秀吉の「美濃大返し」…5時間で52キロの大掛かりな軍団移動は可能だったのか?

 大河ドラマ「どうする家康」で脇を固めるのが、ムロツヨシさんが演じる木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)である。秀吉は軍事的な才覚に長けており、さまざまな逸話が残っている。今回は「美濃大返し」を取り上げることにしよう。 

 天正10年(1582)6月2日、本能寺の変によって、織田信長は横死した。その後、信長を討った明智光秀は山崎で討伐されたが、問題は信長の後継者とその後見人を誰にするかだった。

 後継者は信長の孫の三法師に決まっていたが、誰がその後見として支えるかということになろう。その有力な候補者が羽柴秀吉と柴田勝家である。本能寺の変後の清須会議で主導権を握ったのは、秀吉のほうだった。

 翌年、秀吉と勝家の関係が決裂し、ついに雌雄を決することになった。この戦いこそが、天正11年(1583)4月21日の賤ヶ岳(滋賀県長浜市)の戦いである。「美濃大返し」とは、秀吉と勝家との一連の戦いの最中に起こったものである。

 両軍の軍勢は、秀吉軍6万、勝家軍4万といわれている。両者ともに長期戦の構えで、約1ヵ月近く膠着状態が続いていた。

 同年4月20日、秀吉が美濃に侵攻すると、賤ヶ岳付近の秀吉軍が手薄になった。これを知った佐久間盛政が勝家に進言し、単独で軍勢8千を率いて、中央を突破する攻撃を敢行したのである。

 同20日、大垣(岐阜県大垣市)で秀吉は昼食を摂っていたが、盛政が賤ヶ岳に出撃したとの報告を受けると、即座に勝利を確信したという。秀吉の思う壺にはまったということになろう。秀吉は北国脇往還沿いの村々に先遣隊を派遣すると、松明と握り飯の準備を命令した。

 同日の14時頃に約1万5千の軍勢を率いた秀吉は、大垣を出発すると、木之本(滋賀県長浜市)までの約52キロメートルの距離をわずか5時間で移動したという。これこそが「美濃大返し」である。

 道は平地ばかりでなく、丘陵地帯も含まれていたので、驚異的なスピードであるといわざるを得ない。むろん、道が舗装されているわけではない。松明と握り飯の準備を命令したのは、道を明るくし、行軍しながら食糧を補給するためだった。

 この結果、秀吉は賤ヶ岳の戦いで勝利し、最終的には越前北庄(福井市)で柴田勝家を討伐することに成功した。「美濃大返し」は、秀吉の命運を握った「奇跡」の大移動だったのである。

 ここで問題になるのは、わずか5時間で52キロメートルも移動することが可能だったのかということである。しかも舗装された道ではなく、アップダウンもそれなりにあった道である。次に、その点を考えてみよう。

 現在のフルマラソン(42.195キロメートル)の世界記録は、2時間1分9秒である(2022年9月)。このタイムを見る限り、「美濃大返しは可能ではないか」考える人がいるかもしれない。

 ただし、世界記録を持つ職業ランナーは、月に約1千キロメートルの走り込みを行い、レース直前になると、「勝つための調整」を細心の注意を払って行う。普段の食事の管理なども、かなり徹底しているはずだ。コンディションの整え方が、まったく違うのである。

 マラソンの世界では、そこそこ練習を積んだ市民ランナーが3時間を切れば、一流であるという。それでも彼らは、専用のユニフォームやシューズに身を包んでいる。

 ランニング・コースも多少のアップダウンがあるとはいえ、基本は平坦な部分が多いといえる。道も広く舗装されており、凹凸がないところがほとんどである。つまり、走る条件が、現代のマラソンランナーと「美濃大返し」のケースとでは、圧倒的に異なることに注意すべきだろう。

 当時の状況を考えると、大垣から賤ヶ岳までのコースは、起伏に富んでおり、道も細く路面も荒れていたと考えられる。道幅は、2間(約3.6m)から3間(約5.4m)くらいしかなかった。約2万の軍勢が行軍すれば、まさしく押し合い圧し合いというところでなかったか。

 問題は、兵卒の装備である。足軽などは軽装とはいっても、武具も携行せねばならず、現代のマラソンランナーよりもはるかに重たい装備を背負っていた。履物は、比較にならないような代物だったに違いない。

 以上のような事情を考慮すると、わずか5時間で約52キロメートルを走破するのは不可能であるといわざるを得ない。一時間で約10キロメートルを走るペースを維持するのは、極めて困難であると考える。

 いくら道沿いに松明や食糧を用意していても、走るスピードは上がらなかったはずである。兵卒は周囲の敵の様子にも注意をしなくてはならず、ただひたすら走ればよいというものではなかった。

 近代の軍隊の行軍距離は、一時間で約12キロメートルを移動するという。大部隊では、1日で24キロメートルが限界だった。あまりに疲労が蓄積すると、実際の戦闘で支障が生じたり、行軍中に脱落者が出ることも考えられる。

 しかし、これはあくまで訓練を受けた職業軍人の話である。それを戦国時代に適用するには、酷というものであり、現実的ではないといえよう。

 戦国時代の兵卒は、在地から徴集された土豪や百姓が主体であった。整然とした近代の軍隊とは、質的に違っていたと考えるべきである。あまり運動をしない現代人よりは体力があったに違いないが、それでも「美濃大返し」は不可能であったといわざるを得ない。

 したがって、いわゆる「美濃大返し」は、史実として認めがたいといえる。秀吉伝説の一つとして数えるべきであろう。

 仮に、条件を変えて考えるとしても、馬に乗った小部隊が先遣隊として早く賤ヶ岳に到着し、周囲の諸勢力に糾合を呼びかけることで、それなりの勢力に膨らんだ可能性はあるかもしれない。

 しかし、それは史料的な裏付けがなく、あくまで私の想像にしか過ぎない。いずれにしても、ごく常識的に考えてみれば、「美濃大返し」を盲目的に信じることは危険であると考える。

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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