「平岩親吉」家康幼少期より苦楽を共にした無二の友は、忠義一徹でのし上がった家康の腹心だった!

平岩親吉の像(名古屋市平田院所蔵、出典:wikipedia)
平岩親吉の像(名古屋市平田院所蔵、出典:wikipedia)
 徳川家臣団は、織田家臣団や豊臣家臣団と比べてかなり地味な武将が多いが、中でも平岩親吉(ひらいわ ちかよし)は群を抜いて知名度が低いように思う。さらに、戦でもそれほど目立った戦功を挙げている訳でもない親吉が、晩年は家康の九男・義直の附家老にまで抜擢されている。彼の生涯を紐解くことで、家康独特の人材登用術の一端も垣間見れることを期待したい。

小姓として駿府へ

 平岩親吉は天文11年(1542)、平岩親重を父として三河額田郡坂崎村に生を受けた。

 天文17年(1547)には、小姓として駿府で人質となっていた家康のもとに送られる。親吉と家康は幼少の時分から仲が良く、親友として互いを深く信頼していたという。

 天文24年(1555)9月頃より、三河の国衆の反乱や松平一族の内紛が立て続けに起こる。これらは今川の軍勢によって鎮圧されたのであるが、その火種はまだくすぶり続けていたようだ。弘治4年(1558)、三河の国衆の大規模な反乱が起こった。

 いわゆる、三河忿劇である。

 この反乱に乗じて、寺部城の鈴木重辰も挙兵し松平一族の松平重茂を討ってしまった。これを見た今川義元は家康を寺部城に差し向け攻略させた。親吉もこれに従い参戦している。

 この戦いは親吉、家康の双方にとって初陣であったといい、家康は火攻めを用いた巧みな城攻めを展開し、今川義元から激賞されたと伝わる。

三河統一

 永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、今川からの独立への道が拓け始めた。今川勢が退却した岡崎城に入った家康は三河統一を目指す。親吉も、この三河統一戦において戦功を積み重ねていく。

 永禄4年(1561)には、藤波畷の戦い(ふじなみなわてのたたかい)で吉良義昭を破った。さらには上ノ郷城も攻略し、城主・鵜殿長照(うどの ながてる)を討ち、その子・氏長、氏次兄弟を捕縛。家康は、駿府に残した家康正妻・築山殿や嫡男・信康らとこの兄弟の人質交換に成功したのである。

 氏長、氏次兄弟は今川氏真の従弟にあたるため、これを無視できなかったようだ。妻子を取り戻し、西三河を統一した家康は永禄5年(1562)、織田信長と清州同盟を結ぶ。これによって、家康は今川からの完全独立を果たしたのである。

 永禄6年(1563)には三河一向一揆が起こる。家臣のあらかた半分が一向一揆方につくというこの騒乱において、親吉は家康方につく。

 私の調べた限りでは、親吉のように駿府で家康に付き従っていた家臣たちで一揆方についたものはいないようだ。身近にいて苦労を共にした絆の深さもあろうが、やはり未完の大器である家康をまじかに見ながら仕えるという環境がそうさせたのではあるまいか。

 親吉が一揆方の上和城を攻撃している最中に、一揆方の筧正重の矢が平岩親吉の耳に当たったという。傷を負った親吉は正重に討ち取られそうになるが、家康が馬で駆けつけ、正重を叱り付けると退却したと伝わる。

 この一揆は一揆方から和議の申し出があり、程なくして収束する。さらに、ここから4ヶ月足らずで東三河も平定し、遂に三河統一は成ったのであった。

大樹寺

 1570年代に入ると、信長は第二次信長包囲網と対峙することとなり武田信玄や本願寺との戦いに明け暮れることとなる。

 包囲網自体は元亀4年(1573)4月に信玄が死去し、その後室町幕府将軍・足利義昭の追放をもって瓦解同然の状態に追い込まれた。さらに天正3年(1575)、武田勝頼が長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗したことで、包囲網はさらに弱体化する。

 そんな折である。

 家康の叔父の水野信元に武田へ内通した嫌疑がかかる。信長は家康に信元謀殺を指示し、家康はそれを石川数正に伝えたという。そして数正は刺客として親吉を選んだ。天正4年(1576)、親吉は三河大樹寺にて信元父子を謀殺する。

 これまで、若き家康の良き相談相手であり、数々の窮地を救ってきた信元を殺すのは親吉としても忍びなかったのだろう。信元の遺骸を抱き上げ、涙ながらに「信元殿には恨みはないが、主君の命によりお命頂戴仕った」と詫びたと伝わる。

 信元謀反の嫌疑は佐久間信盛の讒言によるものと言われているが、これが徳川家の内部にかなりのしこりを残したことは疑いない。

 この話には後日談がある。この事件は信長によって冤罪だったと判定され、のちに水野家は再興された。そして今度は、讒言した佐久間信盛が信長に追放されている。信盛のことを讒言したのは、明智光秀だという。

信康切腹

 天正7年(1579)、徳川家を揺るがす大事件が起こる。

 8月3日、家康は岡崎城を訪れた。これは、岡崎城主であった嫡男・信康に会うためであったという。その翌日、どういう訳なのか信康は岡崎城を退去させられ、最終的には大浜城に移されたと『家忠日記』にはある。そして、9月15日には家康の命により信康は切腹させられてしまったのだ。

 この事件は、信康に嫁いでいた信長の娘・徳姫が信長に12箇条の手紙を書いたことに端を発するというのがこれまでの通説であった。その手紙には信康と不和であること、築山殿が武田に通じていることなどが記されており、信長は信康の処断を決めたというのだ。

 ただ、この通説にはいくつか不審な点があった。

 まず、信康と徳姫の不仲は本当だったらしいが、それだけで切腹の対象になり得るのか、という点である。そして手紙では築山殿が武田に通じているという記述があるにも関わらず、築山殿に関して信長は何も言及していないという点も不思議である。

 実は信康元服後、親吉は彼の傅役を務めていたのであるが、この事件の際には信康の代わりに自らの首を信長に差し出すことを求めたという。このとき、親吉の脳裏をよぎったのは4年前の「大岡弥四郎事件」のことではなかったか。

 「大岡弥四郎事件」とは天正4年(1575)4月、信康の家臣であった大岡弥四郎らが武田への内通を画策し発覚した事件のことである。

 この謀反を、信康自身は家臣から通報を受けるまで知らなかったとされている。しかし、ことの重大性はそこにはなく、織田・徳川連合軍の一翼を担う徳川家の嫡男のお膝元で起こったということにあった。

 幸運なことに大岡弥四郎の一件は信長の耳には入らなかったようである。ところが、武田の調略の手は意外にも岡崎城中深く入り込んでいた。

 『岡崎東泉記』によれば、武田方が間者として歩き巫女を三河に潜入させ、岡崎城中の築山殿との接触に成功していたという。

 これは、仮に築山殿が歩き巫女を武田の間者と知らず接触していたとしても大問題である。そもそも岡崎衆は浜松衆と少々異なり、武田に対して強硬路線一辺倒でなかったと言われている。

 徳川の分裂を狙うならば、岡崎衆をつつくのが一番の策であったろう。この後まもなく長篠の戦いが勃発し、この話は一時うやむやとなった。

 武田勝頼が長篠の戦で大敗を喫したことで武田の脅威が薄れ、融和路線を取る必然性が無くなったことは岡崎衆に多大なる影響を及ぼしたであろう。家康はこの機に家中の不穏分子を一掃しようと考えたのかもしれない。

 家康が最も恐れたのは、三河の岡崎衆が信康を担ぎ自分を追放しようと画策することではなかっただろうか。この頃、信康と家康は不和であったと伝わるし、岡崎衆と浜松衆も対立していたことを考えると、あり得ないことではない。

 天正7年(1579)8月3日、家康はもしかすると信康を廃嫡にする話をしに来たのかもしれない。信康はこれを受け入れず、切腹に追い込まれたのではないかと私は睨んでいる。

毒まんじゅう

 信康切腹後、傅役としての責任を感じた親吉は蟄居謹慎するが、程なくして許された。

 天正10年(1582)6月、本能寺の変で信長が倒れると、家康は1年足らずで甲斐国を平定するという早業を見せる。この甲斐の運営を任されたのが、親吉であった。

 家康が甲斐を切り取ったのには明確な狙いがあったと思われる。それは、武田遺臣の取り込みであろう。これを遂行するのに誠実・実直を絵に描いたような親吉は、まさに適任だったのではないか。

 事実、小田原征伐後は一時的に厩橋3万3000石に国替えとなっているものの、関ヶ原の戦いの後の慶長6年(1601)には再び甲斐・甲府6万3000石を拝領している。

 この後の幕藩体制下では甲府藩が置かれ、徳川一門や譜代大名の統治が行われるようになる。慶長8年(1603)、家康の九男・徳川義直が幼少ながら甲府25万石を拝領すると、義直の代理として統治を行ったという。

 慶長12年(1607)、義直が尾張に移封となると、義直の附家老となり、尾張に在住した。親吉は慶長16年(1611)12月30日に没するが、この死の陰では、ある噂がささやかれた。

 ──遡ること9ヶ月前、家康と豊臣秀頼が二条城にて会見するが、この際に家康は秀頼の毒殺を謀ったというのだ。会見の席では、親吉が饅頭の毒見をしたうえで秀頼に勧めたのだという。ところが、この饅頭には遅効性の毒が仕込まれていて、それに気づいた加藤清正が自ら饅頭を食べ、秀頼を守った、という筋書である。

 清正は帰国の船中で体調を崩し、3ヶ月後に没しているが、遅効性の毒とはいえ、死に至るまでに数ヶ月を要した点はあまりにも不自然である。百歩譲って船中で毒が効いて体調を崩し、それが元で命を落としたとしよう。

 これは、私が調べた限りでは、毒味をした親吉が体調を崩したという記述が見られないという点がおかしい。おそらく、親吉も会見後に程なくして死去したために、話に尾ひれが付いたのではないか。むしろ私は、この頃に相次いで亡くなった浅野幸長・池田輝政・前田利長は暗殺されたのではないかと睨んでいる。

あとがき

 徳川家臣団は忠義心が強く、誠実にして実直な者が多いと思う。以前私は、安直にこれを家康の人材登用の好みから来るものと考えていた。

 しかし、これは少々見当違いであったようだ。おそらく、若き家康は三河武士たちの強い忠義心、そして誠実・実直な人柄に打たれたのではないか。そして三河統一の過程で、領民を統治し、家臣を統率するには誠実・実直さが不可欠であるという結論に達したのだと思う。

 忠義・誠実・実直などと言うと、一昔前の滅私奉公という言葉を連想してしまい、この言葉が嫌いであった私は苦笑するしかない。しかし、利益至上主義の気風がかなり浸透し、そのせいか少々疲弊気味の日本を見るにつけ、滅私奉公もそう悪くないかと考えてしまう今日この頃である。


【主な参考文献】
  • 野中信二『徳川家康と家臣団』 学陽書房  2022年
  • 菊池裕之『徳川十六将 伝説と実態』KADOKAWA 2022年
  • 谷口克広 『信長と家康-清須同盟の実体』学研パブリッシング 2012年
  • 盛本昌広 『松平家忠日記』角川学芸出版 1999年

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。