「平岩親吉」家康と人質生活や関東移封を共にした無二の友!三河の名族の子孫にして、尾張徳川家附家老

コロコロさん
 2022/07/01
平岩親吉の肖像(愛知県名古屋市平田院 所蔵)
平岩親吉の肖像(愛知県名古屋市平田院 所蔵)

徳川家康は長年にわたる人質生活をどのように耐え抜いたのでしょうか。そこには無二の友にして、忠実な家臣となった平岩親吉(ひらいわ ちかよし)という人物の存在がありました。

親吉は何を目指し、何と戦い、どう生きたのでしょうか。平岩親吉の生涯を見ていきましょう。

平岩親吉、家康と同年に生まれる

弓削氏を祖とする一族に生まれる

天文11(1542)年、平岩親吉は松平家家臣・平岩親重の次男として、三河国額田郡坂崎村で生を受けました。母は天野貞親の娘と伝わります。幼名は七之助と名乗りました。生年はのちに主君となる徳川家康と同じです。

平岩氏は河内国の弓削氏(弓削道鏡の出身)を祖先とする一族でした。言い伝えによれば、額田郡坂崎村には数人が座れるほどの平らな巨岩があったといいます。この巨岩から七之助の五代前の先祖である氏貞が坂崎村に移住。同地の巨岩から平岩の苗字を名乗ったようです。

七之助の祖父・重益(しげもと)は松平信光・親忠(信光の婿養子。得川氏の末裔を称する)・長親の三代に出仕。父・親重も長親・信忠・清康(家康の祖父)にわたる譜代の家臣でした。加えて七之助はのちに主君となる竹千代(家康)とは同年の生まれということから、より近しい関係を築いていきます。

竹千代(家康)とは運命共同体

三河国を取り巻く情勢により、七之助と竹千代の運命が大きく変わりました。天文16(1547)年、松平家当主・松平広忠(家康の父)は竹千代を駿河今川家の人質とすることを決定します。

当時の松平家は駿河今川家に臣従。尾張国の織田信秀と戦う最前線に位置していました。人質となる一行には七之助も同行することになります。竹千代を守る一行は、譜代の供二十八人と雑兵五十人を付けた大規模な行列でした。

しかしここで思わぬ事態が七之助と竹千代を襲います。一行が三河国田原まで差し掛かると、田原城城主・戸田康光が護衛に現れました。康光は陸路から海路で駿河へ送り届けるように勧めたため、一行は従います。ところが一行が船に乗り込むと、行き先は尾張国に変更。織田家の領地である尾張国熱田に船が着けられてしまいました。

康光は銭100貫文で竹千代を織田家に売り飛ばします。竹千代は駿河の人質から一転、敵方の織田家の人質となってしまいました。 七之助も同じ境遇であり、竹千代とは運命共同体です。状況次第で、竹千代とともに殺される可能性も皆無ではありませんでした。 しかし幸運なことに、程なくして人質交換が実施。竹千代と七之助らは、織田信広(信長の異母兄)と引き換えに身柄が解放されました。

以降、七之助は竹千代とともに駿河今川家によって保護されます。竹千代は元服して松平元信(のちに元康)、七之助は平岩親吉と名乗りました。

親吉は元康と寝食や苦楽をともにして、特別な絆を育んでいたようです。

運命を変えた信康事件

三河国で初陣を飾る

親吉は元康の信頼を受けながら成長していきます。 弘治元(1555)年、三河国の国衆(豪族)らが駿河今川氏に対して武力蜂起を決行。やがて反乱の火の手は三河全域にまで広がります。世にいう三河忩劇(みかわそうげき)です。親吉は元康と共に反乱鎮圧に出陣。揃って初陣を迎えて今川方の勝利に貢献しています。

しかし武功を挙げたものの、三河松平家はまだ独立できません。 転機となったのは、永禄3(1560)年の桶狭間の戦いでした。東海一の弓取りと謳われた今川義元が織田信長に敗死。元康は三河国で独立行動を取り始めます。

永禄4(1561)年から永禄5(1562)年にかけ、元康と信長の間に清洲同盟が締結。晴れて今川氏から独立を果たしています。元康は程なくして家康へと改名。松平から徳川姓へと改め、新たなスタートを切りました。

親吉は家康に近い立場として重用されていました。松平氏の独立後は三河統一のための戦いに従軍。家康の下で三州錯乱と呼ばれる混乱期を乗り切っていきます。今川氏の領国支配は、やがて遠江国でも動揺。遠州忩劇(えんしゅうそうげき)と呼ばれる大規模な国衆の反乱が勃発しました。程なくして松平氏は徳川へと改称。親吉は徳川軍の一員として、遠江国へと出兵しています。

信康の傅役拝命と悲劇

年齢が同じで、近侍する立場であったため、親吉は家康から厚い信任を受けていました。

永禄10(1562)年、家康の長男・信康が元服し、のちに居城であった岡崎城を譲られることとなります。このとき、親吉は信康の傅役(教育係)と、岡崎城の留守居役を任され、将来の徳川家の当主を預かる身分となっています。

当時の徳川家の領地は三河国と遠江国に拡大。信康は三河岡崎城で、家康は遠江浜松城で政務を行なっていました。親吉は宿老として、両者を繋ぐ役目も担っていたと考えられます。

もちろん、合戦の最前線から退いたわけではありません。天正元(1573)年には、武田家との戦に従軍。天方城を落とす際、危険性を察知して敵兵の追撃中止を命令しています。親吉の深謀遠慮は家康にも称賛されました。

しかし徳川家の拡大は、親吉に悲劇や試練を与えます。天正4(1576)年、甲斐武田家に内通したとして、信長は水野信元(家康の伯父)の殺害を命令。親吉は三河国大樹寺において信元を殺害しています。

ところが、信長の疑念は晴れることありませんでした。天正7(1579)年、突如として徳川家と親吉を悲劇が襲います。信長は信康の武田家への内通を疑い、生母の築山殿と共に処刑するよう徳川家に命令したとされます。

信康は家康と対立したともされ、処刑は避けられない状況でした。親吉は責任の所在が傅役である自分にあると宣言。自分の首を信長に差し出すように家康に求めました。しかし結果として、信康は切腹して果て、築山殿も殺害されてしまうのです。

親吉は二人を救えなかったことを悔やんで、自ら謹慎。徳川家に暗い影を落とすこととなりました。家康は信康の旧臣らを親吉の家臣に着けて、再び出仕するように命令。そこでようやく親吉も姿を見せるようになります。

関東移封と附家老就任

関東移封に従い、厩橋藩主となる

織田家の勢いが衰えると、徳川家は新たな道を歩み始めることとなります。天正10(1582)年、本能寺の変によって信長が自害。天下人の地位は羽柴(豊臣)秀吉へと移り変わっていきます。 このとき、徳川家は武田家の遺領に侵攻。天正11(1583)年に甲斐国を平定し、信濃国南部まで抑えます。

当時の甲斐国は、小田原の北条家と隣接する戦略上の要衝でした。親吉は郡代として甲斐国に赴任。岡部正綱と共に武田家の旧臣たちをまとめつつ、甲府城の築城を始めています。

親吉は甲斐国をはじめ、旧武田領への対応を任されました。天正13(1585)年には信濃国上田城に出兵。真田昌幸を攻めますが、最終的には撤退しています。働きが認められたことで、天正16(1588)年には、親吉は従五位下・主計頭に叙任。礫とした官位を受けるまでになりました。

戦国時代の終わりにおいて、親吉は活躍しています。天正18(1590)年、秀吉が小田原征伐の動員令を発出。親吉は岩槻城や相模築井城の攻城で手柄を挙げ、家康から感状を受けています。戦後、家康は関東に240万石余りを与えられて入封。親吉は上野国の中心地である厩橋に3万3000石を与えられました。

出世を果たした親吉ですが、周囲が優れた人材を放っておくはずがありません。文禄3(1594)年、伏見城が完成。祝いの後、秀吉は徳川家の重臣たちに黄金を100枚ずつ配るという行動に出ています。井伊直政や本多忠勝らも受け取りますが、親吉は「衣食は足りている」として固辞しました。

尾張徳川家の附家老となる

豊臣秀吉の死後、再び戦いの気配が全国を包み込みます。 慶長5(1600)年、家康は石田三成らの軍勢を打ち破り、天下人としての地位を盤石としました。 関ヶ原の勝利によって徳川家は240万石から400万石の所領を獲得。親吉は再び旧領の甲府城に入り、6万3000石の領有を認められます。 このときの甲斐国は、親吉と四人の奉行による統治が行われていました。家康による絶大な信頼ぶりが窺える人事です。

さらに親吉は、徳川家の屋台骨を支える重役を担うこととなります。慶長8(1603)年1月、甲斐国に家康の九男・五郎太丸(徳川義直)が25万石で入封しました。義直はまだ二歳と幼少だったため、実際の統治は傅役となった親吉が担当します。親吉は武田家の旧臣や旗本をまとめ、事実上の国主として政務に当たりました。同年には、家康は征夷大将軍に就任。江戸に幕府を開いて全国の統治を始めています。

慶長12(1607)年、義直は尾張国に47万石で移封。親吉も付家老(徳川宗家から派遣された家老)として赴任します。親吉は附家老でありながら犬山藩12万3000石を領有。尾張藩の藩政を取り仕切る立場となりました。 当時の大坂城には豊臣秀頼があり、尾張国は東海道における徳川方の軍事的要衝です。

しかし親吉に残された時間は僅かでした。慶長16(1611)年、親吉は名古屋城二の丸で病没。城中で没することを憚り、家臣の屋敷で死んだとも伝わります。享年七十。戒名は平田院殿越翁休岳大居士。墓所は妙厳寺にあります。

親吉には後継者が不在であったため、大名家としての平岩氏は断絶。わずか一代で途絶えました。


【参考文献】
  • コトバンクHP 「平岩親吉」
  • 柴裕之 『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』 岩田書院 2014年
  • 徳永真一郎 『家康・十六武将』 PHP研究所 19991年

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 ...

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