【織田信長と官位 その1】若い頃の信長は官職を勝手に名乗っていた?

岐阜公園の入口にある「若き日の織田信長像」
岐阜公園の入口にある「若き日の織田信長像」
 官位は古代以来、長きにわたって日本の政治社会に存在する制度です。古今東西を問わず、多くの公家・武士等が天皇から官位を授かっていました。

 織田信長は官位という古い制度に対し、どのような態度をとっていたのでしょうか?近年では「革命児」「古い制度を否定し新しい時代を築く」といった革新的な織田信長のイメージに対して、見直しを図る研究が増えてきています。

 このような現在の研究潮流をふまえたうえで、本記事では信長と官位の関わりについて検討したいと思います。

官位・官職・位階とは?

 まず最初に「官位」とは何か、少し説明したいと思います。

 官位とは「官職」と「位階」をセットにした用語です。官職とは、例えば「征夷大将軍」「右大臣」「大納言」「尾張守」といった役職を指します。そして位階は序列を表し、「正一位」「従三位」「正四位上」などのように、一位に近づくほど序列が上位となりました。

位階備考
正一位、従一位、正二位、従二位、正三位、従三位上流貴族(公卿)に該当
正四位上、正四位下、従四位上、従四位下、正五位上、正五位下、従五位上、従五位下中流貴族(一部は殿上人)に該当
正六位上、正六位下、従六位上、従六位下下流貴族(地下官人)に該当
正七位上、正七位下、従七位上、従七位下、正八位上、正八位下、従八位上、従八位下、大初位上、大初位下、少初位上、少初位下貴族ではない
※参考:30に分けられている位階

 さらに細かい規定等については、乱雑になるのでこれ以上の説明は割愛します。とりあえず、ここでは官職と位階の総称が「官位」であることをご理解いただけたらと思います。

信長、官職を自称する

 戦国時代の日本では、官職を勝手に名乗ることが許されていました。戦国大名クラスの武士であるならば、正式に天皇から任じられる場合が多かったのですが、中・下級クラスの武士になると、官職の自称が日常的にみられました。

 朝廷はこうした官職の自称を基本的には黙認していました。現代の日本の常識では到底考えられないことですが、当時の日本では多くの武士が官職を自称していたのです。

 例えば真田昌幸は「安房守」、徳川家康は三河統一以前に「蔵人佐」を自称していましたが、信長の場合はどうだったのでしょうか?

 結論をいうと、信長も自称していました。元々、信長の誕生した家は、尾張守護代織田氏の分家となる「織田弾正忠家」であり、その名の通り、代々の当主は「弾正忠」を自称していました。

 信長は当初「上総介」を自称していましたが、その後「尾張守」を経て、永禄11年(1568)の上洛時には「弾正忠」を自称していたことがわかっています。あくまでも自称であって、正式には無位無官の身でしたが、信長も他の戦国武将と同様に官職を自称していたのです。

 以上をふまえると、信長自身は官位制度そのものを否定していたわけではなさそうです。この点は他の戦国武将と変わらない姿勢であったと考えられます。

信長、位階を授かる

 信長の官位の状況が変化した転機は、15代将軍・足利義昭の京都追放です。

 当初、義昭と信長は協調関係にありましたが、元亀4年(1573)2月頃から両者は対立するようになりました。義昭との和睦を望んだ信長は、朝廷の仲介もあって4月にはいったん和睦が成立しますが、7月に義昭が挙兵して反信長の姿勢を鮮明にしました。この後、信長は上洛して義昭に勝利しますが、その際に義昭の命までは取らず、7月18日に京都から追放しています。

 このとき信長は義昭の将軍職を解任せず、さらに11月には毛利氏との間で義昭の帰洛交渉を行ない、義昭の帰洛に前向きな姿勢を示したことがわかっています。しかしこの交渉は、義昭が信長に人質を差し出すよう求めたため、不調に終わりました。

 こうした経緯から、信長は室町幕府自体を滅ぼす意図は持ち合わせていなかったと考えられます。しかし、義昭の追放により、京都が将軍不在となったため、義昭が果たしてきた役割を信長が代行せざるを得ない政治的状況となったのです。

 それでは足利将軍が果たした役割とは一体どのような役割だったのでしょうか? 近年の研究では「天下人」の役割であったと考えられています。

 「天下人」とは、足利将軍と考えられており、朝廷の保護・京都や畿内情勢の政治的な安定化などに尽力することが求められました。戦国時代の足利将軍は、室町幕府全盛期の足利将軍(3代義満~6代義教)と比較すると、政治的権力に衰退がみられることは否めません。しかし、それでも京都やその周辺地域において、「天下人」として政治的な役割を有していました。

 将軍の京都不在において、義昭との和睦や帰洛を希望していた信長は、困ったことになったと思っていたかもしれません。

 義昭の役割を代行する間も無位無官であった信長でしたが、翌天正2年(1574)3月18日、信長は従五位下に叙され(叙爵)、ここに正式に位階を授かりました。同時に信長は「昇殿」も許されています。昇殿とは一部の公家のみが許される特権であり、信長は内裏の清涼殿に入るのを許されたことになります。

 この信長の叙爵・昇殿という一連の動きについては、無位無官であった信長を正式に官位制に位置付ける必要性から、室町将軍の官歴を前例として実施されたものと考えられています。室町将軍は初めての叙位と同時に昇殿を許される事例が多く、信長もこの事例に準じたのではないかとみられています。

 ところで通説では天正3年(1575)11月に従三位・権大納言兼右近衛大将の叙任が信長の正式な官位就任とされてきました。しかし近年、位階については前述のように天正2年に授かっていたのではないかと、考えられるようになりました。

信長、正式に官職に就く

 正式に位階を授かった信長は、その後も「天下人」の役割を代行していました。例えば朝廷への経済支援を積極的に実施しています。これについては、以前に本サイトにて記事を執筆させて頂きましたので、以下ご参照いただけると幸いです。


 さて、次に信長の官位に関わる出来事で動きがあったのが、先ほど言及した天正3年(1575)11月7日の従三位・権大納言兼右近衛大将への就任です。これにより、信長は正式に「公卿」となりました。公卿とは太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議等(もしくは従三位以上)の官職に在官する人物のことであり、彼らは上流の公家を指します。つまり、信長は上流公家の仲間入りを果たしたことになります。
 
 義昭の追放以降、信長は天下人の代行として、絶大な政治権力を有していましたが、従三位・権大納言兼右近衛大将の就任によって、権力だけでなく、権威という面でも、信長の政治的な地位が上昇したといえます。

 くわえて、信長の任官は「陣宣下」という方式で実施されました。戦国時代当時は費用や手続きの関係から会議や儀式が不必要な略式の「消息宣下」が主流でした。一方で「陣宣下」は「本式」とされていました。つまり信長の官職就任の儀式は当時主流であった「消息宣下」ではなく、あえて費用や手続きが必要となる「陣宣下」で実施されたのです。これは、信長の官職就任が、一般の公家と比較して重要視されていたためと考えられています。

 「陣宣下」の実施を朝廷側が求めたのか、信長側が求めたのか、それについては判然としません。しかし、実際に「陣宣下」を実施した事実から、両者の間で信長の官職就任を重要視していたことは間違いないと思います。

おわりに

 その後の信長は、

  • 天正4年11月13日に正三位、同月21日に内大臣(右近衛大将兼務)
  • 天正5年11月16日に従二位、同月20日に右大臣(右近衛大将兼務)
  • 天正6年正月6日に正二位。

 といった具合に昇進を重ねていきました。上記の流れをみると、信長に官位制度を否定する意志はみられません。むしろ昇進を重ねて、官位では将軍義昭を越えていました。将軍職に義昭は留まっていましたが、室町幕府(足利政権)は政治的な権力は喪失しており、事実上、織田政権が成立していたとみることもできます。

 ところが天正6年(1578)4月9日、突如信長は右大臣と右近衛大将を辞官しました。なぜ信長は官職を辞職したのでしょうか?

 この点については以下の続編の記事で考察したいと思います。



【参考文献】
  • 橋本政宣「織田信長と朝廷」(『織田政権の研究』吉川弘文館、1985年)
  • 池享『戦国・織豊期の武家と天皇』(校倉書房、2003年)
  • 金子拓『織田信長<天下人>の実像』(講談社、2014年)
  • 柴裕之『織田信長―戦国時代の「正義」を貫く―』(平凡社、2020年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
yujirekishima さん
大学・大学院で日本史を専攻。専門は日本中世史。主に政治史・公武関係について研究。 現在は本業の傍らで歴史ライターとして活動中。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。