平安京のお坊さん 説法上手は出世する…都に邸宅を構え、宝物を貯め込み

 “お坊” さんと言うのは本来、仏に仕え、俗世の富貴には目もくれずに清貧生活を送る尊い方々のはずです。平安京のお坊さんたちはどうだったのでしょうか?

僧侶の説法は楽しみの一つ

 仏教行事のことを現代は「仏事(ぶつじ)」と呼びますが、平安時代は「法会(ほうえ)」と呼びました。その法会について清少納言がこのような事を言っています。

「説教の講師は男前が良い。講師の顔を見詰めているからこそ説いている話の尊さも心に染み入るのだ」

 都合の良い話ですが、平安時代僧侶の説法は一種の娯楽でした。

 藤原済時(なりとき。941~995)という上流貴族が小白河の別荘で盛大な法会を催します。清少納言も早起きしていそいそと出かけて行くと、すでに別荘の庭は先客の牛車でいっぱいでした。済時は説法を牛車に乗ったまま聞けるようにと庭を解放したのですが、法会は昼頃に始まるのにみんな楽しみにして早起きして押しかけたのです。

 僧侶の方も心得たもので、説法の名手と言われた清範(せいはん。962~999)という僧は、ある人から死んだ愛犬のための説法を頼まれます。その中で

「ただ今や、過去聖霊は極楽蓮台の上で“ぴよ”と吠え給ふらん」

と、やり集まった人々を沸かせます。死んだ愛犬が極楽の蓮の花の上でわんと啼いたよ、と言うのですが、こんなアドリブを入れて聴衆を楽しませました。

学問僧の出世

 このような説法を得意とする僧侶の多くは“学生(がくしょう)”と呼ばれた学問僧です。彼らは仏教教義を研究するとともに、説法の腕前を磨くのに力を入れます。説法が上手い僧と認められれば出世の道が開けるのです。

 僧正・僧都・律師・法印・法眼・法橋のいずれかの肩書を持てば、“僧綱(そうごう)”の資格が得られます。“僧綱”とは、宗派を超えた仏教界全体を指導できる立場でした。

 この他にも細かく僧侶の位は分けられているのですが、“学生”たちが目指す “僧綱” にはどのようにすればなれるのでしょう。平安時代中期には慣行的に “僧綱” への道筋が出来ており、正月に大内裏の大極殿で行われる御斎会(ごさいえ)、3月に薬師寺で行われる最勝会(さいしょうえ)、10月に興福寺で行われる維摩会(ゆいまえ)の3つの法会で講師を務めれば、自動的に権律師に任命されます。

 ただ、道筋が付いたとはいえ、簡単には“僧綱”にはなれません。というのも、この3つの法会講師には希望者が山ほどいましたから。

密教僧の出世

 学問僧は“僧綱”を目指しましたが、同時代に“験者(げんじゃ)”と呼ばれた密教僧も“僧綱”を目指します。

 “験者”の“験”は「しるし」の意味で、効き目や効能のことです。当時の人々は密教に対して深遠な教義ではなく、生活に則した呪術的効果を期待しました。長保5年(1003)8月に一条天皇の第二皇女欣子(よしこ)内親王4歳が、鼻の穴にサイコロを詰めてしまいます。回りが大騒ぎしたあげく、慶円(きょうえん)と言う密教僧が呼ばれて加持祈祷、無事にサイコロは転がり出ます。慶円は天皇から多くの褒美を与えられました。

 有名どころでは藤原純友が瀬戸内海で暴れまわった時に、朝廷は明達(みょうたつ)と言う密教僧に純友討伐の呪術を行わせています。天慶3年(940)の事で、明達が行った呪法は「毘沙門天調伏法」と伝わります。

 雨乞いにも密教僧は駆り出されました。雨乞い呪術比べで西寺の守敏を打ち負かした、神泉苑での空海の雨乞い伝説はよく知られています。

 また寛仁2年(1018)には、仁清と言う密教僧が、長元6年(1033)には同じく密教僧の仁海が「請雨経法(しょううきょうほう)」の術を使って雨を降らせています。2人ともこの功で権律師と法印に叙されており、このように朝廷のために呪法を行い、験を表して僧位を得るのが、密教僧の一般的な出世の道でした。

贅沢になっていく僧

 長保元年(999)朝廷の中枢役所である太政官から「僧侶が理由も無く都に住むことを禁止する」との命令書が出されます。平安京は当初朝廷が建立した東寺・西寺を除いては寺院を建ててはならない決まりでした。

 平城京のように勢力を持つ大寺院が「政治に口出しせぬように」との教訓からですが、嵯峨や宇治など京都の郊外にある天皇や貴族の別荘が寺院になる事はあり、また平安京遷都以前からある街中の小さなお堂のようなものは見逃がされました。僧侶や尼僧たちが法会のためであっても、届け出もなく無断で所属する寺院を離れて暮らすことも禁じられました。当然僧が商売をして利益を得たり金を貸したり財産を持つ事などもってのほかです。

 ところが平安時代も中期になると、この決まりを破り、都に贅沢な邸宅を建てて暮らす僧が出てきます。広大な屋敷を「これは牛車を停めておくための車宿(くるまやどり)である」などと強弁します。朝廷はたびたび禁令を出しますが、僧侶の行いは改まりません。

 僧たちが郊外の寺院を出て都で暮らしたがったのは、その方がずっと快適だったからです。欲しい物も珍しい物も手に入りますし、マスコミも無く口伝ての情報が頼りだった当時、都で暮らしてこそ聞ける耳寄りな話も多かったのです。

「講師として頻繁に法会によばれるから、都に居た方が双方にとって便利なのだ」

 こうした僧たちの言い訳ですが、やがてそれぞれの邸宅の中に宝物を貯えるようになります。

 加持祈祷を行い、験があればもちろん報酬が貰えますし、法会で講師を務めても同じことです。その他にも高価な法衣や絹・米・油や飾り物など多くの布施が届けられます。当然呼ばれるのは名の通った僧侶、つまり律師や法眼など“僧綱”の職にある僧侶に多くの声がかかります。

 経済的に豊かになったこれら“僧綱”が都に屋敷を構えたがりました。その方が加持祈祷にしろ法会にしろ声がかかりやすいでし、上流貴族とのつながりも保てますからね。

おわりに

 僧侶たちを取り締まり、その規範となるべき“僧綱”がこうした有様では示しがつきません。豪邸を構え宝物を貯えと破戒僧とまでは言いませんが、清貧を旨とする僧侶にはあるまじき生活です。しかしこれらの僧の方が説法に優れた学問僧として、生涯にわたって尊崇され続けました。世渡り上手ですかね。


【主な参考文献】
  • 繁田信一『知るほど不思議な平安時代下』(教育評論社、2022年)
  • 大石学『一冊でわかる平安時代』(河出書房新社、2023年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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