延命院事件 生臭坊主が引き起こした衝撃の一大スキャンダル…美僧と大奥の秘密とは?

役者顔負けの美僧である日潤と奥女中の逢い引きの様子を描いた『延命院日当話』(月岡芳年 画。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
役者顔負けの美僧である日潤と奥女中の逢い引きの様子を描いた『延命院日当話』(月岡芳年 画。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 50人以上の子供をもうけ、歴代将軍第一の子福者であった11代将軍・徳川家斉(いえなり)は、豪奢好みの女好きとしても知られます。江戸城中に吉原仲之町を再現、奥女中を吉原遊女に見立てて遊びに興じる放埓さだったとか。将軍がこれでは下々に示しがつきません。

上乱れれば下乱れる

 「上乱れれば下乱れる」とか、江戸の街も浮かれた気分が漂っています。そんな世の中を映したのでしょうか… 寛政8年(1796)8月、70人もの僧侶が女犯の罪で刑に処せられました。

徳川氏に伝わる『文恭院殿御実紀』には次のように記されています。

「僧侶、遠島または晒しのうえその筋へ引き渡される者あり。常々女を囲い犯法の聞こえもあり、住職の身ながら新吉原で遊女買い揚げ酒の相手に致したるを咎められるなり」

 これで終わりかと思いきや、この事件は次の大事件の前触れに過ぎませんでした。それが大奥を巻き込んだ一大スキャンダル・延命院事件(1803)です。

 その頃、江戸の街では谷中(現在の東京都台東区)の日蓮宗 延命院の噂で持ち切りでした。日潤(にちじゅん)という住職が歌舞伎役者・尾上菊五郎似の飛び切りの男前。しかもその説法が役者の舞台科白のような節回しで、聞いている女たちは誰もがみなうっとりと夢見心地だったとか。評判を聞いた奥女中や豊かな商家のお内儀たちは連日、駕籠を連ねての参詣でたいそうな繁盛ぶりです。

 もともと延命院は怪しげな寺ではなく、3代将軍・徳川家光の側室「お楽の方」が深く帰依して、竹千代のちの4代将軍家綱を授かった話もあります。子宝を願う市中の女たちや、お世継ぎ懐妊を願う将軍側室の代参でお参りする奥女中で賑わうのも不思議ではありませんでした。

美僧である日潤を目当てに押し寄せる女たち

 ところが寛政8年(1796)、日潤が住職になってから風向きが怪しくなります。説法が上手い美男僧がいると聞いて女の参詣者が増えると、これに日潤は目を付けたようです。

日潤は相当なイケメンだった?
日潤は相当なイケメンだった?

 「これ!」と思う女には、”特別の加持祈祷を行なう”と称して別室に引き入れ、怪しからぬ所業に及びます。男と触れ合う事の出来ぬ奥女中たちの間にこの噂が広まり、ますます参詣を望む女が押し寄せてくるのです。

 ここにもう1人、柳全(りゅうぜん)という同じ寺の所化(しょけ/修行僧)がいました。この男、もとは御家人の倅(せがれ)で舞踏の所作や声音を得意としましたが、歌舞伎狂いで身を持ち崩し、一時は芝居小屋で寝起きしていた経歴の持ち主です。

 どうもこの男が説法の上手い美僧・日潤の噂を方々で吹聴し、参詣人を増やすのに一役買ったようです。そしてこの男の口利きで、延命院では芝居町や木挽町の下っ端歌舞伎役者で顔の良い者の頭を剃り、法衣を着せ、坊主の格好をさせて延命院に住み込ませます。

 なぜそんなことをするのか? 日潤目当てに押し寄せる女たちを日潤1人ではさばききれなくなったからです。

柳全と日潤(『延命院実記 : 谷中騒動』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
柳全と日潤(『延命院実記 : 谷中騒動』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 女たちもこの頃になると、説法などそっちのけ、はっきり男との逢瀬のために延命院へ来ていました。当然懐妊する女も出て来て、町方ばかりか大奥でも赤子を堕ろしたなどの話が囁かれ、ついには寺社奉行である脇坂淡路守安董(やすただ)の耳に達します。

ついには寺社奉行が密偵を送り込ませる

 脇坂安董はいわゆる “デキる男” でしたが、大奥が絡んだ事件と聞いて考え込みます。

 かつて正徳4年(1714)に起きた、奥女中と歌舞伎役者が絡んだ「江島生島事件」の際には、単なる奥女中の起こした不始末にとどまらず、幕府中枢と大奥全体を巻き込んだ政治抗争にまで発展していました。

 坊主が絡んでいるとあれば寺社奉行の出番ですが、現在大御所として幕政にも睨みをきかせる家斉の身辺にいる寵臣4人が問題です。

  • 若年寄 林肥後守忠英(ただふさ)
  • 御側衆 水野美濃守忠篤(ただあつ)
  • 御小納戸頭取 美濃部筑前守茂育(もちなる)
  • 家斉の側室お美代の方の養父として権勢を持つ中野硯翁(せきおう)

 彼らはいずれも大奥と深いかかわりを持っています。

「どうしたものか…」

 よほど慎重に動かねば生臭坊主をお縄にするどころか、逆にこちらが潰されてしまいます。

「噂だけではどうにもならぬ、書付など動かぬ証拠となる文書を手に入れねば…」

 寺社奉行は町奉行・勘定奉行と並んで三奉行と呼ばれる要職ですが、町奉行のように手先となって実際の捜査に当たる与力・同心・目明しなどの者は居ません。必要な時は自家の家臣から選ぶしかありませんでした。

 ここで活躍したと言われるのが脇坂配下の家臣の妹です。この女性の名は伝わっていませんが、脇坂の密命により、生娘の身ながら参詣人を装って日潤に近づき、別室に招き入れられるようになります。心を許した日潤の隙を見て奥女中からの艶書を手に入れ、延命院内の様子も報告します。

「良くやった!」

 享和3年(1803)、ついに動かぬ証拠を手に入れた脇坂は、自ら延命院に乗り込んで日潤を取り押さえました。このときの延命院には隠し扉や抜け道が作られ、まるで忍びの屋敷のようだったとか。日潤が捕らえられたのも、底が二重に作られた長持ちの中と伝わります。

捕らえられる日潤(『延命院実記 : 谷中騒動』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
捕らえられる日潤(『延命院実記 : 谷中騒動』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 捕らえられた日潤は死罪となりますが、その他には尾張家年寄り初瀬・紀伊家家中石川千左衛門妻ゆい・一橋家御用人井上芸十郎娘はななど、女ばかり6人が捕らえられただけで、大奥に累が及ぶこともありませんでした。

おわりに

 脇坂の密偵を務めた娘は

「御用のためとはいえ、知られたくもない他人様の密事を暴き立て、何人もの人の運命を狂わせました。どうして手柄顔をして生き延びられましょう」

 このように言って自害して果てた、と伝わります。


【主な参考文献】
  • 福田千鶴『女と男の大奥』吉川弘文館/2021年
  • 安藤優一郎監修『歴史群像シリーズ/図説大奥のすべて』学研/2007年
  • 竹内誠『徳川「大奥」事典』東京堂出版/2015年

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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