古狸は一日にしてならず!「三河一向一揆」は家康を覚醒させた!?

『三河後風土記之内』の「大樹寺御難戦之図」 (月岡芳年画、出典:wikipedia)
『三河後風土記之内』の「大樹寺御難戦之図」 (月岡芳年画、出典:wikipedia)
 石山合戦における織田信長と石山本願寺との戦いはよく知られているが、若き家康最大の危機とも称される「三河一向一揆(1563~1564)」については、あまり知られていないと思われる。三河一向一揆に関する同時代の史料が少ないのが理由の1つであるが、石山合戦のように信長の殲滅戦や長期に渡った戦いと比べると、小規模かつ短期間で終了したのも理由の1つであろう。しかし、この一揆は若き家康の非凡さが垣間見えるという点で重要な戦だったのである。

三河と一向宗

 三河の地は、戦国時代には既に一向宗(浄土真宗)の一大勢力地であったというが、これには理由がある。一向宗の開祖である親鸞は、布教のため東国を行脚したことで知られるが、箱根での布教の後、三河に立ち寄っている。1235年のことだという。三河の民には念仏の教義が馴染みやすかったのか、親鸞は17日間も岡崎の妙源寺に逗留しながら熱心に布教を行ったと伝わる。

 この後、高田の顕智上人(三世)や専信上人などがさらに念仏の教えを広めていったため、一向宗の信者が急増することとなった。さらに室町時代に、一向宗中興の祖として知られる蓮如が三河の土呂に本宗寺を創建したことにより、さらに活動が活発化する。

 永禄3年(1560)、桶狭間の戦いの後、三河一向宗は新たな転機を迎える。

本證寺第十代空誓

 本證寺は、現在の愛知県安城市野寺町にある。創建は建永元年(1206)頃で、親鸞門侶の慶円によるものだという。注目すべきは、天文18年(1549)の門徒連判状に武士門徒 115名 もの署名が確認できるという点である。三河一向一揆の特色は家康の家臣団までも二分する争乱となったことだと思う。既にこの時点でその萌芽が見られることは興味深い。

 桶狭間の戦い(1560)で今川義元が討死すると、家康は今川家からの独立を目指し始める。そして永禄5年(1562)、家康は織田信長と同盟を結ぶ。いわゆる「清州同盟」である。

 この同盟は三河の完全掌握を目指す家康にとって、大きな意義があった。しかし、「三河統一」という家康の悲願を全く違った角度から眺めている勢力があった。一向宗である。桶狭間後の一向宗側の動きは迅速であった。戦いの翌年の永禄4年(1561)には、近江国堅田慈敬寺にいた空誓(くうせい)が三河の本證寺に移っている。空誓は武闘派として知られ、後に三河一向一揆の中心となった人物だ。ちなみに彼は蓮如の曾孫もしくは孫であるという。

 一向宗の重要人物を、このタイミングで三河に送り込んできたのは偶然ではなかろう。おそらく、三河の武士門徒が家康方の情報を一向宗方に流していたのではないか。

 ここで気になるのが、家康家臣・本多正信の一向宗との関わりである。正信の出生地には3つの説がある。西城(愛知県西尾市)説、小川村(愛知県安城市)説、そして久米(静岡県静岡市)説があるが、この中に小川村の名があることは重要だ。

 安城市と言えば、本證寺のあるところであるから、一向宗信仰が極めて盛んな地域だったに違いない。そのような地域で生まれ育った正信が、一向宗に深く帰依するようになったとしても不思議はない。実際、若い時分の正信が本證寺に足繁く通っていたという逸話が残されている。

蜂起

 正信が三河一向一揆において一揆勢に加勢したのも心情的には頷ける所もあると思う。ただ、私は正信がそんな単純な男ではないと踏んでいるので、少々違う見立てをしている。

 実は三河一向一揆は単なる一揆勢と家康方の争いではない。一揆勢には正信を始め、家康の家臣であった者ももちろん含まれているが、松平庶流である桜井松平家や大草松平家などの松平一族も参加している。そもそも三河の一向宗は強大な軍事力を持ち、流通の要所をも押さえていた。

 ひょっとすると、独立を志向し始めた家康よりも、力が上ではないかと正信は読んでいたのではないか。事実、一揆勢のほうが人数では勝っていたようだ。正信は一揆勢の中心となって戦いを指揮したとも言われるが、これは勝算あっての行動だったのかもしれない。

 そしてもう一点、正信の頭の片隅にあったのは加賀一向一揆のことではなかったか。加賀一向一揆は長享2年(1488)前後に発生し、明応9年(1500)前後には本願寺一門衆による統治が行われていたという。正信が一門衆による統治に、ある種の理想形を見出していた可能性はないだろうか。この点については後述する。

 三河一向一揆のきっかけについては諸説ある。『東照宮御実記』には

「御家人等佐崎の上宮寺の籾をむげにとり入たるより。一向専修の門徒等俄に蜂起する事ありしに。」

とある。ざっくり訳すと、家康家臣が上宮寺から無理やり籾(米)を取り立てたので、一向宗門徒が蜂起したというところか。

 上宮寺は本證寺、勝鬘寺と並んで三河三ヶ寺と称される本願寺派の拠点である。これらの寺は寺内町を形成し、家康の父・松平広忠の代には守護使不入の特権を与えられていた。

 守護使不入の特権とは、領主の介入を拒むことのできる権利のことを言い、納税の義務はおろか、無法者の捕縛さえできないという有様であったという。広忠の代にはまだ弱小であった松平の統治を安定させるためには致し方なかったようであるが、三河統一を目指す家康にとっては目の上のたん瘤となりつつあった。

 さて、一揆の発端の話に戻ろう。

 家康の家臣が上宮寺から無理やり籾(米)を取り立てた理由としては、『家忠日記増補』や『参州一向宗乱記』に記述がある。それによると、上野城主の酒井忠尚に今川との内通の嫌疑がかかったため、家康は菅沼定顕に命じて、上宮寺から籾を借りさせようとしたところ断られたことが理由であるらしい。ところが、この菅沼定顕という家臣の存在が不詳だということで、この記述の信憑性に疑問が呈されている。

 また、『三河物語』によると、永禄5年(1562)に無法者が本證寺が侵入した際に酒井正親がこれを捕縛するという事件があったという。本證寺は守護不入の特権を侵害されたことに憤慨し、翌年正月に一揆が起こったとある。

 まだまだ異説も存在し、定まっていないというのだが、私はそれらの出来事はほとんど実際に起こったのではないかと睨んでいる。家康は守護不入の特権を三河一向宗からどうにかして剥奪したいと考えていたはずだ。相手に蜂起させてこれを叩くという状況にすれば、大義名分も立つというものだろう。

 上宮寺や本證寺の無法者の件は、相手からすればほとんど嫌がらせに近いのではないかと考えるのは私だけだろうか。嫌がらせの波状攻撃に本願寺派は我慢できず蜂起したと私は思っている。

 本證寺第十代・空誓は遂に蜂起を決意し、三河三ヶ寺を通じて檄を飛ばし、門徒を召集した。集まった一揆勢には、前述した本多正信や、後に徳川十六神将と称される渡辺守綱と蜂屋貞次までもが含まれていたというから驚く。一揆勢の数は数千と言われ、家康方の兵数を上回っていたという。

 永禄7年(1564)1月11日、一揆勢は上和田城を攻撃する。上和田城は岡崎城の南にあり、家康は急ぎ出陣。自ら兵を率いて一揆勢に突撃をかけた。

 大将としては、かなりリスキーな戦術であるが、これには狙いがあったと私は考えている。一揆勢の主力は家康から離反した家臣達だろう。信仰心と忠義の板挟みとなっている者も多いと家康は読んでいたのではないか。実際、家康の姿を見ると逃げ出す一揆勢が結構多かったという。

 この心理作戦は、かなり効いたようだ。1月15日の小豆坂での戦いは最大の激戦となったが、この戦いにおいても家康は側面から突撃をかける。これには一揆側についた武将たちも震えあがったことだろう。結局、一揆勢は撤退を余儀なくされている。

家康の妙手

 同年2月、一揆勢方から和議の申し立てがあったため、家康はとりあえず和議を了承する。そもそも家康は和議に持ち込む算段だったと思われる。そして一揆勢を許し、前々のごとく不入の権等を認めるという起請文まで書いている。

 なんとも甘い裁定に思われるが、これこそが家康の妙手だったのである。許された家臣たちの多くは三河を去ったというが、家康はこれを待っていたのだ。

 早速、家康は寺院側に宗旨変えを迫った。当然、寺院側は「前々のごとく」と起請文を交わしたと反論したのであるが、家康は「前々というのなら寺が立つ前は野原だったのだから、寺を破却して野原にせよ。」迫ったという。反抗しようにも主力の武士たちの多くは三河を去ってしまっていたので、どうしようもなかったのだろう。

 結局、一向宗の寺院の多くが破却され、その後20年もの間一向宗の活動が禁止されてしまった。家康は実に巧妙に三河一向一揆を制圧してしまったのである。

あとがき

 三河一向一揆について調べていると、つくづく「古狸」は一日にしてならずであるなと妙に納得してしまう自分がいて苦笑せざるを得なかった。大義名分を押さえつつ敵を焚きつける「嫌がらせ」の巧みさや、言葉尻をとらえての「難癖」の見事さが早くも見てとれるからだ。

 家康の名誉のために言わせてもらうと、少なくとも若い頃は松平家を守るために必死だったという側面は大いにあると思われる。まだまだ動員兵数も少ない中で、さらに本多正信らの家臣の離反もあった状況で勝利するためには正攻法では到底及ばないことは明らかだ。

 その本多正信であるが、一揆収束後許されたものの三河を出奔し、加賀に移り住んだという。新井白石の 『藩翰譜 』によれば加賀一向一揆の将として迎えられたとある。前述したように、正信は加賀に思い入れがあったのではないかと思う理由がここにある。

 その後、大久保忠世のとりなしにより三河に帰参することになるのだが、その時期については定まっていない。ひょっとすると、石山合戦の行く末を見届けるまでは戻るつもりがなかったのかもしれない。


【主な参考文献】
  • 『一向一揆の基礎構造―三河一揆と松平氏』(日本宗教史研究叢書、1989年)
  • 大久保彦左衛門 (著)、小林賢章 (翻訳) 『現代語訳 三河物語 』(筑摩書房、2018年)
  • 河合敦『徳川家康と9つの危機』(PHP研究所、2022年)

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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