「三河一向一揆」が勃発した要因とは?…なぜ家康の三大危機の一つと言われるのか

 大河ドラマ「どうする家康」では、松本潤さんが少し頼りない松平元康(のちの徳川家康)を演じている。その家康は桶狭間の戦い以後、今川氏との関係を断ち、今川氏真と戦いに明け暮れた。それ以外でも三河一向一揆は、元康にとって大きな危機だった。

 永禄6年(1563)7月、元康は名を家康に改めた。元康の「元」の字は、今川義元から偏諱を与えられたものだった。いうなれば、従属の証でもあった。元康は名を改めることで、今川氏との決別を広く表明したのである。

 このように、家康は順調だったように見えたが、驚くべき大事件が起こった。永禄6年(1563)9月から翌年3月まで続いた、三河一向一揆の勃発である。

 同じ頃、家康は、三河の領国支配を着々と進めていたが、このことも一揆を引き起こす要因となったのである。その辺りをもう少し詳しく解説しよう。

 矢作川流域には一向宗(浄土真宗)本願寺派の有力寺院が多数あり、寺内町を建設するなどして当該地域の流通などを握っていた。寺内町とは、一向宗が建設した寺院・道場(御坊)を中心に形成された自治集落のことだ。

 寺内町は濠や土塁で囲まれるなど防御的性格を持ち、信者、商工業者などが集住していた。彼らは領主と距離を置く自治を展開していたのだ。寺内町は三河だけでなく、西国を中心に各地に作られていった。

 そもそも一向一揆とは、室町・戦国時代に近畿・北陸・東海地方を中心に起こった一向宗門徒による一揆である。僧侶、門徒の農民だけでなく、名主・地侍を巻き込んで、守護や荘園領主と戦った。

 中には、加賀一揆のように一国を支配したものもあった。一向一揆は戦国社会を席巻する一大勢力になったが、天正8年(1580)の石山合戦(織田信長と大坂本願寺の戦争)で敗北を喫し、以後は衰退していった。

 桶狭間合戦で今川義元が敗死した後、家康は念願していた岡崎(愛知県岡崎市)への復帰を果たし、三河の領国化政策を精力的に進めていった。これまで、家康は西三河を中心に支配していたが、徐々に東三河も支配下に収めていった。

 しかし、家康の採用した政策は、農民や寺院への過剰な負担となり、同時に一向宗寺院の保持した不入特権を侵すことになった。

 とりわけ、一向宗寺院は寺内町を形成し、流通機構を掌握するなどし、大きな既得権益を持っていたため、猛烈な反発を招いたのである。

 三河国内では一向宗門徒に加え、反対派の国人・土豪、農民が家康に反旗を翻した。大きな痛手となったのは、松平家臣団の一部が一揆勢力に加わったことである。本多正信、本多正重、渡辺守綱、蜂屋貞次、夏目吉信、内藤清長といった面々である。

 それだけではない。家康を快く思っていなかった、桜井・大草といった松平氏の一族、東条吉良氏といった面々が一揆勢力に加担したのである。必然的に家康は苦境に立たされ、これまでの人生のなかで最大の苦境を迎えた。

 一揆勢力の中心となったのは、西三河の一向宗寺院である。中心となったのは土呂本宗寺(愛知県岡崎市)で、ほかに「三ヵ寺」と称された佐々木上宮寺(同)、針崎勝鬘寺(同)、野寺本證寺が家康に対して抵抗した。

 一揆の模様を詳しく描いているのは、『三河物語』や『松平記』である。ともに後世の編纂物という制約はあるが、以下、これらの史料に拠って、一揆の顛末を確認しよう。

 ことの発端は、家康の家臣が佐々木上宮寺から兵糧米を徴収しようとしたことだった。

 当時、家康は今川氏と戦っていたので、不足する兵糧を補おうとしたのである。しかし、佐々木上宮寺が納得するわけがない。

 兵糧を徴収する際、家康の家臣は寺院内部の検断も行った。このことが三河本願寺教団を大いに刺激し、やがて三河一向一揆の勃発へとつながったのである。

 家康に挙兵した一揆勢は、反家康勢力と協力しつつ、永禄6年(1563)12月まで土呂本宗寺、佐々木上宮寺、針崎勝鬘寺、野寺本證寺に立て籠もって、家康に一歩も引かず徹底抗戦した。

 翌年1月、土呂、針崎、野寺の一揆勢は、家康方の大久保氏が籠る上和田砦(愛知県岡崎市)を攻撃した。一揆勢は撃退させられるも、やがて戦いは三河の各地へ広がっていった。そして、長期間に及んだのである。

 ここで一揆との和睦を勧めたのが水野信元である。永禄7年(1564)2月、家康は信元の仲介によって、一揆勢と和睦を締結することになった。

 和睦に際しては、寺内町が売買・貸借などによって得た土地などについて、家康が保証をすることになった。しかし、一部の武将は徳政によって、売買・貸借の破棄を認められていたので、激しく抵抗することになった。

 このときも水野信元が間に入ることで、問題の解決を図った。寺内町の特権を認めなければ、再び一揆が起こるのだから、家康にとって苦渋の決断だったのである。この間、一揆の鎮圧までに半年余の期間を要した。

 その直後、家康は一向宗に加担した松平家次、吉良義昭、酒井忠尚を屈服あるいは追放し、西三河において確固たる権力基盤を築き上げた。

 さらに、家康は自らの権力をバックにして、土呂本宗寺、佐々木上宮寺、針崎勝鬘寺、野寺本證寺に宗旨替えを求めた。ところが、彼らは要請に応じなかったので、これらの本願寺派寺院を破却したのである。

 一揆が平定され、家康は家臣団を貫高制などで再編し、反対派の国人らを家臣団から一掃した。家康の家臣のなかには、信仰と家康への忠誠との間で、いずれを選択するか悩み苦しむ者もいた。

 戦後、家康は帰参を希望する者があれば、喜んで迎えたといわれている。本多正信は、その代表といってもいいだろう。

 こうして家康は家臣団の結束を固め、より強固な領国支配体制を築き上げた。結果、三河の本願寺派は天正11年(1583)の赦免、復興までの20年あまりの間、活動が思うようにできなかったのである。

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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