に招き、こう語ったようです。

秀吉:「私の病は重く、そう長くはない。秀頼(秀吉と淀殿との間に生まれた子)が15・6歳になるまで、命を長らえたいと思っていたが、それが叶わないことは悲しいことよ。私が死んだ後は、天下の大小のことは、皆、内府(家康)に譲ろう(任せよう)と思う。私に代わって、万事、よきに計らえ」

と。秀吉は、何度もそう繰り返したようです。しかし、同書には、家康は秀吉の申し出を固辞したとのこと。すると、秀吉は

秀吉:「それならば、せめて秀頼が元服するまでは、内府がその後見をし、政務を執って欲しい」

と言ったそうです。そして、前田利家に向かい

秀吉:「天下のことは内府に頼んでおけば、安心じゃ。秀頼の補導に関しては、偏に、亞相(利家)の教諭を仰ごうぞ」

と依頼します。利家は涙を流して、秀吉の言葉に感謝したようです。秀吉の御前から引き退った後、家康は利家に提案しました。

家康:「殿下(秀吉)は、秀頼のことのみが、お心に懸かるようだ。殿下の遺命に背かないという私と貴方の誓状(誓約書)を進上すれば、殿下も安心されるのではないか」

 利家もそれに賛同したので、2人は誓状を秀吉に提出。秀吉は大いに喜んだそうです。秀吉は自分が亡き後は、天下は乱れる。それを鎮定できるのは、家康しかいないと思い、天下のことを悉く、家康に譲ろうと考えていたとのこと(『徳川実紀』)。だが、家康は「自分はその重任に適さない」として辞退したので、秀吉は不安に思い、腹心の近臣(石田三成・増田長盛・長束正家)にも「密旨」を遺言することしばしばであったといいます。

 様々な不安が秀吉を取り巻いたでしょうが、その渦中のなか、秀吉は8月18日にこの世を去ります。貧農の出身でありながらも、信長の家臣として出世。信長死後はその仇を取り、ついには天下統一を成し遂げた秀吉。その出身や境遇を考えれば、戦国三英傑(信長・秀吉・家康)のなかで、最も能力が高かったのは「秀吉」と言うこともできるかもしれません。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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