【岡山県】津山城の歴史 鉄壁の守りを誇る石垣の名城

津山城の備中櫓(復元)
津山城の備中櫓(復元)
 JR姫新線に乗って津山駅が近くなると、北の方角に壮大な津山城(つやまじょう)が見えてきます。桜の季節は石垣がピンクに染まり、夏には新緑で彩られる風景が見られることでしょう。

 また3月下旬~4月上旬にかけては「津山さくらまつり」が開催され、毎年多くの人々が訪れる観光スポットになっています。

 そんな津山城ですが、巧妙に守りの工夫が施された鉄壁の要塞でもありました。それは過剰防衛とも言えるもので、近付く者を寄せ付けない防御機能が詰め込まれているのです。

 なぜ、それほど堅固に築かねばならなかったのか?津山城の歴史とともにご紹介していきましょう。

山名氏によって築かれた中世の津山城

 美作津山藩の初代藩主・森忠政によって津山城が築かれる以前、そこには鶴山という小高い山がありました。初めて城が築かれたのは嘉吉元年(1441)のこと、美作国守護・山名教清の一族にあたる山名忠政が、小規模な山城を構えたようです。その後、応仁の乱を経て山名一族が衰えると、文明年間には廃城となりました。

 果たしてどのような城だったのか?詳しくわかっていませんが、現在残る薬研堀と厩堀は、山名氏時代の数少ない遺構だといいます。そして廃城となった中世津山城の跡地には、八幡宮(現在の鶴山八幡宮)や妙法寺が建てられました。

 ちなみに戦国時代の津山盆地は、尼子氏や毛利氏、宇喜多氏などの影響下に置かれ、常に隣国大名の興亡に晒される地となっています。

 やがて関ヶ原の戦いで宇喜多氏が没落し、代わって小早川秀秋が美作の領主となりました。しかし当時、美作の中心地は西側の院庄(いんのしょう)だったことから、鶴山にあった城が復興することはなかったようです。

 慶長7年(1602)、小早川秀秋が没して備前・美作が空国になると、池田輝政の子で徳川家康の孫にあたる池田忠継が備前へ封じられました。そして美作には、信濃川中島から森忠政が18万石余で入封しています。

 忠政は、かつて織田信長に仕えた森可成(もり よしなり)の六男であり、長久手の戦い(1584)で戦死した長兄・森長可の遺領を継いでいました。やがて秀吉の死後、家康に接近した忠政は信濃川中島へ封じられ、関ヶ原の戦いの折に東軍へ味方したことから、美作一国が与えられたのです。

津山城にある森忠政公銅像
津山城にある森忠政公銅像

 慶長8年(1603)2月、まず伴伊兵衛や河村庄助ら家臣を先発させ、忠政自身は翌月にお国入りを果たしました。そして領内各地の城郭や要害を検分すると、3月27日に院庄の構城へ入っています。

 もともと忠政は構城を改修した上で、新たな居城とするつもりでした。院庄は美作の中心地であり、交通の要衝だったからです。

 ところが、構城は吉井川に近い平地ということもあり、大規模な水害の恐れがありました。また普請の際、家臣同士が斬り合いによって死亡する事件が起こってしまいます。忠政はそのような事情から改修工事を中止させ、新たな場所に居城を築こうとしたのです。

津山城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

近世津山城は13年の歳月を掛けて完成

 まず新城の候補地として「天王山」と「鶴山」の2ヶ所が挙げられ、双方を熟慮した上で鶴山を選びました。なぜなら出雲街道を扼し、吉井川と加茂川を利用した水運が期待できたからです。

 そして慶長9年(1604)から普請が開始されました。この時、鶴山にあった八幡宮や千代稲荷、妙法寺などが別の場所へ移されています。

 「森家先代実録」によれば、翌年に大般若経の真読が行われていることから、すでに本丸御殿をはじめとする建物が完成していたのかも知れません。

 さらに忠政の第九子・御兼が、慶長11年(1606)に津山城で生まれたと記されており、御殿などの建築がいっそう進み、森一族が暮らしていたことがうかがえます。

 また慶長13年(1608)には重臣同士のトラブルがあり、主人を殺害された家臣が津山城へ押しかけるという事件が起こりました。

 この時、彼らが入って来られないよう城門を閉めたと記録にあり、すでに6つの門が完成していたことが推測されます。

 こうした記述から、まず中心となる本丸や外構部が造られ、のちに石垣や櫓などが徐々に整えられていったのでしょう。

 そして築城開始から13年後、津山城が完成しました。ただし明確な記録が残っていないため、実際の完成時期は定かではありません。

 実は城絵図を確認してみると、未完成と思われる箇所がいくつかあり、実際に櫓門の基礎が残っている石垣もあります。

 津山城完成直前に武家諸法度が公布されているため、もしかすると建築をあきらめざるを得なかったのかも知れませんね。

〔日本古城絵図〕 山陽道之部 263 美作国津山城図(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
〔日本古城絵図〕 山陽道之部 263 美作国津山城図(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

鉄壁の守りを誇った津山城

 ここからは津山城の構造について見ていきましょう。まず削平された鶴山山頂には、本丸から三の丸にかけての中枢部がL字状に配置されました。また東側から攻めてくる敵に対応するため、壁のように高い石垣が築かれています。

 そして本丸の西端を区切るように天守曲輪が置かれ、当時としては最新式となる五重五階の天守が築造されました。ただし四重目の庇屋根が瓦葺きではないため、外観は四層に見えたといいます。

 天守の二重目には4つの畳敷きの部屋があり、有事の際には城主の居室に充てられる予定だったとか。また一重目には湯殿や厠もあったらしく、天守だけで十分生活できる工夫が施されていました。

 ちなみに天守について、こんな逸話があります。

 天守が完成した頃、幕府は外様大名が五重天守を造るなど歓迎しませんでした。老中から「過分である」と責められた忠政は、困ったあげく「津山城天守は四重である」と言い張ってしまいます。そこで幕府から、実地調査の検分役が派遣されることになりますが、ウソが露見すれば元も子もありません。忠政は急いで家臣の伴唯利を帰国せしめ、早々に四層目の庇を取り壊したといいます。

 ただし、この話は虚構に過ぎません。おそらく四重目の庇屋根が木製で、外から四重天守に見えたことから、後になって面白おかしく作られたものでしょう。

 さて、津山城が要塞たるゆえんは、高く積まれた石垣にあります。本丸・二の丸・三の丸は「一二三段(ひふみだん)」と呼ばれる雛壇状になっており、それぞれが高さ10メートルほどの石垣で覆われていました。

 また、石垣に沿って多聞櫓が横へ伸び、要所には二重櫓が設けられたといいます。最盛期には櫓だけで80以上あったとされ、これは広島城の88に匹敵する多さです。

明治初頭の津山城(撮影:松平国忠、出典:wikipedia)
明治初頭の津山城(撮影:松平国忠、出典:wikipedia)

 現在、城内には復元された備中櫓があるのみですが、往時は堂々と聳え立つ威容を誇っていたのでしょう。

 さらに凄いのが守りの仕掛けです。ただでさえ高石垣があり、一二三段もあって狙い撃ちされるのに、城内の通路は幾度も屈曲し、複雑で迷路のような構造となっていました。

 仮に大手筋から城内へ侵入したとしても、本丸へたどり着くまでに17回も進行方向を変えねばならず、そのたびに反撃を受けることになるでしょう。

 また各曲輪の入り口は枡形空間となっており、周囲から十字砲火を浴びることになります。このように二重三重の防御線を張り巡らせることで、津山城は鉄壁の要塞となりました。

 とはいえ、なぜ津山城をこれほど堅固な城郭にする必要があったのでしょう?それは想像するに、備前~美作~因幡を結ぶ一大ブロックを構築するためだったと考えられます。

 まず南の備前には西国将軍こと池田輝政がいて、山陽道をガッチリと固めていました。そして北の因幡には、輝政の兄である池田長吉がいて、山陰地方をしっかり守っています。

 そして美作には森忠政が入りました。亡き兄・長可は輝政の姉を正室に迎えており、さらに忠政の娘は長吉の嫡男・長幸に嫁いでいます。つまり森と池田が血縁関係にあったことで、幕府から西の守りを任されたのでしょう。

 堅固な津山城が築かれた理由…それは西国大名を抑える目的があったに他なりません。

発展していく城下町

 津山城の場合、鶴山に築かれた城郭を中心に城下町が発展しました。堀や街路などで整然と町割りが成され、身分ごとに居住地が区別されたといいます。

 具体的には、家臣団が暮らす武家地があり、商人や職人が住む町人地、そして寺社が置かれた寺町に大別されるでしょうか。

 武家地は主として、堀の内側にある内山下(うちさんげ)と呼ばれる地区、田町・椿高下(つばきこうげ)・北町などの高台に置かれました。そして宮川を挟んだ東側には、足軽の居住地として上之町があり、吉井川の土手沿いには鉄砲足軽が暮らす鉄砲町が現在も残っています。

 いっぽう町人地は津山城の南西部に配置され、播磨から出雲へ向かう出雲街道は、町人地を貫くように通っていました。豪商の屋敷は城から近い場所へ置かれており、他の町人たちは細長い土地を区切った場所に家々を構えていたのでしょう。

 また鶴山から移転した八幡宮をはじめ、多くの寺社は城の西側にあたる寺町(現在の西寺町)へ集められました。山と川が迫る地形にあることから、防衛上の配慮がうかがえます。こうして森忠政の時代に、城下町の基礎が出来上がったのです。

その後の津山城

 森忠政のあとは、外孫の長継が養子となって跡を継ぎ、続いて長成が藩主となりました。ところが元禄10年(1697)に急死してしまいます。叔父の衆利が末期養子を認められたものの、江戸へ向かう途中で発病したうえ乱心。森氏はそのまま改易になってしまいました。

 その翌年、津山藩主として10万石で入封したのが松平宣富です。それ以降、藩主が入れ替わることなく幕末を迎え、明治維新に際しては新政府に恭順したことで、津山城に戦火が及ぶことはありませんでした。

 ちなみに文化6年(1809)の火災で、本丸御殿は灰燼に帰しますが、翌年に再建。ほとんど火災に遭わなかったことで、森氏時代の建築物が天守を含めて多く残りました。しかし明治6年(1873)に廃城令が出されたことで、全ての建築物が取り壊されることになります。

 この時期、破壊の荒波を乗り越えて一部の建物が残る事例もありました。そうした城では、地元の有志や出身者らが中心となって保存運動を展開するのですが、津山城の場合は運に恵まれなかったようです。

 当時、津山は北条県に含まれていましたが、県の中枢に地元出身者がいなかったために、保存運動へ結び付くことはありませんでした。

 こうして全ての建築物が消えうせた津山城は、すっかり石垣だけの城跡となってしまいます。さらに城内の土地払い下げが始まり、土塁は削られ、堀も埋められていきました。

 ただし破壊されずに残った遺構もあります。それは二の丸にあった四脚門で、津山城の北にある中山神社の神門として、現在も利用されているそうです。

 廃城から17年が経過した明治23年(1890)、本丸北西にあたる腰巻櫓の石垣が崩落。その頃の城跡には桑や麻の畑が広がり、その他の大部分は原野となっていました。

 その現状を見た岡山県の書記官は、「津山にとって悲しむべきことだ」と語ったそうです。そんな思いが地元へ伝わったのか、ようやく有志によって「鶴山城址保存会」が結成されました。

 そして明治32年(1899)には、公有地が津山町へ無償譲渡され、翌年には「鶴山公園」として保存されることになりました。

 その後も津山城跡の整備は続けられ、戦後になると国の史跡として指定を受け、石垣の修理や備中櫓の復元などが続けられます。そして現在、誰もが知る桜の名所として、市民の憩いの場として親しまれているのです。

おわりに

 津山城は、山と平地を利用した城郭ですが、天守や櫓・塀などがほとんど無いにもかかわらず、何とも美しい姿を見せてくれます。それは同じ平山城の彦根城や姫路城にはない、独特の雰囲気かも知れません。

 一二三段による立体的な情景、そして石垣が多彩な折れを持つことで、機能的な美を感じさせてくれるからでしょう。ちなみに桜の根は石垣を痛めるとはいいますが、やはり古城と桜のコラボレーションは、いつ見ても美しいものです。ぜひ春には訪れてみたい城ですね。

補足:津山城の略年表

出来事
嘉吉元年
(1441)
山名忠政によって、鶴山に城が築かれる。
文明年間
(1469~87)
鶴山の城が廃城となって荒廃する
慶長8年
(1603)
森忠政が美作へ入国。構城を居城とする。
慶長9年
(1604)
津山城の築城工事が始まる。 
元和2年
(1616)
津山城が完成。
元禄10年
(1697)
森氏が改易となる。
元禄11年
(1698)
松平宣富が津山藩主となり10万石を領する。
文化6年
(1809)
火災によって本丸御殿が焼失。(翌年再建)
明治7年
(1874)
廃城令に伴い、城内の建築物が取り壊される。
明治33年
(1900)
町営の鶴山公園として整備される。
昭和38年
(1963)
国の指定重要文化財(史跡)に指定される。
平成17年
(2005)
備中櫓の復元工事が完了。
平成18年
(2006)
五番門南石垣に土塀が復元される。
同年日本100名城に選定される。


【主な参考文献】
  • 尾島治・小島徹ほか『学芸員が作った津山城の本』(津山郷土博物館 2015年)
  • 津山市教育委員会『津山城 資料編』(2000年)
  • 津山市教育委員会『史跡津山城跡 石垣調査報告書』(2000年)
  • 千田嘉博『石垣の名城 完全ガイド』(講談社 2018年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
明石則実 さん
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。