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【史跡散策】長浜城…羽柴秀吉はじめての城へ
- 2024/11/03
長浜城は北近江の琵琶湖のほとり、現在の滋賀県長浜市にある。戦国を色濃く経験した近江の国のなかでも美濃の国と越前へ向かう北国街道が通り、琵琶湖水運も使える交通の要衝。姉川の戦いや賤ヶ岳の戦いの現場にも近いロケーションだ。JR北陸本線「長浜」駅から琵琶湖方面へおよそ200メートルあまり。
長浜城を築いたのは羽柴秀吉、つまりのちの豊臣秀吉であり、1574年から築城を開始し、翌年に完成した。
もともと北近江(現在の滋賀県北部)は浅井氏が統治していたが、金ヶ崎撤退戦にはじまる浅井サイドの裏切りによって姉川の戦い(1570)が起きた。1573年には浅井長政の籠城した小谷城が織田信長に攻め落とされ、功績のあった秀吉の領地となる。
その後、城主は山内一豊など幾度か代わったが、豊臣氏の滅亡後に長浜城は取り壊された。現在の長浜城は1983年に再建されたものだ。
浅井長政を滅ぼした功績により織田信長から領地を与えられた豊臣秀吉は、今浜という地名だったこの地を「長浜」と改め、浅井氏の本拠地だった内陸の小谷城を破棄し、湖畔へ移動させている。当時の湖上交通の利便を考えてのことと考えられる。長浜城には船着き場の跡と見られる石組み遺構が見つかっており、船から直接城内へ入れたようだ。
豊臣秀吉のあとの城主は、織田家の重臣柴田勝家の甥、柴田勝豊、山内一豊、内藤信成、内藤信正、と変わっていった。特に山内一豊はもともと尾張のいち武士に過ぎなかったのが、賢妻の代表ともいえる千代の内助の功により、一国の大名にまでなった。その夫婦が若いころ出世の足掛かりとしたのがこの長浜城時代だった。
秀吉と一豊という低い身分から大出世した2人なので、出世のパワーがあるお城といえる。
本能寺の変(1582)の後、一時的に秀吉は敵方になる柴田勝家の甥、柴田勝豊に領地を渡すが、色々と策を練って取りかえしたうえ、賤ヶ岳の戦い(1583)で天下統一を現実的なものにしていった。
館内は長浜城歴史資料館として、湖北・長浜の歴史と文化や主に秀吉と長浜についての展示が見学でき、最上階天守は戦国パノラマ展望台として、琵琶湖や長浜の町も一望できる。
また、周辺の広い豊公園内には太閤井戸跡、天守閣跡石碑と豊臣秀吉銅像、本丸石垣といった長浜城の遺構がある。竹生島へ渡るフェリーが出る長浜港もすぐ近く。
城下町は黒壁スクエアを中心としたおしゃれ&グルメスポットになっており、大通寺や長浜八幡宮などのパワースポットも立ち寄りたいところだ。
このあと天下統一へと踏み出した秀吉のことを思うと、信長に仕えおね(ねね)と共に夢を見ていたこの長浜時代こそもっとも充実した幸せな時代だったのかもしれない。
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