「結城親光」三木一草の一人 足利尊氏暗殺を企てた後醍醐忠臣
- 2024/10/24
建武2年(1335)、足利尊氏が後醍醐天皇と決別し、建武の新政から離反します。関東から怒濤の進撃で京を目指し、翌年正月に入京。後醍醐天皇は比叡山に逃れました。このとき、尊氏暗殺を企てた武将がいました。
結城親光(ゆうき・ちかみつ)。鎌倉幕府有力御家人の名門武家出身ながら、いち早く幕府から離れ、討幕の戦に加わった後醍醐天皇の忠臣です。楠木正成らに並ぶ「三木一草」の一人で、知る人ぞ知る猛将。その活躍を紹介します。
結城親光(ゆうき・ちかみつ)。鎌倉幕府有力御家人の名門武家出身ながら、いち早く幕府から離れ、討幕の戦に加わった後醍醐天皇の忠臣です。楠木正成らに並ぶ「三木一草」の一人で、知る人ぞ知る猛将。その活躍を紹介します。
護良親王逮捕も 後醍醐親衛隊の活躍
結城親光は、陸奥・白河(福島県白河市)を拠点にした白河結城氏、結城宗広の次男。この家は、鎌倉幕府の有力御家人で下総・結城(茨城県結城市)を拠点にした結城氏の分家です。
結城朝広
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広綱 祐広(白河結城氏初代)
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宗広
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親光 親朝
六波羅に衝撃を与えた親光の離反
後醍醐天皇が鎌倉幕府に反旗を翻すと、幕府は鎮圧部隊を派遣。元弘元年(1331)、結城宗広が奥州から遠征します。後醍醐天皇は逮捕され、翌年、隠岐に流されます。しかし、その後も楠木正成の再挙兵など畿内は再び不穏な情勢に。元弘2年(1332)、今度は結城親光が派遣され、反幕府勢力(宮方)の鎮圧に当たります。このころ、後醍醐天皇の第3皇子・護良親王が令旨(皇太子の命令書)を各地の武将に出し、討幕への参加を要請。白河にいた結城宗広も元弘3年(1333)4月2日、護良親王の令旨を手にします。
畿内にいた親光はいち早く幕府軍から離脱、4月上旬には宮方に転じました。『太平記』でも、楠木正成、赤松円心(赤松則村)ら宮方の武将を侮っていた京・六波羅探題(鎌倉幕府の出先機関)も、頼りにしていた勇猛な親光の離反には衝撃を受けます。幕府側はその後も離脱者が続出。親光はその流れに拍車をかけたのです。
時期 | 合戦名(場所) | 主な人物 |
---|---|---|
元弘元年(1331) 9月 | 笠置山の戦い (山城国 笠置山) | 《宮方》千種忠顕、 四条隆資 《幕府方》 大仏貞直、金沢貞冬、足利高氏(のちの尊氏) |
9月11日 | 赤坂城の戦い (河内国 赤坂城) | 《宮方》護良親王、楠木正成 《幕府方》大仏貞直、金沢貞冬、北条時見、足利高氏 |
元弘3年(1333) 2月22日~閏2月1日 | 上赤坂城の戦い (河内国 上赤坂城) | 《宮方》平野将監、楠木正季 《幕府方》阿蘇治時、長崎高貞、本間九郎、結城親光ほか |
2月29日 | 吉野城攻防戦 | 《宮方》村上義光、村上義隆 《幕府方》二階堂道蘊 |
閏2月29日 | 船上山の戦い (伯耆国 船上山) | 《宮方》名和長年、名和行氏 《幕府方》佐々木清高、佐々木昌綱、糟屋重行 |
2月~5月 | 千早城の戦い (河内国 千早城) | 《宮方》楠木正成、楠木正季、平野将監 《幕府方》阿蘇治時、名越宗教、大仏貞直、新田義貞、長崎高貞ほか |
5月 | 六波羅攻略 (山城国) | 《宮方》足利高氏、赤松則村 《幕府方》北条仲時、北条時益 |
5月11日 | 小手指原の戦い (武蔵国 小手指原) | 《宮方》新田義貞 《幕府方》桜田貞国、長崎高重、長崎孫四郎左衛門 |
5月12日 | 久米川の戦い (武蔵国 久米川) | 《宮方》新田義貞 《幕府方》桜田貞国 |
5月15~16日 | 分倍河原の戦い (武蔵国 分倍河原) | 《宮方》新田義貞 《幕府方》北条泰家、北条貞国 |
5月16日 | 関戸の戦い (武蔵国 霞ノ関) | 《宮方》新田義貞 《幕府方》北条泰家 |
5月18~22日 | 鎌倉の戦い (相模国 鎌倉) | 《宮方》新田義貞、足利義詮 《幕府方》北条高時、北条守時、長崎高資 |
5月22日 | 東勝寺合戦 (相模国 鎌倉) | 《宮方》新田義貞 《幕府方》北条高時 |
一方、父・宗広は5月、新田義貞が鎌倉に攻め込むタイミングで幕府を見限り、義貞軍に参加。令旨を手にした後もぎりぎりまで情勢を見極めていたようです。
雑訴決断所や窪所などに登用
結城親光は建武政権で恩賞方、雑訴決断所といった重要機関や後醍醐天皇の親衛隊、窪所(くぼどころ)のメンバーに取り立てられ、検非違使にも任じられます。京周辺警備、治安維持の役割が期待されました。また、親光は「三木一草」と呼ばれた後醍醐天皇の忠臣の1人。「ゆうキ」結城親光、「くすのキ」楠木正成、「ほうキ」伯耆守の名和長年の3人の「キ」と、「ちグサ」千種忠顕の計4人が「三木一草」です。
楠木正成は言うまでもなく、後醍醐天皇の隠岐配流に同行した側近中の側近・千種忠顕や、隠岐脱出後の後醍醐天皇を背負って伯耆・船上山(鳥取県琴浦町)に迎えた名和長年といった錚々たるメンバー。この3人と比べると、親光の知名度は高くありませんが、後醍醐天皇にとっては同様に頼りになる武士だったのです。
後醍醐暗殺未遂犯の取り調べも
結城親光の活動期間は長くありませんが、数々の活躍が『太平記』に記されています。建武元年(1334)春、北条残党鎮圧のため「天下安鎮の法」という祈禱が営まれます。紫宸殿に祭壇を設け、慈厳僧正を招いた法会で、内裏の東西南北の門を警護したのは、親光と楠木正成、塩冶高貞、名和長年の4人でした。
続いて10月、護良親王に謀反の疑いがかかります。足利尊氏が後醍醐天皇の寵姫・阿野廉子を介して讒言。後醍醐天皇は親王流罪を決めます。
清涼殿での歌会に参内した護良親王のお供の武士は12人。まったく無警戒でした。親光と名和長年が鈴の間あたりで待ち受け、親王を捕縛。1間(1・8メートル)四方の狭い部屋に木材を交差させて打ちつけ、厳重に閉じこめたのです。
また、建武2年(1335)6月には、北条泰家(北条高時の弟)を匿っていた西園寺公宗が後醍醐天皇暗殺を計画しますが、あえなく発覚します。親光は名和長年、中院定平とともに西園寺公宗らを一斉検挙。親光は三善文衡を3日3晩拷問して、すべて白状させました。三善文衡は、謀反をけしかけた西園寺公宗の側近です。
なお、『太平記』は史実と時期のずれがあり、護良親王捕縛は建武2年3月、西園寺公宗追討は同年秋と書かれています。
尊氏暗殺狙い偽装降伏 見破られ討ち死に
結城親光は名和長年らとともに親衛隊の役割を果たし、後醍醐天皇に最も頼りにされていた武将の一人でした。ただ、建武の新政は恩賞問題などから多くの武士に反発を招き、発足から2年ほどで崩壊に向かいます。武士の信頼を集める足利尊氏が離反したのです。「降参したなら鎧を脱げ」
新田義貞に連勝し、足利尊氏は関東から一気に進軍。建武3年(1336)1月11日、入京します。その軍勢80万騎というのは『太平記』らしい誇張です。後醍醐天皇は京を撤退、比叡山に逃れます。こういうときこそ天皇を警護すべき役割だった結城親光ですが、あえて京に残りました。親光は禅僧の縁を頼って尊氏に投降を申し出ます。ただ、尊氏は親光という人物をよく知っていたようです。
尊氏:「親光は心から降参するつもりはないだろう。この尊氏をあざむくために降参するふりをしているだけだ。とはいえ、ともかく様子を聞いてみるか」
派遣された大友貞載が高圧的に対応。貞載の言葉に親光は本心が見抜かれたことを察します。
貞載:「降参した者の決まりだ。鎧兜を脱ぎなされ」
親光:「鎧兜を脱がせよと命じられて来られたのなら、差し上げましょう」
親光は言うやいなや、3尺8寸(約115センチ)の太刀を抜いて馬を走らせ、切っ先を大友貞載の首元に。大友貞載は太刀を抜きかけたまま落馬。これを見た大友貞載の家来300余騎が親光主従17騎を取り囲んで1人残らず討ち取りました。
敵も味方も「惜しい武者を一瞬のうちに失ったのは残念だ」といい、尊氏の運の強さを思い知ったといいます。親光は敵味方から惜しまれる勇猛な武将でした。
忠臣・親光を悼む北畠親房の書状
大友貞載を一瞬で討ち取る武芸の腕を見せた結城親光ですが、多勢に無勢。足利尊氏暗殺を計画しながら、尊氏の前に出る機会なく討ち死にしたのです。結城宗広はこのとき、北畠顕家とともに奥州から京へ向かっていましたが、北畠親房(顕家の父)の書状で親光の死を知ります。親房は親光の忠節を賞賛し、その死を悼んでいます。
なお、『梅松論』や『太平記』でも「天正本」の系統では、親光は最初から大友貞載を標的にしていたとしています。大友貞載は九州・豊後国出身の武士。新田義貞率いる尊氏追討軍に加わっていましたが、箱根・竹下の戦いで、足利側に寝返りました。宮方からすると憎い裏切り者だったのです。
なお、「三木一草」のほかの3人もこの年の5月~6月末の戦いで戦死しました。
白河結城氏 秀郷流藤原氏の名門武家
結城親光死後も白河結城氏は父の宗広、兄の親朝が残り、東北方面の南朝主力と期待されます。しかし、延元3年(1338)には宗広が死去。親朝は苦境に立たされていきます。船が難破、客死した父・宗広
結城宗広、親朝父子は建武3年(1336)、奥州から兵を率いて京を奪還する功績を挙げるなど北畠顕家とともに行動。宗広は後醍醐天皇から宝刀「鬼丸」を与えられ、親朝は下野国守護職を得ます。延元2年(1337)8月に奥州を出発した北畠顕家の再上洛には、結城宗広が同行し、親朝は白河に残ります。北畠顕家は鎌倉を奪取し、延元3年(1338)1月には美濃・青野原の戦いで足利軍を破るなど快進撃。しかし、5月22日、高師直との激戦で顕家は戦死します。結城宗広はこの後、後醍醐天皇にみたび奥州の兵を動かすことを提案。義良親王(後村上天皇)、北畠親房らとともに海路、奥州に向かいます。ところが、船は難破。漂着後、宗広は白河に帰還することなく病死。『太平記』によると、臨終の言葉はすさまじく、そのまま地獄に落ちたとされています。
宗広:「わが後生を弔うなら追善供養、読経などをするな。ただ朝敵の首をわが墓前に掲げよ」
宗広の死は『平家物語』の平清盛の死に際とそっくり。出家した入道姿ながら戦闘意欲満々の宗広を清盛と重ねた『太平記』の技巧です。
奥州に残った結城親朝は北畠親房の要請に応え、たびたび北朝勢と戦いますが、周囲は北朝勢ばかりとなり、次第に孤立。康永2年(1343)、ついに北朝側に寝返りました。東国で劣勢に追い込まれた南朝の立場を貫くのは困難でした。
頼朝寵臣・結城朝光がルーツ
結城親光のルーツは平将門を討った名将・藤原秀郷。秀郷流藤原氏の有力一門・小山氏から独立した結城朝光が結城氏の祖です。結城朝光は少年の頃から源頼朝に仕え、武勇に優れ、実直で人望も厚い鎌倉幕府の有力御家人。源平合戦、奥州合戦の戦功で挙げた新たな所領の一つが陸奥・白河でした。朝光の長男・朝広とその庶子・祐広が陸奥・白河を拠点とし、白河結城氏が誕生。結城氏本家は朝広の嫡男・広綱の家系が継いでいます。結城祐広の嫡男が宗広です。
おわりに
鎌倉幕府滅亡後、結城宗広は「京、鎌倉、奥州で軍忠を尽くした」と申告しています。結城親光が畿内でいち早く宮方に付いたばかりでなく、兄・親朝は奥州で、父・宗広は鎌倉で討幕の戦いに参戦。足利、新田に次ぐ軍功と評価されました。京の貴族である北畠顕家が指揮し、猛烈な強さを発揮した奥州軍も白河結城氏抜きでは成立しなかったでしょう。また、親光の姿には、後醍醐天皇に信頼され、単独で敵将を狙った勇猛さ、敵味方に死を惜しまれた人望などは祖先・結城朝光と重なる部分もあります。
【主な参考文献】
- 兵藤裕己校注『太平記』(岩波書店、2014~2016年)
- 亀田俊和、生駒孝臣編『南北朝武将列伝 南朝編』(戎光祥出版、2021年)
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