古代の住居事情「静岡県は“竪穴住居”じゃない!?」 ~有名な2つの遺跡で起きた偶然~
- 2023/10/25
円形または方形に竪穴を掘り、真ん中には炉があって、屋根は藁葺・・・。所謂“竪穴住居”。これは一般的な歴史知識ですね。しかし、静岡県では決して「古代の住居=竪穴住居」と思う人ばかりではありません。これはどういうことでしょうか?
今回は「静岡県民は古代の住居が必ずしも “竪穴住居” と思わない理由」をお話します。
一般的な“竪穴住居” 教科書にはどう書かれてる?
そもそも何故、竪穴住居が一般的なのかといえば、学校でそう習うからです。そこで、古代の住居について教科書ではどのように書かれているのか調べてみました。小学校6年 社会
< 縄文時代 >
このころの人々は、たて穴住居という家に家族で住んでいました。入口はせまいけれど、中は意外に広かったです。
< 弥生時代 >
※記載なし中学校 歴史
< 縄文時代 >
ほり下げた地面に柱を立てて屋根をかけた、たて穴住居を造って住みました。
< 弥生時代 >
たて穴住居の近くには、ねずみや湿気を防ぐ高床倉庫を造って~
高校 日本史
< 縄文時代 >
住居は地面を掘りこんでつくった竪穴住居で、1戸に数人から10人くらいの家族が住み~
< 弥生時代 >
住居はいぜん竪穴住居であった~
但し、今回参考にした高校の教科書は古いものなので、同じ山川出版社から出ている『新 もういちど読む 山川日本史』の記述も紹介しておきます。
< 縄文時代 >
竪穴住居の集落で生活をいとなんだ。住居の中央には炉があり、平均4~5人くらいが住み~
< 弥生時代 >
住居については、数個の竪穴住居や平地住居に~
『新 もういちど読む 山川日本史』で“平地住居”という文字がようやく登場しますが、それ以外は“竪穴住居”のみの紹介です。
古代の住居の種類
以上のように、ほとんどの教科書で“竪穴住居”のみ記載されています。しかし、古代の住居は“竪穴住居”だけではありません。古代の住居は概ね以下の3種類に分けられます。- ①竪穴住居
- ②平地住居
- ③高床住居
それぞれ説明します。
竪穴住居
古代住居の代表格です。特徴は、その名の通り“地面を1mないし70~80cm掘りくぼめて”柱を立て屋根を葺く造り方です。 竪穴を掘った理由はいろいろありますが、有力なのは「室内の温湿度が安定する」説と「居住空間の確保」説、「屋根が高くならないので少ない資材で建てられる」説です。
昔は「温湿度」説が有力でしたが、最近は「居住空間」説や「少ない資材」説の方が有力です。
私としては掘った穴の縁を壁とすれば屋根際(壁際)まで居住空間として使えるので「居住空間」説かなと思います。だって、壁が無いと室内の隅の方は屋根が低すぎて居心地が悪くなりますよね。
平地住居
基本構造は竪穴住居と同じになりますが、竪穴を掘らず地表にそのまま屋根を葺き下ろす造りの住居です。壁を持つ住居が広まる古墳時代以降になると比較的多くみられるようになります(家型埴輪の形です)。高床住居
高床倉庫(柱にねずみ返しがついている)の住居版といえば、みなさんイメージできると思います。 因みに、奈良県の唐古・鍵遺跡出土の土器には重層の建物が描かれています。こうした土器の絵から、高さのある建物が神聖であったという観念が存在したと推定できます。ですから、ある程度身分が高い人の住居や神殿に用いられていたと考えられます。
このように、古代の住居は3種類あるにもかかわらず教科書で “竪穴住居” ばかり紹介するのには、とても明確な理由があります。それは「発見される住居跡は、圧倒的に“竪穴住居”が多い!」からです。当然ですね・・・。
しかし、冒頭から述べているように静岡県は「古代の住居が必ずしも“竪穴住居”ではない」イメージを持つ人がいます。そのワケは静岡県内の有名な2つの遺跡にあります。
静岡県の古代住居が必ずしも“竪穴住居”ではない理由
登呂遺跡と蜆塚遺跡
登呂遺跡は、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)が発見されるまでほとんどの教科書に登場していた静岡県静岡市にある弥生時代を代表する有名な遺跡です。現在も住居や高床倉庫、水田などが復元されており、多くの見学客で賑わっています。また、静岡県中東部地区の小学6年生は大抵ここに歴史の社会見学としてやってきます。しかし、登呂遺跡で発見された住居は “竪穴住居” ではなく、“平地住居”なのです!
ちなみに同じ静岡県の浜松市には縄文時代の蜆塚遺跡があります。こちらも三内丸山遺跡(青森県)が発見されるまで縄文時代の例として載せていた教科書もあったくらい縄文時代を代表する有名な遺跡です。
静岡県西部地区の小学6年生は、こちらに社会見学でやってきます。しかし、この蜆塚遺跡で発見された住居も“平地住居”なのです。
静岡県でも教科書や学校の授業では “竪穴住居” と学びます。そして、静岡県内の他の遺跡ではほぼ“竪穴住居”が発見されています。
しかし、実際に見学に行く遺跡の住居は “竪穴住居” では無い・・・。時代も地域も違う、しかし、有名なこの2つの遺跡で発見された住居跡が、静岡県で「古代の住居≠竪穴住居」のイメージをつくってしまう理由なのです。
なぜ “平地住居” なのか?
ここで、登呂&蜆塚遺跡が“平地住居”だった理由を紹介します。登呂遺跡
登呂遺跡の平地住居は周りに溝を造るため掘った土を盛って壁にしてから柱を立て屋根を付ける“竪穴状平地住居”です。ですから、一見して竪穴住居にも見えます。要注意です!
(登呂遺跡を竪穴住居と紹介している歴史サイトもあるくらいですから・・)
では、何故こんな手間をかけたのか?『静岡市立登呂博物館HP』では、
遺跡周辺は、地面を掘るとすぐに水が染みだしてくる土地のため、地面を掘って床や壁をつくる「竪穴式住居」を建てる場所としては不向きでした。
とあります。要するに竪穴を掘りたくても掘れない事情があったわけですね。
蜆塚遺跡
一方、蜆塚遺跡は地表にそのまま柱を立てて屋根を付けた平地住居ですが、その理由を『浜松市博物館』は、
蜆塚遺跡は三方原台地の上に立地していますが、台地の地表面は礫を非常に多く含んだ土質のため、石器で竪穴住居分の土量を掘る労力は大変なものだったと思われます。
と説明しています。
また可能性として、「既に竪穴の立ち上がり部分が失われている」、「気候が穏やかで竪穴を掘る必要が無かった」、「建材が豊富であった」説も挙げられています。
しかし、
三方原台地上の縄文時代遺跡の住居跡は、こうした竪穴が確認できない住居跡が非常に多いです。
とも付け加えていますので、三方原台地の地盤の固さと気候の温暖さが理由なのではないかと私は思います。
まとめ
つまり、2つの遺跡が“平地住居”だった理由には「立地条件によって“平地住居”を造らざるをえない状況だったから」という共通点はあるものの、その立地条件は全く異なるもので、“偶然”同じ“平地住居”になったと言えます。みなさんにとって「古代の住居=竪穴住居」は常識だったと思いますが、静岡県に暮らす小学6年生は教科書と違う史実も見せられるのです。ですから、その時の記憶が残っている人は「古代の住居≠竪穴住居」となる訳です。
もっとも、「何故、竪穴じゃないの?」という疑問解決から歴史好きになるきっかけが生まれやすい?と考えれば、静岡県の小学6年生は将来有望かもしれませんね。
【主な参考文献】
- 『新詳説 日本史 改訂版』山川出版社(1993年)
- 『新 もういちど読む 山川日本史』山川出版社(2017年)
- 『新編 新しい社会6 歴史編』東京書籍(2024年)
- 『新しい社会 歴史』東京書籍(2021年)
- 『知られざる縄文ライフ』誉田亜紀子 誠文堂新光社(2017年)
- 『知られざる弥生ライフ』誉田亜紀子 誠文堂新光社(2019年)
- 『列島の考古学 縄文時代』能登健 河出書房新社(2011年)
- 『列島の考古学 弥生時代』武末純一・森岡秀人・設楽博己 河出書房新社(2011年)
- 『古代住居のはなし』石野博信 吉川弘文館(1995年)
- 静岡市立登呂博物館HP
【取材協力】
- 浜松市博物館
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