蛇行剣って何? 奈良・富雄丸山古墳から出た話題の剣

2023年1月、円墳としては国内最大級の規模を誇る奈良県・富雄丸山古墳から、盾形銅鏡と長さ2mあまりの「蛇行剣(だこうけん)」という屈曲した鉄剣が出土したと発表され、大きなニュースになりました。盾形銅鏡は今まで他に出土例がありませんが、蛇行剣はこれまで全国で出土しており、研究が重ねられています。

今回はこれまでの研究成果をもとに、蛇行剣の出土事例や想定されている被葬者像などについてご紹介します。

国内最大の蛇行剣が出土した富雄丸山古墳

奈良県奈良市にある富雄丸山古墳は、4世紀後半につくられた直径109mの円墳です。円墳としては国内最大の規模になります。三段築成で墳丘には葺石が敷かれ、埴輪が並んでいたと考えられています。また、北東部には「造り出し」とよばれる祭祀を行うための施設があります。

墳丘頂上は明治時代に盗掘に遭いましたが、粘土槨に覆われた割竹形木棺が納められていたと考えられています。京都国立博物館や奈良県の天理大学付属天理参考館には、この埋葬施設の出土品といわれる遺物が伝わっています(以下参照)。

  • 三角縁神獣鏡3面
  • 鍬形石
  • 有鈎釧形同製品
  • 石製品(琴柱形、ヤリガンナ形、ノミ形、刀子形、斧頭形)
  • 管玉、小玉
  • 銅板
  • 合子

※参考:三角縁神獣鏡の一つ、三角縁画文帯五神四獣鏡(天理大学附属天理参考館展示、出典:wikipedia)
※参考:三角縁神獣鏡の一つ、三角縁画文帯五神四獣鏡(天理大学附属天理参考館展示、出典:wikipedia)

その後、1972年に行われた第一次発掘調査では、墳頂部から巴形銅器や鉄刀、鉄剣、農耕具、漁具などが出土しています。また、その後も何度か調査が行われ、墳丘などから円筒埴輪や家形埴輪、盾形埴輪などの埴輪が出土しています。

今回、盾形銅鏡と蛇行剣が出土したのは、造り出し部分に設けられた未盗掘の埋葬施設からです。墳頂部同様、粘土槨に包まれた木棺があり、粘土の上層部分から盾形銅鏡と蛇行剣が見つかりました。

「蛇行剣」とは、剣身が屈曲した鉄剣のことです。富雄丸山古墳から出土したものは全長267㎝もあります。これまでに全国で出土した蛇行剣の中でも最大の長さ、最古の事例です。また、古墳時代の鉄剣としても、東アジア最大の長さといわれています。

これまでの蛇行剣研究

蛇行剣はこれまで85例が見つかっています。古墳時代中期(5世紀)から後期(6世紀)の古墳や地下式横穴墓(古墳時代中期・後期の九州南部に見られる墓制。竪穴を掘った後、さらに横に掘り進めて空間を作って死者を葬る)から出土し、分布地域は九州南部から新潟、栃木県まで広がっています。

蛇行剣が出土した古墳の年代と地域の相関性を見ると、古墳時代中期は九州北部から関東までの地域で出土し、古墳時代後期は九州南部を中心とする地域から出土する傾向にあります。

古墳時代中期の蛇行剣には、全長70cm前後、緩やかに2か所で蛇行するという共通点が見られることから、一元的な生産・分配の可能性が指摘されているのに対し、後期の蛇行剣は形状に共通性があまりなく、中期のような一元的な管理体制はなかったと考えられています。

蛇行剣の出土地域や年代の関係をまとめると以下のようになります。

年代出土地域出土品の傾向
5世紀
(古墳時代中期)
九州北部から関東・全長70㎝前後
・緩やかに2か所で蛇行
・一元的な生産と分配が想定される
6世紀
(古墳時代後期)
九州南部中心顕著な共通点見られない
・一元的な管理体制は想定されない

蛇行剣は古墳時代中期、後期を通じて地域の首長墓から古墳は出土せず、首長よりもランクの低いリーダー的な存在の墓の副葬品であると考えられます。ただし、蛇行剣を出土する古墳は交通の要衝に築かれているケースが多く見られます。

また、蛇行剣ともに豊富な副葬品を有することも、蛇行剣を出土する古墳の特徴です。たとえば、愛知県・花の木古墳群の7号墳(5世紀前葉)からは、蛇行剣とともに鉄鎌や鉄斧、太刀、勾玉などが副葬されていました。

蛇行剣の用途については、その形状から武器ではなく、農耕祭祀に用いる道具ではないかとする説があります。水とかかわりのある、蛇や龍に対する信仰との関連性を説く研究者もいます。

富雄丸山古墳出土の蛇行剣の意義

これまでの出土例をもとに、富雄丸山古墳出土の蛇行剣について考察をしてみたいと思います。

出土した古墳の時期が古い

蛇行剣を出土する古墳は5世紀~6世紀に築造されたものが多いですが、富雄丸山古墳は4世紀後半にさかのぼる古墳です。

これまでに類のない長さ

これまで出土している蛇行剣は全長70cm前後のものが多く、三重県・天王山1号墳や奈良県・北原古墳から出土したものが80cm度で最大でした。富雄丸山古墳から出土した蛇行剣は2.5m以上もあり、長大な剣を製造できる高度な技術力がしのばれます。

5世紀代の蛇行剣は2か所で蛇行する傾向にありますが、富雄丸山古墳のものは長大であるためか、6か所で蛇行しています。

ちなみに、これまで古墳出土の鉄剣としては、広島県・中小田第2号古墳出土のものが1.15mと最長で、富雄丸山古墳出土の蛇行剣は2倍以上の長さがあります。

交通の要衝に築かれた古墳

「蛇行剣が出土する古墳は交通の要衝に築かれているケースが多い」と上述しましたが、富雄丸山古墳もそうしたケースと合致します。この古墳が築かれているところは、河内と大和を結ぶ道が東西、富雄川が南北に走っており、水路と陸路が交わる重要な場所です。

以上3点から、富雄丸山古墳の蛇行剣は従来と同様に、交通の要衝に築かれた古墳の事例といえます。また、時期的にはこれまでの出土例よりもさかのぼることになりました。一方で、5世紀代のような「一元的な生産と分配」が想定されにくい、2.5m以上という異様な長さをどう考えればよいのか、新たな謎が生まれたといえるでしょう。

富雄丸山古墳の被葬者像は?

富雄丸山古墳は日本最大規模を誇る直径109mですが、この古墳が築かれた4世紀後半には大和で全長200mを超える前方後円墳が次々と築かれました。続く4世紀末から5世紀には、河内でも全長200m~400mの巨大な前方後円墳が築かれます。

大和の佐紀古墳群、河内の百舌鳥・古市古墳群の大型前方後円墳はヤマト王権の「大王墓」ともいわれており、富雄丸山古墳の墳丘に葬られた人物はヤマト王権の中で、大王を支えた人物なのかもしれません。

なお、蛇行剣は古墳の造り出し部の埋葬施設から出土しています。しかし、一般的には墳丘に葬られた人物の方が造り出しに葬られた人物よりも地位が高いとされています。上述したように、墳丘部の埋葬施設は明治時代に盗掘に遭っていますが、三角縁神獣鏡をはじめとする多彩な副葬品を持っていたと考えられます。

この状況について「盾形銅鏡と蛇行剣は造り出しに葬られた人物ではなく、墳丘に葬られた人物を守るための副葬品である」とする見解(橿原考古学研究所副所長・岡林孝作氏)もあります。

もっとも「富雄丸山古墳の被葬者はヤマト王権の中で大王を支えた人物」という説に対しては、疑問視する研究者もいます。「ヤマト王権と対立した豪族の墓ではないか」という説を唱えるのは、元・同志社大学教授で古代学研究者の辰巳和弘氏です。

その根拠として、ヤマト王権の象徴である前方後円墳ではないことや、大王墓が次々と築かれた地域から離れて築造されていることを挙げています。さらに『日本書紀』や『古事記』に出てくる神武東征説話で、神武天皇に抵抗したナガスネヒコの支配地域とされているのが、富雄丸山古墳が位置する地域であることとも符合するといいます。

さいごに

古代の中国の史書に記述された倭(日本)の姿として、3世紀の邪馬台国、5世紀の「倭の五王」がよく知られています。しかし、その間の4世紀という時代は中国の史書に記述がなく「空白の4世紀」ともいわれています。

4世紀後半に築造された富雄丸山古墳から出土した、盾形銅鏡と蛇行剣という特異な出土品は、空白の世紀の謎を解明する一助になってくれるはずです。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

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