藤原道長の金峯山寺詣で…霊験あらたかな娘彰子の第一子懐妊、親王誕生物語
- 2024/09/18
老骨に鞭打って娘・彰子可愛さにその懐妊を願っての藤原道長の金峯山寺詣で。果たしてご利益はあったのでしょうか
【目次】
「我が娘が後れを取るようなことがあってはならぬ」
藤原道長は寛弘4年(1007)、奈良県は吉野山の金峯山寺(きんぷせんじ)へ詣でます。当時、出世を願って金峯山寺に祈願するのは貴族たちがよく行うことで、道長もそれに倣って政権の座に就くことが出来ました。お礼参りに詣でたいと思っていた道長ですが、忙しさもありなかなか実行できません。寛弘4年になってやっと時間を見つけますが、このときの主な目的は娘・彰子の懐妊祈願となっていました。
長兄・藤原道隆の娘である一条天皇の后・定子が長保2年(1000)に亡くなった後、すでに入内している自分の娘・彰子の懐妊をのぞんだ道長ですが、彰子はまだ幼く、一条天皇は藤原顕光の娘である元子を寵愛しています。
「彰子より先に男御子が生まれるようなことがあってはならぬ」
このまま天皇の元子への寵愛が続いたら…と気が気でない道長。やがて彰子も20歳になります。このころの后妃の平均初妊年齢が20歳なのを考えても、そろそろ娘にもその兆しがあっても良いころだと考えたのでしょう、道長は金峯山詣でを決行します。時に道長42歳、当時としては老人の範疇に入る年齢でした。
都を出発~吉野山の麓~山頂へ
まずは準備から
仏詣でには準備が必要です。寛弘4年(1007)8月2日に都を出発するのですが、閏5月から100日間の御岳精進という潔斎(けっさい。心身を清めること。)に入ります。食事は一日一食で生臭物・臭いの強い野菜を避け、同時に写経を行います。道長は予行演習のつもりでしょうか、この間に笠置寺などあちこちの神社や寺へ詣でています。
2日当日、道長の屋敷は鴨川も近いので、奈良へ行くには船で鴨川から木津川ルートを辿ればかなり距離が稼げます。また、淀川を下り、難波まで出て大和川を遡っても良いのですが、道長は大内裏の正門朱雀門でお祓いを受けたのち、陸路を取ります。
気合を入れて正式な道順を取ろうとしたようです。途中で奈良の大安寺に泊まるのですが、大安寺側では関白様のお泊りと入念に豪華な準備を整えて迎えます。その様子を見た道長「私は仏詣でに行くのだ。かような贅沢は出来るか」と怒って門の脇で寝た、と自ら『御堂関白記』に書いています。
ここからが大変
吉野山の麓に到着した道長一行。折あしく雨が降り続いています。日延べをしても良いのですが、実は奉納する経筒(きょうづつ。経塚に埋める写経を納めるための蓋ふた付きの容器)に “寛弘四年八月十一日” と彫り込んでしまったため、その日には奉納せねばならず、雨の上がるのを待っていられません。 参拝の道は最後の1日2日は尾根を縦走する道で、馬も輿も使えず、道長と言えども自分の足で歩かねばなりません。途中には最大の難所、鎖に縋って岩をよじ登る鐘掛岩(かねかけいわ)がそびえていますが、雨の降りしきる中、一行は山へ取り掛かります。
米や布など奉納品を運ぶ大勢の人足と年老いた僧を何人も連れた一行は難儀をし、事実老僧の1人・覚運は疲れのためでしょうか、都へ帰りついてすぐに55歳で亡くなっています。雨中突破の甲斐があって、一行は8月11日には寺に辿り着けました。
山頂には山上本堂という大きな建物が建っており、本尊の蔵王権現が湧出したと言う湧出岩もあります。その岩の前に経筒を埋め、卒塔婆(そとうば。故人の追善供養のために立てる縦長の木板のこと)を立てて祈願を行います。
この祈願法は史料で見る限りこの時が初めてですが、関白様がなさったこととしてそれ以降に大流行、各地に経ヶ峰の名を持つ山が多くできました。
道長の献上品
道長が携えて行った献上品は、金銀・五色の絹の幣・紙の御幣・紙・米・油などで、金峯山寺の末寺38所にも同じように献上しています。蔵王権現が祀られている御在所にも詣で、綱二十条・法華経百部・仁王経百部・八大龍王のための般若心経百十巻・理趣(りしゅ)経八巻・御灯明油など多くの物品を献上しています。理趣経とは本来一切のもの、男女の愛欲や欲望も穢れのない事として説き、すべてを肯定する考えです。彰子の懐妊を望んでの山詣でなので、この経も奉納したのでしょう。そしてこれらの経を誰のために献上したかが述べられ、主上・冷泉院・中宮・東宮の名前が綴られます。
講師・呪願の僧たちには綾の衣一重ね・白き衣一重ね・法服・甲袈裟を、その他の凡僧にも絹一疋・袈裟一条・宿直装束が贈られました。時の最高権力者から賜った高価な衣服に僧たちはさぞ喜んだことでしょう。その他にも僧たちへは布施として米二石・信濃布三反・他の絹百反、寺へは別途供養料として米百石を贈っています。
さらに「皆に被り物を下賜し、五師にも禄を下賜し、法要の導師を務めた朝仁には白い衣一重と単衣、法要を手伝った七僧には絹を、現地の責任者金照には単衣と米三十石、灯明に使う油や灯明皿も下賜した」と書いています。
大層な大盤振る舞いですが、これだけの荷物を道も整っていない当時、吉野まで運ぶのは大変だったでしょう。これらの品名は『御堂関白記』に書かれているのですが、日記に所々空白の部分があります。どうも道長は自分でも何を贈ったのか忘れてしまったようで、おそらく他にもさまざまな物品を献上したようですし、もちろん自分が書き写した経も納めています。
疲労困憊も目的を達成した道長
道長たちの山詣では超速だったようで、経供養が終わるとその日のうちに下山しています。このとき、土に埋められた経筒は元禄4年(1691)に山上から出土し、中からは経文も見つかりました。すぐに道長が奉納したものと判別したので、経筒は再び埋められましたがこの時のやり方が拙かったらしく、近代になって掘り出されたときには経文は水に濡れて痛んでしまっていました。この時の経筒は現在、京都国立博物館に収蔵されています。
道長は寛弘4年(1007)8月の14日には京都に戻って来ましたが、道中でもしっかり書いていた日記を戻ってからしばらくは書いていません。おそらく疲労困憊だったのでしょう。しかしこの金峯山寺詣でが功を奏したようで、その年の12月に彰子は懐妊します。
懐妊にまず気づいたのは一条天皇
彰子の懐妊の時の事を『栄花物語』は一条天皇の言葉としてこう述べています。「去年の12月には例の障りも無かった。この月も20日ばかりになっても無いし、気分も良くないと彰子が言っている。よくわからないがこれは子が出来たのだろう、早く大殿(道長)にお話し申し上げよう」
天皇と中宮と言えども普通の夫婦のような会話があったのですね。
懐妊が判明して5ヶ月目に入った寛弘5年4月、彰子は父道長の屋敷土御門殿に退出し “着帯の儀” を行います。これは妊婦が腹帯を巻くもので、当時は“標(しるし)の帯”と言って親族から一丈二尺の白練り絹が贈られました。
6月14日には参内して1ヶ月ほど内裏で過ごしますが、7月16日には退出、以後出産が終わるまで里邸で過ごします。当時の出産は血の穢れとされ、宮中でのお産は許されませんでしたし、土御門邸にも母屋を離れた産屋(うぶや)を新しく出産場所として作りました。
安産を願って数ヵ月前から僧侶・修験者・陰陽師を邸内に呼び寄せ、祈祷を行わせます。出産に関するすべての費用は妻側の負担でしたが、当代一の権力者道長の娘の初産とあって、道長は目一杯気を入れて準備したことでしょう。
お産当日
9月9日夜、彰子に出産の兆しが現われ、加持祈祷が始まりますが、当時屋敷内にいた彰子の女房・紫式部は「局に下がって横になっていたら、いつの間にか眠ってしまった」と呑気な様子です。夜中ごろから屋敷中が騒ぎ始め、10日の夜の明け方に出産が迫ります。まず、室内が邪気を払うとされる白一色に模様替えされます。出産用の白木の御帳台が運び込まれ、彰子がそこに移ります。
男手が必要になり、道長をはじめ、彰子の弟の頼通や教通、四位や五位の官人が動員されて白い敷物を運び込むなど、忙しく立ち働きます。父親の道長が率先して動いたようです。彰子をはじめ、40人ほどものお付きの女房達の装束も白一色に改められ、祈祷の声が響き渡りと室内は騒然とした有様でした。
しかし10日のうちには何事も起こらず、彰子は不安げな様子で寝たり起きたりするだけです。御帳台の東側には女房達が控え、西側には一人一人を屏風で囲った憑座(よりまし)たちが座り、僧たちは彰子に取り憑いた物の怪を憑座に移そうと、声高に騒ぎ立てるばかりで、そうこうするうちに10日の夜も暮れてしまいました。
なかなかの難産
11日の暁になり、彰子は寝殿の中央に置かれた御帳台から北廂に移ります。占いによると座を移るようにとの卦が出たのですが、北廂では御簾も掛けられず、几帳を何重にも掛けて彰子の姿を隠します。几帳の中には母親の倫子・乳母の宰相の君・内蔵(くら)の命婦のみが付き添い、彰子の伯父である仁和寺の僧都と従兄弟の三井寺の内供奉の君がそば近くに控えました。あまりに大勢の女房が控えていては中宮が気詰まりだろう、と道長の指図で、大納言の君や小少将の君・中務の君・内蔵の命婦など数人の長く彰子に仕えている主だった女房だけが残され、他の者は南面の間や東面に移されます。紫式部はお仕えしてまだ日も浅かったのですが残された女房の中に入っていました。これは彼女にここで起きた出来事を記録するようにとの役割が振られていたからと思われます。
彰子の弟たちは魔除けの米を散米(うちまき)し、辺りは雪が降ったようです。道長も自分が書いた安産祈願の願文にさらにありがたい言葉を書き足し、声高に読み上げ、今は神仏に祈るばかりです。この時、道長は指図をするのにも殊更に大声を出し、物の怪を追い払おうとしました。しかし彰子の苦しみは続き、女房達はどうなる事かと涙を流します。涙は不吉だと互いに戒め合いますが、それでも泣くのを止められません。
出産
11日の午後2時ごろになり、30時間にも及ぶ難産の末、無事に男御子が誕生しました。几帳の中に残された内蔵の命婦は何度も赤子を取り上げた経験者で、この後も彰子姉妹の出産には必ず立ち会っています。無事に御子が産み落とされた事で、この時を狙っていた物の怪たちは憑り殺せなかったと悔しがって騒ぎ立てます。後産もまだ終わっていないのでまだまだ油断は出来ませんが、待ち望んでいた男御子の誕生に屋敷中は沸き立ち、道長を始め一同はむせび泣いて喜びました。
紫式部はこの時の事を『紫式部日記』に「午後の空なのに朝陽がさし出した心地がする」と書いています。後産も無事に済んだようですが、みなが安心して祈祷の僧たちも引き上げ、産婦の周りに人少なになったこの時が危険なのです。光源氏の最初の妻葵の上は、夕霧を生んだ後の人々が油断した隙に六条の御息所の生霊に取り殺されました。幸い彰子は母体の急変に備えてまわりに控えているしかるべき女房達に守られ、順調に回復します。
生まれたばかりの赤子に乳を含ませる乳付け(ちつけ)の役は、乳母の1人である橘の三位徳子が務めました。「乳付け」とは生まれた子に初めての乳を与えることで、母親以外の女性が務めます。
当時の医学書『医略抄』によると
「初めに赤子の口の中の血を拭い、甘草と水を煮詰めたものを与え、次に朱蜜を、さらに牛黄を与えその後で初めて人の乳を与える」
とあります。
「甘草」は漢方薬としてよく使われる甘味のある草、「牛黄」も牛の胆のうの中に出来た結石ですが、漢方薬としては定番。しかし「朱蜜」は辰砂を蜜で和えたものだそうです。辰砂とは硫化水銀からなる鉱物だそうで、こんなものを赤子に与えて大丈夫なのかと思いますが…。
おわりに
皇子が誕生すると帝から “御剣(みはかし)” が贈られてきます。皇女の場合、袴が贈られるのが通例でしたが、道長の次女で三条天皇の中宮妍子(けんし)が皇女を出産した時に御剣が贈られ、以後は皇女にも贈られるようになります。【主な参考文献】
- 倉本一宏『平安貴族とは何か』(NHK出版、2023年)
- 倉本一宏『藤原道長の日常生活』(講談社、2013年)
- 山中裕『藤原道長』(法藏館、2023年)
- 鳥居本幸代「紫式部と清少納言が語る平安女子のくらし」春秋社/2023年
- 福家俊幸「紫式部女房たちの宮廷生活」平凡社/2023年
- 関幸彦「藤原道長と紫式部」朝日新聞出版/2023年
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