「藤原道兼」藤原道長の次兄はかなりの野心家? 念願の関白就任も、後世に”七日関白”と称される

藤原道兼とは

 藤原道兼(ふじわら の みちかね)は、道長の時代に全盛となる摂関家 “藤原氏” の基盤を作った藤原兼家と時姫の間に産まれた次男です。兄に道隆、弟に道長、妹に詮子(一条天皇母)と超子(三条天皇母)がいます。ちなみに道兼の異母兄にあたる藤原道綱を含めると、道兼は三男となります。

※参考:藤原兼家ファミリーの略系図
※参考:藤原兼家ファミリーの略系図

 道兼は父の下で活躍し、出世していきますが、関白になって僅か10日ほどで病死してしまいます。関白となって初めて参内してからわずか7日目で亡くなったことから、後世で “七日関白” という嬉しくない二つ名まで付けられました。

 今回は、そんな “七日関白” 藤原道兼にスポットを当て、『大鏡』から彼のことを知っていきましょう。

花山天皇を騙し、退位させる

 父の藤原兼家を摂政にするためには、花山天皇を退位させ、兼家の孫である懐仁親王(のちの一条天皇)を新天皇として即位させる必要がありました。

 そこで道兼は ”ある作戦” を実行します。それは寵愛していた藤原忯子が亡くなって傷心していた花山天皇に対して出家を勧めることです。

「御弟子にてさぶらはむ」

(私、道兼も出家してお弟子になり、一生おそばにお仕えいたしましょう)
『大鏡』

 普段からこのように花山天皇に約束していたようで、花山天皇は何の疑いもなく、道兼に花山寺へ連れていかれ、出家・剃髪してしまいます。そして花山天皇が剃髪したのを見届けた道兼は、次のように言ったそうです。

「まかり出でて、大臣にも、かはらぬ姿、いま一度見え、かうと案内申して、かならずまゐりはべらむ」

(ちょっと退出しまして、父兼家に出家前の姿をもう一度見せ、出家する事情を話したうえで、かならずここへ参上いたしましょう)
『大鏡』

 流石に天皇も自分が騙されたことに気付き、大いに嘆いたそうですが、用意周到な道兼は既に懐仁親王の天皇即位の準備を済ませていました。結局、花山天皇は出家・退位し、一条“新”天皇が誕生。道兼の騙し作戦は大成功となったのです。

 いわゆる寛和2年(986)の寛和の変(かんなのへん)です。

 ところで明智光秀は「仏の嘘を方便といい、武士の嘘を武略という」と言ったそうですが、貴族のウソは何というのでしょうかね?

紆余曲折を経て、念願の関白就任へ

関白の地位を得られず、父を恨む

 こうして一条天皇が即位した後、父の兼家は外祖父として摂政、次いで関白となりました。しかしまもなく病のために出家を余儀なくされてしまいます。

 兼家は子孫が今後も権力を維持できるよう、存命中に関白を自分の子供へ譲ろうとします。しかし、ここにおいて道兼本人は、兄道隆よりも自分の方が貢献度が高いと思ったようで、関白の座を譲ってもらう気満々だったようですね。

「花山院をばわれこそすかしおろしたてまつりたれ、されば、関白をも譲らせたまふべきなり」

(花山院は自分がだまして御退位させ申したのだから、関白は私に譲ってくださるべきだ)
『大鏡』

 しかし期待に反して、結局関白の座は兄道隆に譲られることになり、道兼は父を強く恨んだといいます。父が亡くなった際にその様子がうかがえます。

「父大臣の御忌には、土殿などにもゐさせたまはで、暑きにことつけて、御簾どもあげわたたして、御念踊などもしたまはず、さるべき人々呼び集めて、御撰・古今ひろげて、興言し、遊びて、つゆ嘆かせたまはざりけり。」

(父兼家の喪に服す期間、土殿などにおこもりにならず、暑さを口実に、御簾などをすっかり巻き上げて、御念踊もせず、しかるべき人々を呼び集めて、後撰集や古今集を広げて、興じたり、遊び戯れて、父のことを全くお嘆きになりませんでした。)
『大鏡』

 さらには、

「世づかぬ御ことなりや。さまざまよからぬ御ことどもこそ聞えしか。」

(非常識なことですなあ。その他にも様々な良からぬことが評判になりました。)
『大鏡』

と書かれています。

 道兼の気持ちもわかりますが・・・。でも、世間から評判の悪い人は政治家になってはいけませんね。

兄の死後、念願の関白へ

 長徳元年(995年)、関白だった兄の道隆が亡くなります。

 道隆も生前、父兼家に倣って存命中に息子の伊周へ関白を譲ろうとしましたが、一条天皇はこれを認めませんでした。そして同年乙未5月2日、道兼は念願だった関白の宣旨を受けます。その時の喜びようは『大鏡』で以下のように書かれています。

「殿のうちの栄え・人のけしきは、ただ思しやれ。」

(御殿の中のにぎやかさや人々の喜ぶ様子などは、御想像ください。)
『大鏡』

「あまりにもと見る人もありけり。」

(あまりに大騒ぎしていると見る人もいたようです。)
『大鏡』

 今でいえば、選挙に当選した人の選挙事務所のようなものでしょうか。道兼一家にとっては、大騒ぎするのも仕方ないところでしょう。

喜びから一転

 念願の関白となった道兼ですが、親不孝が祟ったのでしょうか…。関白就任早々に病気になってしまいます。

「御心地は少し例ならず思されけれど、『おのづからのことにこそは。いまいましく今日の御よろこび申しとどめじ』と思して、念じてうちにまゐらせたまへる」

(気分がいつもと違って悪いように思ったけれど『たまたまのことだろう。今日のお慶びを中止したら縁起が悪い』と思って、我慢して参内されました)
『大鏡』

と、就任の挨拶をしに参内するときは既に体調不良だったと自覚していたようです。しかし無理をしたせいか、帰る時にはかなり容体が悪化したようです。


「いと苦しうならせたまひにければ、殿上よりはえ出でさせたまはで、御湯殿の馬道の戸口に、御前を召してかかりて、北の陣より出でさせたまふ」

(とても苦しくなったので、殿上の間からは御退出できず、御湯殿の馬道の戸口に前駆の者をお呼びになって、その肩に寄りかかり朔平門からお帰りになった)
『大鏡』

「人にかかりて、御冠もしどけなくなり、御紐おしのけて、いといみじう苦しげにておりさせたまへる」

(人の肩をかりて、御冠も乱れ、装束の紐もほどいて、とても苦しそうに車からお降りになった)
『大鏡』

 喜びから一転、フラフラな状態で帰宅した兼家を見た家の人たちは相当動揺したのではないでしょうか。その様子は以下のように記されています。


「ただ『さりとも』と、ささめきにこそささめけ、胸はふたがりながら、ここちよ顔をつくりあへり。」

(しかし、『そんな悪いことはないでしょう』と口々にささめき、心の中は不安でいっぱいになりながらも、関白就任の喜びにあふれた顔をつくっています。)
『大鏡』

”七日関白” 道兼の最期

 有職故実に精通した学識人であり『小右記』の作者でもある藤原実資が、道兼のもとを訪れます。

 実資はこれまでも道兼の家によく遊びに来ていた仲のようです。今回は道兼の関白就任のお祝いに来たのですが、その時の様子は以下のように書かれています。

「母屋の御簾をおろして、呼び入れたてまつりたまへり。臥しながら御対面ありて」

(母屋の御簾をおろして、実資をお通しになりました。道兼は寝たままの状態で御対面があり)
『大鏡』

 相当具合が悪いようですね。道兼は、自分の体調が悪いことや、公私問わずこの先についていろいろ相談したいことなどを実資にお願いするのですが、


「詞もつづかず、ただおしあてにさばかりなめり」

(言葉が続かず、きっとこういうことを仰っているのだろうと推測しながら)
『大鏡』

と実資は推測しながら聞いていたようです。

 この対面中、風が御簾を吹き上げたときがあり、実資は道兼の姿を見るのですが


「御色もたがひて、きららかにおはする人ともおぼえず、ことのほかに不覚になりたまひにけりと見えながら」

(お顔の色も変わって、いつもご立派な姿な人とは見えず、思っていたより意識もしっかりとしていないように見えるのに)
『大鏡』

と感じたそうです。そして、そんな状態なのに先のことをいろいろと話す道兼のことを


「あはれなりし」

(お気の毒だった)
『大鏡』

と語ったそうです。

 この後、道兼は35歳の生涯を閉じます。

「長徳元年乙未五月二日関白の宣旨かうぶらせたまひて、同じ月の八日失せさせたまひにき。」

(長徳元年乙未5月2日に関白の宣旨をお受けになり、同じ月の8日にお亡くなりになりました。)
『大鏡』


 関白就任からわずか7日のことだったので、のちに”七日関白” と称されました。なお、彼の最期については『栄花物語(みはてぬゆめ)』の方が詳しく書かれていますので、興味を持たれた方は是非読んでみて下さい。

おわりに

 『大鏡』の記述から藤原道兼の人物像を追ってみると、

 ①天皇を騙して退位させた
 ②関白を譲ってくれなかった父を憎み、死んだ後も喪に服さなかった
 ③ようやく関白になれたと思ったら病死する

と、なかなか破天荒な人生を送ったように思えます。

 “七日関白” という二つ名も決してありがたくないものでしょうし、藤原道兼をあまり良い人のように書いてはありません。しかし、②については史実として確証が持てるものではありません。むしろ③を見ればかわいそうに思えます。やはり①が相当イメージを悪くしたのだと私は考えます。

 さて今回は、藤原道兼について知っていただきましたが、みなさんにはどんなイメージを持たれたでしょうか?


<注>
  • ※本文中に登場する古文は『大鏡』の原文です。
  • ※原文の現代語訳は筆者訳で、直訳すると難しい表現の所は意訳にしてあります。
【主な参考文献】
  • 『大鏡 下』海野泰男 校注・訳(ほるぶ出版、1986年)
  • 『道長と宮廷社会』大津透 著(講談社、2001年)
  • 『摂関政治』古瀬奈津子 著(岩波書店、2011年)
  • 『源氏物語の時代~一条天皇の后たちのものがたり~』山本淳子 著(朝日新聞社、2007年)
  • 『枕草子 一』松尾聰、永井和子 校注・訳(小学館、1984年)

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  この記事を書いた人
まつおか はに さん
はにわといっしょにどこまでも。 週末ゆるゆるロードバイク乗り。静岡県西部を中心に出没。 これまでに神社と城はそれぞれ300箇所、古墳は500箇所以上を巡っています。 漫画、アニメ、ドラマの聖地巡礼も好きです。

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