上杉謙信の能登七尾城攻め 天下無双の堅城はなぜ落城したのか

七尾城本丸
七尾城本丸

七尾城内の内紛と上杉謙信

 越後の雄・上杉謙信は祖父・長尾能景の頃より、能登畠山家と親密な関係を続けていた。

 能登畠山家は、同国七尾城を拠点とする守護大名である。しかし能登国内は謙信の時代に、畠山当主が有力家臣の「七人衆」に追放され、主導権を握ってしまうという不安定な状態に陥っていた。しかも守護になって 2 年ほどの若き畠山義隆は、天正4年(1576)2月に病死してしまっていた。

 義隆の息子で幼年の春王丸はまだ元服すらしておらず、現当主は不在同然の状態と化してしまった。もはや傀儡ですら擁立できなくなってしまったのである。

 それでも七人衆は自分たちが追放した畠山悳祐(とくゆう)・義綱父子を亡命先の近江から呼び迎えるつもりなどなかった。

※参考:能登畠山氏 略系図(編集部作成)
※参考:能登畠山氏 略系図(編集部作成)

 その頃、謙信は長年争い続けていた関東の北条氏政、甲信上の武田勝頼と停戦して、上方の織田信長と対決する方策を考え始めていた。そうすると、その進路にある能登畠山領域が、空白地帯であるのは謙信にとって不都合である。一方で信長も畠山家中が反謙信派になることを願い、能登への介入を考え始めていた。

 そんな中、畠山家中の「七人衆」は 3 人減って「四人衆」となってしまう。最終的には、遊佐・長・温井の三重臣がその実権を掌握することとなった。

畠山家中の内部構想

 形だけでも守護が不安定な状況であることは、謙信にとっても信長にとっても危険である。よって能登畠山家中(当主不確定なのでこの表現もかなり怪しいと思うが、当時はこれを覆す環境と思考のどちらも進んでいなかっただろう)も当然、これらの二派に分裂する。

 そのうち七尾城内は遊佐続光(ゆさ つぐみつ)・盛光父子ら親上杉派と、長続連(ちょう つぐつら)をはじめとする親織田派に分裂しようとしていく。

 謙信は、積極的に乗り出さなければ七尾城は織田派の拠点と化してしまう危険があると見た。

 この証左として、謙信は同年 7 月、将軍・足利義昭の使いの者たちに「北国衆」を召し連れて上洛すると上申した。これは越中・能登・加賀を丸ごと支配下に置く意思の表明である。謙信にとって大事なのは、地方の守護がどうなろうとも、将軍と幕府が機能することにあった。大義の前に眼前の義を捨てる覚悟が定まっていたということである。

 かくして謙信は能登に出馬して、諸方面を制圧。七尾城を孤立させたあと、七尾城に攻めかかる。

 謙信の「第一次七尾城攻め」である。

 だが七尾城はさすがに天下無双の堅城である。謙信はこれを短期間で落とすことができず、そのまま年を越すことになった。翌年(1577)3月までに能登の「一国平均」を実現できなかった謙信は、石動山城の普請と守備を命じて、一旦越後に帰国することにした。

第二次能登七尾城攻め

 謙信が第一次七尾城攻めを終えて帰国すると、能登畠山家の重臣・長続連の嫡男・綱連(つなつら)は、七尾北西の熊木・富木(とぎ)の要害を攻め落とし、さらには穴水城を囲むなど、勢力回復に動き回った。

 能登南方は別の重臣が奪還を進めたようだ。そこへ謙信が再び攻めてくると、綱連は穴水(あなみず)城の囲みを解いて、七尾城に戻って籠城準備に入った。

 七尾城はその名の通り七つの大きな尾根(龍尾・虎尾・松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾)を結ぶ形で曲輪(くるわ)が連なる連郭式城郭で、山頂には立派な主郭が防備を固めている。

 北の城下には守護名族の格式に相応しく、「千門万戸」の街並みが広がり、市街は短時間で制圧されないよう断崖と柵で守られていた。

※参考:以下の動画(七尾市公式YouTubeチャンネルより)から七尾城を俯瞰できます。


 相当な備えようだが、実のところ麓(ふもと)から複数伸びる登り口のひとつに主郭への大手道入口がある。攻め手にすれば、ここを使えば一本道であるから、進路に迷うことはない。逆に言えば守る側もそこを重点的に防衛していれば手堅いわけである。

 まるで映画『七人の侍』の防衛体制のようだ。謙信の先手がここを攻めるなら、飛んで火に入る夏の虫となる。

 もし上杉軍が複数の番所を越えて、主郭部最大規模の三ノ丸まで辿り着いたら、そこでやっと山頂となる。その先は二ノ丸と温井(ぬくい)屋敷が進路を阻む。その先に本丸があるが、ここから少し東に離れたところに長屋敷がある。

 佐伯哲也氏の調査では、厳冬季は2メートルの積雪と日本海からの強風に晒されるため、平常はここに居住しなかったと考えられている。城攻めをするにあたり、ここが一番の難所となるであろう。

 遊佐屋敷の先には大手門、そして西ノ丸屋敷と遊佐屋敷が隣接して、本丸への道筋を塞いでいる。

落ちた巨城

 完全要塞の様相を呈する七尾城だが、やはり問題は守護不在の不安定さにあった。

 守護重臣の長続連・綱連父子が率先して指導力を発揮していたところに、謙信が侵攻してきた。天正6年(1578)閏7月、第二次七尾城攻めがここに始まる。

 二度目の籠城戦が続く中、城内で感染症が流行し、幼い春王丸も病で命を落とした。『石川県史』は「畠山氏の血族断絶したる後、事実上七尾の城主は長綱連なり」と評する。

 もはや、次期傀儡当主すら不在と化してしまったのである。

 落城間近の9月15日──。長一族の記録『長氏家譜』によると、ここで遊佐盛光がほかの重臣たち上杉家への降伏を説いた。すると長綱連は「不義である」と聞く耳を持たなかった。同調する者も多かったらしく、降伏論を唱えた盛光は萎縮して、反省の姿勢を取り始めた。

 盛光は早速にも詫び状を書き、和解のため、綱連の父・続連を屋敷に招く。続連も“息子が言いすぎました”というつもりで、出向いたのだろう。

 事件は対面の場で起きた。盛光の手勢が “お前の息子のせいで恥をかかされたのだ“ とばかりに続連を囲み、降伏派となるよう迫ったのだ。ところが続連はこれを拒んで自害した。

 こんな事件が、よりにもよって上杉軍の包囲中に起きたのだ。

 謙信の軍勢は混乱に乗じ、その日のうちに引き連れていた馬廻および越中 手飼てがいでもって七尾城を制圧した。

 長氏残党は盛光らに族滅された。綱連、享年38。

 盛光に迎え入れられた謙信は「萌黄鈍子(もえぎどんす)の胴肩衣を著し、頭を白布をもってかつら包」の姿で馬上から盛光を見下ろし、「今度の忠節、神妙なり」と声高に告げて、恩賞の沙汰を下した。

国破れて山河ありを体現した畠山遺臣

 余談ながら──。

 この籠城戦中、七尾城内から信長に援軍を依頼に出向く僧侶の姿があった。綱連の弟・孝恩寺宗顓(こうおんじ そうせん)──のちの長連龍(ちょう つらたつ)である。

 宗顓は近江安土城まで急いだが、信長と接触する前、石川郡倉部浜近辺に同族の首が並んで晒されているのを目撃した。その足で手取川南岸に布陣する織田軍のもとへ赴き、自身の保護を求めたあと、両軍の撤退を待ってから家族の首を回収したようである。

 翌年、謙信は病没し、それからほどなくして能登を制圧した織田信長も本能寺の変に斃れる。国の形は変わっても、ゆかりある者たちが歴史を紡いでいく。能登は信長家臣だった前田利家父子に統治されることになった。

 その頃、還俗して前田家臣となっていたもと宗顓こと長連龍は、織田家・豊臣家が滅びたあとの元和5年(1619)まで数々の武功を立て、3万3000石を領する大名級の重臣となり、その後は当時の歴史を語り残す生き証人として、余命をまっとうした。享年74。

 諺にいう「国破れて山河あり」を体現する能登畠山家遺臣のひとりであった。

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  この記事を書いた人
乃至 政彦 さん
ないしまさひこ。歴史家。昭和49年(1974)生まれ。高松市出身、相模原市在住。平将門、上杉謙信など人物の言動および思想のほか、武士の軍事史と少年愛を研究。主な論文に「戦国期における旗本陣立書の成立─[武田信玄旗本陣立書]の構成から─」(『武田氏研究』第53号)。著書に『平将門と天慶の乱』『戦国の陣 ...

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