平安時代の恋愛模様 平安貴族から庶民までの愛のかたちとは?

 2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」の舞台となっている平安時代。紫式部が執筆し、現代も人々の心をつかむ『源氏物語』では、貴族たちの生活や恋愛がドラマチックに描かれています。

 また、当時の歌をまとめた『古今和歌集』や『新古今和歌集』などに見られる和歌では、身も心も焦がす激しい恋慕や、叶わない恋に対する絶望など、多様な恋愛がうたわれています。

 貴族の恋愛は書物に記される機会も多くありましたが、一方で、庶民の恋愛はどのようなものだったのでしょうか。今回は、「平安時代の恋愛・結婚」にスポットを当て、貴族と庶民の生活をひもといてみます。

貴族と庶民との大きな差

 平安時代の恋愛と結婚について考えるとき、最初に分けておきたいのは、「貴族」と「庶民」のことです。そもそも、貴族や庶民とは、どんな立場の人を言うのでしょうか。

貴族について

 平安時代に「貴族」と呼ばれていたのは、朝廷へ仕えていた官職のうち、位の高さをあらわす位階(いかい)が五位(ごい)以上の人々でした。

 貴族の中でも、従三位(じゅさんみ)以上となると、公卿(くぎょう)と呼ばれ、上流階級として朝廷の中心を担う存在だったとされます。

 参考までに、30に分けられている位階において、貴族かどうかの一般的な基準は以下のとおりです。

  • 上流貴族(公卿):正一位、従一位、正二位、従二位、正三位、従三位
  • 中流貴族(一部は殿上人):正四位上、正四位下、従四位上、従四位下、正五位上、正五位下、従五位上、従五位下
  • 下流貴族(地下官人):正六位上、正六位下、従六位上、従六位下
  • 貴族ではない:正七位上、正七位下、従七位上、従七位下、正八位上、正八位下、従八位上、従八位下、大初位上、大初位下、少初位上、少初位下

 位階によって就任できる職種は決まっており、国司などの地方官は正月の「県召しの除目(あがためしのじもく)」、京の諸官庁に勤める官吏は秋の「司召しの除目(つかさめしのじもく)」において任命されました。

 天皇が過ごす清涼殿への昇殿を許されていた人々は殿上人(てんじょうびと)といい、公卿および一部の四位(しい)・五位(ごい)、秘書的な役割である六位(ろくい)の蔵人などがその立場にありました。

 紫式部の父親である藤原為時が長らく官位を得られなかったように、父や祖父の代に高い位階を得ていたとしても、その子息などは貧しい暮らしをしていた貴族の家もありました。

庶民について

 貴族の肩書をもたない庶民は、貴族から里人(さとびと)と呼ばれ、また下級役人は下衆(げす)地下人(ぢげにん/ぢげびと)などと呼ばれました。

 庶民は「資人(しじん/主人の警固や雑務に従事する者)」として貴族に仕えたり、荘園で年貢を納めながら暮らしたりなど、基本的に質素で貧しい生活を送っていました。

 天皇が住む清涼殿は雲居(くもい)とも呼ばれましたが、まさに庶民からは、雲の上の世界だったのです。

「養老律令」における結婚のルール

 平安時代の法律は、奈良時代の天平宝字元年(757)に成立した養老律令(ようろうりつりょう)において定められています。

 養老律令は、飛鳥時代の大宝元年(701)に唐(中国)の法律を参考にして成立した大宝律令(たいほうりつりょう)の内容を引き継いでいました。

 平安時代の中期以降は、こうした法律と実際の社会にズレが生じてきたと考えられていますが、基本的にはこの内容に沿っていたと考えられています。

 養老律令の「戸令 聴婚嫁条」によると、結婚できる年齢は、男はおおよそ15歳、女は13歳からとされました。また、結婚の際には父母や祖父母を婚主(こんしゅ)として、その承諾を得るといったことや、結婚の仲立人を決めるなどのしきたりがあったようです。

 結婚後については、男性から離婚ができる条件として、「七出/七去(しちしゅつ/しちきょ)」という七つの規定があります。その中には妻が浮気をした場合や、窃盗をした場合なども離婚が可能であると書かれていました。

 一方で、女性から離婚ができる条件についても定められています。

 養老律令の「戸令 結婚条」では、三ヶ月以上結婚が成らなかった(※)場合や、男性がいなくなって一ヶ月が経ったり、重い罪を犯したりといった事情があれば、女性から離婚を申し立てられるとされていました。
(※)「結婚が成らなかった」の解釈については、夫が妻のもとに通わない、夫婦が同居しないなど、複数の説がある。
 逆に言うと、こうした事情がなければ、結婚関係は続くということ。この法律では、女性が浮気をしたら男性の申し立てで離婚できますが、男性が浮気をした場合については、特に明記されていません。

和歌を贈りあう貴族の恋愛・結婚

 貴族の娘は、基本的に家の中で暮らし、家族や親戚以外の他人には顔を見せることはありませんでした。

 そのため、年頃の娘がいるという噂を聞くと、男性の貴族は、女性の家まで行って姿をそっと確認する垣間見(かいまみ)をし、そこから恋愛に発展することが多かったと言われています。

 垣間見によって女性を見初めたら、男性のほうから恋の歌を贈ります。それに対して女性も色よい返歌をすれば、恋愛のはじまりです。女性のほうも、相手の男性がどのような立場なのかを確認し、返事をするかどうか決めているのです。

 その後も恋の歌を贈りあい、双方が結婚を望む場合は親に了承をもらい、男性が女性の家を訪ね、三日間の夜を共にします。最初の夜を過ごした朝、男性は自宅に帰りますが、この時には「後朝(きぬぎぬ)の歌」を贈ることが一般的でした。

 「きぬぎぬ」とは、もとは二人の着物を一つにかけて共寝した後、それぞれの着物を着て別れることを指します。

「明けぬれど まだきぬぎぬになりやらで 人の袖をも 濡らしつるかな」

現代語訳:「夜は明けたけれど、まだ(ふたりとも名残惜しくて)後朝の別れができずに、あの人の袖までも涙で濡らしてしまったことよ。」
『新古今和歌集』巻第十三 恋歌三 一一八四(二条院讃岐/にじょういんのさぬき)

 そうして男性は三日の間、夜になると女性の家へ通います。三日目には「三日の夜の餅(みかのよのもちい)」を男性が食べ、女性の家で仕立てられた着物を男性が着るなどして、結婚が成立します。その後は「露顕(ところあらわし/披露宴)」を行い、周囲に結婚をしたことを知らせるのでした。

 平安時代は一夫多妻制という印象が強いですが、基本的には正妻(嫡妻/ちゃくさい)を一人おき、その他は妾(めかけ)として、正妻とは明確に区別していたようです。

庶民の出会いスポット「歌垣」

 平安時代の庶民の恋愛・結婚は、資料が少ないものの、奈良時代末期に編纂された『万葉集』や、戸籍の断簡(だんかん/古文書の一部)などからうかがい知れます。

 古代においては、庶民の男女が出会う機会として、春に行われる豊穣祈願のひとつ・歌垣(うたがき)という行事があります。ここでは、行事の際に催される飲食や踊り以外にも、男女間の即興歌の掛け合いや求愛が行われていました。

 歌垣の有名なスポットとしては、茨城県の筑波山や大阪府・摂津の歌垣山、佐賀県・備前の杵島山などがあり、歌垣の季節になると各地から男女が集まってきたといいます。歌垣は、古代の男女のマッチングシステムとして機能していたのでした。

 なお、この時だけは既婚も未婚も関係なく夜を過ごしたという和歌もあり、かなり自由奔放な夜が繰り広げられていたようです。

 庶民の間では、こうした歌垣や、市場などでの出会いから発展した結婚と、父母や祖父母が主体となって行う結婚などがあったとされています。

妻問婚(つまどいこん)にみえる喜怒哀楽

 平安時代において、男性が女性のもとに通う妻問婚(つまどいこん)は一般的だったようですが、中には、ただ一夜だけの逢瀬もあったことでしょう。

 また、『源氏物語』の「車争い」の段では、光源氏の恋人だった六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)が、源氏の正妻である葵の上との牛車の場所争いに負けた後、消沈しているところを通った源氏に対して詠んだ歌があります。

「影をのみ みたらし川の つれなきに 身のうきほどぞ いとど知らるる」

現代語訳:「影だけを御手洗川にうつして、つれなく去ってしまうあなたに、浮いて流れそうな私のつらさがいっそう思い知らされるのです。」

『源氏物語』第九帖 葵 第二段 車争ひ(六条御息所)

※参考画像:東京富士美術館HP 源氏物語(車争)図屏風

 妻問婚は、男女の関係をあいまいにしてしまう側面もあったようですね。

 例えば、数多くの恋愛をしたという和泉式部は、国司の夫を持ちながら親王の愛人となったため、紫式部からも「和泉はけしからぬかたこそあれ(普通でない面がある)」と評されています。

 しかし、和泉式部の立場を考えずに愛人とした親王側にも、強引なところがあったようにも思えます。とはいえ、妻の側も、夫の奔放に従っているだけではありませんでした。

 平安時代の中期ごろ、男性が再婚した場合の女性同士が争う「うわなり討ち/打ち」という風習が記されるようになります。うわなり討ちとは、前妻(こなみ)が味方を率いて後妻(うわなり)のもとへ押し入って暴れ、後妻のほうも防衛するといったもので、これによって女性側の不満を晴らしていたようです。

往古うハなり打の図(歌川広重 筆。出典:<a href="https://colbase.nich.go.jp/?locale=ja" target="_blank">ColBase</a>)
往古うハなり打の図(歌川広重 筆。出典:ColBase

 鳥取県の高杉神社では、この風習をもとにしたとされる「うわなり神事」という祭事が四年ごとに行われています。

 これは、その神社の祭神・孝霊天皇の本妻(細姫命/くわしひめのみこと)に対して、二人の女性の霊が嫉妬をしたというもので、三人の神霊を氏子にのりうつらせて打神(うちがみ)とし、それぞれが打杖(うちづえ)で打ちあうという内容です。

 恋愛や結婚というものは、古代からさまざまに人の心を惑わせるものだったのかもしれませんね。

おわりに

 平安京の人口は約12万人と推定され、中でも貴族の数は全体の0.3%にも満たないと考えられています。

 平安時代というと華々しい面が強調されますが、庶民の暮らしが貴族社会を支えていたと考えると、歴史の影には、数えきれないほどたくさんの人生が積み重ねられているんだなあと、途方もない気持ちになりますね。

 大河ドラマ「光る君へ」でも、所々で庶民の恋愛が描かれています。貴族だけでなく、庶民の恋愛事情についても注目してみると、より楽しめるのではないでしょうか。


【主な参考文献】
  • 福田アジオ他編『日本民俗大辞典 上』(吉川弘文館、1999年)
  • 宮腰賢、他『全訳古語辞典 第五版 小型版』(旺文社、2018年)
  • 川村裕子『はじめての王朝文化辞典』(KADOKAWA、2022年)
  • 梅村 恵子『家族の古代史―恋愛・結婚・子育て』(吉川弘文館、2007年)
  • 『日本歴史』編集委員会『恋する日本史』(吉川弘文館、2021年)
  • 今津 勝紀『戸籍が語る古代の家族』(吉川弘文館、2019年)
  • 倉本一宏『平安京の下級官人』(講談社、2022年)
  • 会田範治『註解養老令』(有信堂、1964年)
  • 窪田空穂『完本新古今和歌集評釈 中巻』(東京堂、1964年)
  • 桑原 雅夫・井料 美帆「平安京の交通流に関する一考察」『土木学会論文集D3(土木計画学)73巻 5号』 (公益社団法人 土木学会、2017年、p. I_493-I_505)
  • 鳥取県HP 大山町宮内の『うわなり神事』の調査を実施(最終閲覧日:2024年2月16日)

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  この記事を書いた人
なずなはな さん
民俗学が好きなライターです。松尾芭蕉の俳句「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」から名前を取りました。民話や伝説、神話を特に好みます。先達の研究者の方々へ、心から敬意を表します。

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