お江戸の一大イベント「出開帳」 そこには信仰心だけじゃない裏事情が…
- 2024/05/29
お江戸での出開帳流行の背景
出開帳とは
「御開帳」とは、寺社に納められている秘仏(ひぶつ。普段見ることができない仏像。)などを日時を決めて公開し、善男善女に仏との結縁の機会を与える宗教行事で現在でも行なわれています。そして「出開帳」とは、御開帳を寺社が建立されている土地以外で行うことで、仏様を運んで行ってその土地の人に公開して拝んでもらいます。本来は ”遠い土地へお参りに来られない人も居るだろうから、こちらから出向きましょう” との趣旨でしたが、江戸時代にはだいぶ様相が変わって来ます。なぜか地方の寺社が江戸へ出て来て行なう “江戸出開帳” が大流行しました。
寺社は自分たちが所有する寺社領から徴収する年貢や、檀家や氏子たちが納める金品で仏事や神事の出費を賄い、僧侶・神職の生活も賄ってきました。しかし建物の修復・改築など大規模な出費はとてもそれだけでは足りません。寛永寺や増上寺なら将軍家が檀家ですから幕府からの補助金も見込めますが、そうでない寺社は金の手当てに四苦八苦します。
そこへもってきて宝暦7年(1757)5月、幕府は寺社に対し、寺社領からの収入及び「世間之助力」で修復の出費を賄うよう法令を出しました。これは幕府に修繕費の補助を願い出る寺社があまりに多かったため、とても幕府の財政で面倒見切れなくなったからです。
勧化と開帳
幕府は金を出さない代わりに、幕府公認の勧化(かんげ)と開帳を提案しました。勧化とは金品の寄進を求める事で本来は信者の自由意思ですが、幕府のお墨付きをもらった寺社が行うときは半ば義務化された行為になり、寄進を頼まれた相手は断りにくくなります。幕府の懐は痛みませんが、際限なくお墨付きを与えれば幕府の威信は低下するので認可件数は年に数件まででした。開帳は元々寺社が自由に行えるものではなく、事前に開帳を行う藩の許可を取らねばなりません。幕府直轄地の江戸で開帳するには寺社奉行の許可が必要でした。開帳は仏を拝めるのでただの寄進よりは賽銭や奉納金も集まりやすく、寺社はその浄財に大いに期待します。幕府はこの開帳を幕府の許可制とすることで、その権威を高めようとしました。
開帳は自身の境内で行う “居開帳” と、他の寺社の境内で行う “出開帳” があり、出開帳の場合は土地を貸してくれる寺社に地代を払います。これで出開帳を行う方、土地を貸して場所代を得られる方、双方が潤います。100万の人口を抱え、仕事や旅で訪れる者も多い江戸での出開帳は、寺社にとって大きな魅力だったのです。
1回でも多く開帳したい
幕府は江戸での出開帳にいくつかの制限を付けます。春夏秋冬でそれぞれ五ヵ所以内、年間で二十ヵ所だけ許します。1回の開帳当たり期間は60日、33年に1度の割合でしか許可しません。これは逆に開帳のありがたみを高める効果がありました。しかし各寺社は何のかんのと理由をつけて1度でも多く開こうとします。浅草寺などは「落成開帳」「助成開帳」「縁起開帳」「御成跡開帳」「祈願開帳」などと名目を変えて、10年にも満たない間隔で開帳しています。
成否をわけた立地条件
常に賑わう本所回向院
出開帳の会場で人気があったのは墨田川沿いの浅草・本所・深川辺りで、最もよく使われたのが本所回向院(東京都墨田区両国)です。 もともと回向院は、明暦の大火(1657)の犠牲者を慰霊するために作られた寺院で、境内は5111坪もあり、庶民の信仰を集める神仏が多く鎮座しています。この神仏を参詣する人たちで常に賑わう寺でしたが、墨田川に架かる両国橋も近く、お参りしやすい立地でした。
江戸の中心部と下町の新開地を結ぶ数少ないルート沿いに位置し、人の往来も激しく、それを狙って両国橋のたもとの広小路には飲食店や娯楽設備が数多く店開きしました。これが回向院の強力な集客力の源となります。納涼の季節は墨田川への人出も増え、絶好の御開帳時期とされました。
そんな回向院での開帳の様子を描いた絵が『江戸名所図会』の中の“回向院開帳参”(冒頭のアイキャッチ画像参照)として残っています。境内に建てられた開帳小屋から天幕が張り巡らされ、その一番奥に秘仏が安置されます。天幕から角塔婆まで張られている綱は、秘仏と結ばれている“御手綱”で、参拝者はこの綱を握りしめれば秘仏の手に直接触れる御利益があるとされました。
もちろんこれには喜捨(きしゃ。金品を寄付すること)が必要です。天幕の前では僧侶が寺院の由来や秘仏の御利益を解説し、そのそばでは裃姿の男が御札やお守りを売っています。また、奉納金を納めた者の名前を書いた提灯(ちょうちん)も飾られ、これは役者や商家の良い宣伝になりました。
回向院については収支金記録が残っており、大規模な開帳会場は間口十八間(32m)、奥行き八間半(15m)、建坪153坪で設営費は300両、貸し賃は30両です。
回向院と並ぶ浅草寺
回向院の向こうを張ったのが浅草寺です。江戸時代の寺域は広大で、11万4500坪もの広さを誇りました。境内には169体もの神仏が祀られ、それぞれに月毎の縁日が催されます。当然多くの人が集まり、境内や門前には参拝者目当ての茶店や飲食店・土産物屋・生活用品を売る店までが軒を連ねます。現代と変わりませんね。 境内には芝居小屋や見世物小屋・浄瑠璃の小屋も立ち並び、講談や落語・物真似・手妻・軽業・居合抜きなどの芸を見せる芸人も集まって来ます。江戸時代の寺は信仰心を満たすだけでなく、飲み食いや買い物・見世物も楽しめるエンタメ空間を提供する場所でありました。これは浅草寺や回向院に限ったことではありません。
浅草寺は江戸時代を通じて出開帳は行わず、居開帳ばかりでした。別の場所へ出かける必要が無かったのです。自分の寺が一番集客力がありますからね。当然、地方の寺社からの出開帳の申し込みは山ほどありました。
開催までの流れ
まずは開帳札を立てる
居開帳にしても出開帳にしても、まずは開催を知らせねばなりません。幕府に開帳を許された寺社は、開帳の日時と場所を書いた“開帳札”を日本橋や東海道沿いの高輪大木戸など街道筋の要所に立てます。寺社の門前や両国広小路の盛り場など人の集まるところにも立てて回ります。文化3年(1806)3月、深川永代寺で開かれた成田山出開帳の例ですと、前年11月6日に許可が下り、9日には早速札を立て始めます。開帳札にも大中小とあり、永代寺門前に住む大工の山田五郎右衛門が七両一分二朱で一手に作成を引き受けました。
仏像を安置する開帳小屋も六万五百八坪の永代寺境内の一角に、間口十三間(23m)奥行十五間(27m)の開帳小屋としては最大クラスのものが建てられます。板葺きの仮小屋ですが、参拝者用の座敷や祈祷所はもちろん、開帳の間成田山の僧たちが住みこむので居間も台所も風呂場までも作られます。
秘仏のパレードで宣伝
開催直前になると、成田山から江戸まで本尊の不動明王を奉じて行列を仕立て宣伝に努めます。本尊を納める厨子や諸道具を運ぶのに成田村の農民が駆り出され、総勢130人ほどで寺を出発しました。本来、成田山から江戸までは一泊二日の行程ですが、途中で接待や金品・御神酒の奉納を受けながら三泊四日かけて練り歩きます。四日め朝五ツ半ごろ、江戸入りをした一行がまず向かったのはなんと ”吉原” でした。大勢集まる遊客の口コミも期待しましたが、吉原の楼主たちが「新吉原御神酒講」という信徒集団成田講を結成する有力な成田山の信者だったのです。ただし、本尊の成田不動は吉原の大門を潜りません。
一行が赤飯の接待に預かり、楼主たちから奉納金を受け取る間に江戸中から成田講のメンバーが集まり、行列の人数は千人近くに膨れ上がったそうです。
頭上に「成田山開帳」の幟をはためかせ、大行列となった一行は日本橋駿河町の豪商・越後屋呉服店に立ち寄り、ここでも飲食の振る舞いを受け、多額の奉納金を受け取ります。本尊の厨子は店の奥深くに運び込まれ、扉が開かれて御神酒が供えられると共に、店の主人たちは一足早く秘仏を拝めます。この後も何軒かの大店をまわって金品を受け取り、永代寺に到着するころには七ツ半を過ぎていました。
開帳スポンサーとなる江戸の豪商
越後屋の名前が出ましたが、寺社側も慣れない開帳運営には不安がついて回ります。せっかく秘仏を開帳しても準備金に見合うだけの奉納金が集まるかどうか、下手をすれば持ち出しになってしまいます。そこで資金力のある豪商がバックに就きますが、もちろんこの関係は持ちつ持たれつです。良く知られているのは、越後屋三井家が隅田川沿い向島にある三囲(みめぐり)稲荷の開帳を支えた例です。
この稲荷は江戸近郊風光明媚な小梅村にあり、墨田川七福神の1つに数えられ、普段から参拝客で賑わっています。享保年間(1716~36)に三井家の祈願所に選ばれ、越後屋があれほど繁盛するのはこの稲荷の霊験のおかげと評判が立ち、ますます参拝者が押しかけました。現在でも三越百貨店の日本橋店や銀座店の屋上にこの稲荷が勧請され、祠(ほこら)が建てられています。
宝暦2年(1752)、三囲稲荷は三井家の後ろ盾を得て、初めての居開帳を開きます。三井家は京都店や大坂店のほか、出入りの商人にも寄付集めを依頼し、店から手伝いの人数も出して全面的にバックアップしました。ところがこの開帳で三囲稲荷は大赤字を出してしまい、その尻拭いに三井家は多額の出費を強いられます。
開帳自体は江戸で大評判を取り、多額の賽銭や奉納金も集まったのですが、どうも ”ざる会計” だったようで収入を上回る出費が嵩みました。
懲りない三囲稲荷
しかし神社側はこの失敗を取り戻そうと思ったのでしょうか。宝暦2年の33年後、天明4年(1785)に再度開帳を思い立ちますが、これは三井家に断られます。「時節が良くない」
天明の大飢饉の影響で江戸では米価が高騰、世情も不安定だったのも三井家が断った理由ですが、神社は諦めませんでした。
開帳の経済効果を期待した地元小梅村も開催を望みますし、「越後屋が反対しているから開けないのだ、ケチな野郎だぜ」などとイベント好きの江戸っ子に噂されては呉服屋の商売にも差し障ります。
そして寛政11年(1799)、50年ぶりの開帳が決定します。今度は何としても成功させねばなりません。三井家は江戸・京都・大坂の三店に加え、三井家発祥の地・伊勢松阪店も巻き込んで寄付金集めに奔走し、会計に関しては全面的に越後屋が預かると釘を刺します。
おかげで今回の開帳は大成功に終わりました。境内には信徒や商人からの奉納物がずらりと並び、なかでも目を引いたのは白木屋が奉納したビロードの大きな牛の作りものです。越後屋も負けじと米200俵・金30両・銭50貫文を奉納し、境内に高々と積み上げます。もちろん奉納物には奉納者の名前をでかでかと書き、これは良い宣伝になりました。
大賑わいなのは境内だけではなく、墨田川の土手から神社境内まで幾千もの提灯が吊るされ、百姓がにわか作りの茶店を出し、赤飯・菜飯・団子・酒に弁当・甘い物まで売り出します。船で訪れる参拝客も多く、墨田川は船のすれ違いにも難儀したそうです。
開帳の一行は“信心”を掲げて大名家の奥向きや江戸城大奥にまで秘仏を運び込みます。スポンサーに就いた商人たちもこの時にこれらの人々と顔つなぎが出来、後々の商売に反映させることが出来ました。
おわりに
開帳に乗ったのは商人ばかりではありません。元禄16年の最初の成田山の出開帳に合わせて、成田不動に願掛けをして子供を得た市川團十郎が舞台で成田不動に扮します。開帳で本物の不動を拝み、舞台で團十郎不動を見る、その逆もあったりしてすっかりこの流れが定着しました。この時、大向うから「成田屋っ!」の声がかかったのが、いまだに続く「成田屋っ!」の掛け声のはじめだとか。その後も成田山の出開帳があるたびに團十郎不動が舞台にかかり、未だに團十郎は成田山の豆まきに参加しています。
【主な参考文献】
- 堤邦彦『寺社縁起の文化学』(森話社、2005年)
- 安藤優一郎『大江戸の娯楽裏事情』(朝日新聞出版、2022年)
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄