「光る君へ」藤原道長が娘・彰子の入内を急いだ納得の理由

定子とききょう(清少納言)
定子とききょう(清少納言)

 大河ドラマ「光る君へ」第28回は「一帝二后」。

 永延2年(988)、藤原彰子が誕生します。父は当時、権中納言であった藤原道長。母は、左大臣・源雅信の娘(倫子)。彰子は、長保元年(999)2月、着裳の儀式を終えます。着裳の儀は、女子が成人したことを示す儀式です。今風に言うと成人式を12歳で行ったのです。「大人」の女性となった彰子に、同年、大きな転機が訪れます。時の一条天皇に入内(皇后・中宮・女御となる女性が宮中に入ること)することになるのです。

 一条天皇のもとには、藤原定子(道長の兄・藤原道隆の長女)・藤原義子(太政大臣・藤原公季の娘)・藤原元子(左大臣・藤原顕光の娘)・藤原尊子(道長の兄・藤原道兼の娘)が既に入内していました。そうした中、同年11月1日、道長の長女・彰子が入内します。彰子を女御(天皇の寝所に侍した女性。皇后・中宮に次ぐ位)とする宣旨は同月7日に下ります。一条天皇は、彰子の部屋を初めて訪問されますが、すぐに帰られます。天皇の渡御は、顔合わせのためと推測されます。

 前述したように、彰子は当時、数えで12歳。一条天皇との間に子供を作るのは早過ぎます。そうであるのに、彰子は急いで入内させられているのです。その要因としては、当時、中宮定子が妊娠していたことが挙げられるでしょう(997年、定子は脩子内親王を出産していました)。ちなみに、定子の兄は藤原伊周(道長のライバルとして有名)。弟には藤原隆家がおりました。伊周・隆家兄弟は、長徳の変(995年)という政変により、一旦左遷されますが、大赦により帰洛しています。

※参考:藤原北家九条流の略系図。戦国ヒストリー編集部作成
※参考:藤原北家九条流の略系図。戦国ヒストリー編集部作成

 話を戻しますと、定子が今回、一条天皇の皇子を出産したならば、伊周らが一条天皇の身内として再び権勢を得る可能性がありました。そうした事は道長としては避けたかったでしょうが、男子が生まれるか、女子が生まれるか、こればかりは道長であってもどうすることもできません。そうであるならば、定子に皇子が誕生する前に、自らの娘・彰子を一条天皇に入内させて、天皇に圧力をかけようとしたのかもしれません。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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