虚無僧とは何者だったのか? 虚無僧の真実の姿とその変遷、徳川幕府の対応とは

 怪しげな侍たちに囲まれた1人の虚無僧 (こむそう)。手に持った尺八を構えるが、踏み込んで来た侍の一刀が深編笠をざっくり切り裂く。その切れ目から覗くのは白皙の美貌が───

 昭和の時代劇によくあるシーンですが、虚無僧とはいったい何者だったのでしょうか。

元は菰僧だった?

 時代劇の影響でしょうか。虚無僧と言えばスラリとした着流しに深編笠、手には尺八の姿を思い浮かべますが、「虚無僧」は当て字でもともとは「菰僧」と書きました。

 すなわち、菰(こも。マコモやワラで織った敷物のこと)を背負って諸国を修行して回り、宿が無い時には背負っていた菰を敷いて野原に伏した、むさくるしい僧を意味します。これではあまりに乞食僧のようで露骨だと言うので、いつの頃からか幽玄なイメージのある “虚無” の文字を使うようになりました。

 古くには “ぼろぼろ” とか、“ぼろんじ”と呼ばれる乞食僧が物乞いをしていました。ある時、このこぼろんじ同士が切り合いをして死ぬ事件が起きます。吉田兼好はこの事件を『徒然草』で紹介した後にこう書いています。

「ぼろぼろと言う者昔はなかりけるに、近き世にぼろんじ、梵字などといひける者そのはじめなりけるとか。世を捨てるに似て我執深く仏道をねがふに似て闘争を事とす」
『徒然草』より

 どうも喰い詰め者( = 貧乏や不品行のために生活に行き詰まった人のこと)が僧体を取って物乞いをし、食べ物にありついていたようで、無頼漢に近い存在だったようです。明応3年(1494)に描かれた『三十二番職人歌合』に尺八を吹く男を“こも僧”と説明しているので、このころには存在したようです。

普化宗との結びつき

 この ”こも僧” が普化宗(ふけしゅう)と結びつき、そこに食うための手段として浪人が流れ込み、諸国を巡るようになり、誕生したのが虚無僧と言われます。

 普化宗は日本仏教の禅宗のひとつです。鎌倉時代に臨済宗の僧・覚心(かくしん)が中国に渡り、4人の中国僧を伴って帰国したことで日本に伝わりました。

 4人の中国僧のうち、金先古山(きんせんこざん)が下総小金(現在の千葉県松戸市小金)に一月寺(いちげつじ)を、活惣了(かつそうりょ)が武蔵野国幸手(現在の埼玉県幸手市)に鈴法寺(れいほうじ)を開き、普化宗を広め、この2つの寺が関東の虚無僧たちの拠点となります。

 ちなみに虚無僧が属した寺としては、京都の明暗寺(みょうあんじ)なども有名ですが、寺に属した僧とは言っても虚無僧は檀家も持たず、葬式も法事も行ないません。

現在は日蓮正宗寺院となっている一月寺。明治初期に廃寺、昭和期に日蓮正宗に改宗して再興した。
現在は日蓮正宗寺院となっている一月寺。明治初期に廃寺、昭和期に日蓮正宗に改宗して再興した。

 室町時代にこの宗派から朗庵(ろうあん)と言う僧が出ました。一休禅師と親しく常に尺八を吹いて楽しんでいましたが、虚無僧たちが朗庵の好んだ尺八を丁度良い門付けの手段として取り入れます。虚無僧希望者が増えてくると、一定の手続きが求められるようになりました。

虚無僧になるには

 正式の虚無僧になるには武士であることが必須条件とされ、町人百姓は虚無僧にはなれません。主家を無くした浪人が次の仕官までの糊口を凌ぐための方策として、虚無僧の姿をとることも多かったのです。

 “本則”、つまり虚無僧と認める証書ですが、鈴法寺は町人百姓にはこれを与えていません。ところが一月寺はこれを与えてしまい、徳川幕府からお叱りを受けます。

 武士が入宗を希望するとその趣意書を提出させ、その希望が武士道上非難されるべきものではないと判断されると、証人を立てて入宗証文を出させます。入宗証文を差し出すとその文中に書いたとおりに両刀並びに俗世の所持品を寺に納め、同時に後に返却される時の覚え書きとして目録に書き出します。

 門弟の契約を交わした祖師の前で本則と宗具を頂き、掟書きに承知の請け判を押し、尺八を受け取り、奏法を伝授されます。

 尺八がそう簡単に吹けるとは思えませんから稽古もしたのでしょう。その後、番僧が付き添って適当な末寺へ連れて行きます。

 このように虚無僧になるにはきちんとした手順を踏むのですが、偽物も横行したようです。深編笠を被って顔を隠せるのがその理由ですが、この笠は往来では取らなくとも良いのが定めでした。不審な虚無僧を取り調べる場合でも、所属する寺、もしくは寺社奉行所へ行って初めて被り物を取らせる事が出来ます。この顔をさらさずとも良い決まりも、怪しげなものが紛れ込むのを助長します。

 虚無僧は有髪でも剃髪でも良かったのですが、チョンマゲでは深編笠がかぶれないのでこれはNGです。虚無僧は一時の世を忍ぶ仮の姿の場合が多く、還俗を考えると有髪のまま過ごしたいのですが、総髪スタイルにするには頭頂部の髪が生えるのを待たねばなりません。この待っている期間を短髪と言い、この間は遠出をせずに近在での托鉢修行を行ないます。

便宜上、その存在を認めた徳川幕府

 徳川幕府は虚無僧をどのように扱ったのでしょうか?

 ここに『慶長定書(じょうしょ)』と呼ばれるお定め書きが伝わっています。徳川家康が江戸入りした時に発せられたものとされますが、これは偽文書です。しかし幕府はこの文書を咎めようとはせず、逆に乗っかるような動きを見せるのです。

 戦国が終わり、太平の世になるにつれて、世間には職を失った浪人者が溢れています。その処置に困った幕府は偽書『慶長定書』を取り締まらず、虚無僧の存在を黙認しました。つまり、一月寺や鈴法寺が各地に配置した虚無僧寺に、虚無僧に身をやつした浪人者の吸収・管理をまかせる方法を取ったのです。

  『慶長定書』の第一条には「虚無僧とは武士が浪人した時の隠れ家なので、租税をかけるのは許されない」、第二条は「農民・町人・乞食坊主など武士より卑しいものは虚無僧にはなれない」とあります。その他にも「虚無僧は寺か駅屋に泊まり、一般の宿は使わない」とか、「常に木刀や短剣を所持する事」とか、「日本国中の通行が自由である」とか、虚無僧に有利な条件が書かれています。

 やがて托鉢する時の衣服にまで口を出し、それによると「藍色か鼠色の無紋の服に男帯を前で結ぶ。腰には予備の尺八を差し、首からは袋を背には袈裟を頭には天蓋と言う編み笠を、足元は5枚重ねの草履で手には尺八を持つ」と事細かに決めています。

 18世紀の前半が虚無僧の最盛期だと言われます。しかし喜捨を求めていつまでも戸口から立ち去らない者や、座敷にまで上がりこむ者が出てきて、安永3年(1774)に虚無僧の乱暴狼藉を禁止する触書が出ます。

 幕末の慶応年間(1865~68)になると、都へ上る虚無僧が増えました。攘夷派と佐幕派が激しく衝突する京都において、浪人が一旗揚げるチャンスだと思ったのでしょうか。京都には明暗寺という普化宗の本山もありますし、日本国中往来は自由ですし、街中では深編笠を取らずとも良いので人相も割れません。騒然とする世相は虚無僧に味方したようです。

おわりに

 江戸幕府は弘化4年(1847)、『慶長定書』に記された虚無僧の特権全てを剥奪します。そして明治4年(1871)、明治新政府は幕府とつながりが深い普化宗を廃止し、虚無僧は僧侶ではなくなりました。

 現在では明治21年(1888)京都東福寺に塔頭の1つとして、復活した明暗教会に属する虚無僧たちが、行脚修行を行っています。


【主な参考文献】
  • 武田鏡村『虚無僧』三一書房/1997年
  • 林屋辰三郎『中世芸能史の研究』岩波書店/1975年
  • 塩見鮮一郎『江戸の貧民』文藝春秋/2014年

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。