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【史跡散策】道三と信長の岐阜城は城下もすごかった

 岐阜市の岐阜城は岐阜市街地の東北、金華山頂とその麓が城址で、古くは井ノ口と呼ばれ、織田信長により ”岐阜” と改められた。別名は稲葉山城、金華山城、井口城。岐阜駅はJRと名鉄が合流し、駅前には堂々とした金ピカの信長像。

 岐阜駅からはバスが出ているが、歩いても行けないほどの距離ではない。金華山を含めて一帯が岐阜公園となっている。園内にはお茶屋さんや美しい三重塔もある。岐阜金華山ロープウェーで8合目あたりまで登れる。

三重塔
三重塔
ロープウェイ
ロープウェイ

 天守は復興天守。室町時代、美濃では土岐氏が岐阜城の前に川手城を本城として守護の座につき、その筆頭家臣の斎藤帯刀左衛門藤原利永が、修築して居城としたとされる。 孫の斎藤越前守利国は土岐成頼、正房二代の執事。子の利親は近江で戦死し、遺児利良が幼少のため、池田郡白樫城主長井藤左衛門利安がこの城に移って補佐した。

 通説ではこの頃、 山城山崎から来た一介の油売り松波庄五郎が利安の推挙により、政頼の弟、鷺山城主土岐頼芸に任官した。庄五郎は改名して西村勘九郎と名乗り、長井豊後守利隆の養子となって長井新九郎利政と改名する。利政は国守頼芸を大桑城に移し、自らは稲葉山城に入り、斎藤左近大夫秀竜と名乗り、山城守を称した。 天文、1539年のことで、城は修築され、 天守も構えられた。 2年後の1541年、頼芸をも追放し、美濃一国を横領した。1548年頃、城を子の義龍に譲って鷺山城に隠居、仏堂入りし道三と名乗った。このあたり、数年前の大河ドラマ「麒麟がくる」でもよく描かれていた。

 道三は義龍を排除しようとした。これを知った義龍は弟2人を誘殺する。義龍は長良川で戦い、道三は惨敗して戦死した。義龍はその5年後の1561年に急死、子の龍興が14歳で城主となったが、信長に攻略され追放される。

 天守からは長良川が一望できる。

天守からの眺望
天守からの眺望

 龍興を降した信長は、小牧山城から移り、 居城として岐阜城と名付けた。1567年のことで、 外国人宣教師を驚かせた城と城下町が完成する。よく知られている楽市楽座といった自由経済市場も設けられた。

 すぐ下には大きな3階建ての仏閣があり、岐阜大仏が安置されている。

岐阜市街地の商店街も岐阜城下町の名残り。2023年、岐阜で唯一の百貨店・高島屋は撤退を発表した。

岐阜市街地の商店街
岐阜市街地の商店街

 そして市街地にある金神社は、お金の神様として人が集まる。本殿のすぐ後ろには高層マンションが分譲中だ。

金神社
金神社
金神社
金神社

 1576年、安土城を築いた信長は、子の信忠に岐阜城を譲って三七信孝が入城した。本能寺の変に信長・ 信忠父子が倒れ、織田の跡目をねらった信孝は1583年、 織田信雄に攻められ、その軍門に降り、尾張野間で自刃した。その後、大垣城主池田恒興信輝の子、之助 、輝政、秀吉の養子秀勝が入城するが、輝政は修築を行い、後の姫路築城の基盤となる。秀勝は朝鮮出兵で病死して、信忠の嫡男秀信が城主となった。

 1600年、関ヶ原の戦いで秀信は石田三成に味方して岐阜城を守ったが、福島正則、池田輝政、細川忠興らの東軍の大軍に攻められ、8 月23日、秀信は降伏した。その後、秀信は高野山に蟄居して1605年、 25歳で病死し、織田の嫡流は絶えた。その後の岐阜城には城主はなく、家康の命による加納築城により、廃城となり、天守は加納城に移された。

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  この記事を書いた人
かのまお さん
小説家&ライター。 神社仏閣やパワースポットが好き。 社寺系のゼネコンに勤務歴あり。 小説家は別名義で活動、芥川賞ノミネート。

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