「源俊賢」平安時代の光と影の中、公卿まで駆け上がった男の生きざま

源俊賢(『前賢故実』 巻第6より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
源俊賢(『前賢故実』 巻第6より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 あなたは「源氏」と聞いて、誰を思い浮かべますか? 源平時代で有名な源頼朝、源義経のほか、今放送中の大河ドラマ「光る君へ」でいえば、左大臣の源雅信などでしょうか…。他にも平安時代に活躍した源氏の人物はたくさんいますが、醍醐源氏の出身・源高明の三男である源俊賢(みなもと の としかた)もそのうちの一人です。

 源俊賢は家の没落に遭いながら、父・高明の薫陶を受けて育ちます。長じてからは政界で多くの人脈を築きつつ、昇進。やがては藤原道長の義兄となり、最終的に権大納言にまで上り詰めました。

 今回はそんな源俊賢の生涯について見ていきます。

超名門!醍醐源氏一族の隆盛と凋落を生きる

 天徳4年(960)、源俊賢は左大臣・源高明の三男として生を受けました。生母は藤原師輔の三女と伝わります。

 俊賢の一族である醍醐源氏は、醍醐天皇の皇子を祖とする源氏一族です。高貴な血筋として、朝廷とも深く関わってきました。父・高明は醍醐天皇の第10皇子であり、俊賢は天皇の孫に当たります。

 高明は左大臣として政治の中枢に君臨。天皇の外戚である藤原氏を凌ぐほどの勢いを持ちましたが、俊賢が10歳のときに一族に転機が訪れます。

 安和2年(969)年3月、父・高明の従者である藤原千晴らに謀反の嫌疑がかかり、高明にも疑惑が及びました。やがて検非違使が邸宅を包囲し、その上で高明には太宰権帥への左遷命令が伝えられました。これは藤原氏による策略だったようです。

 『栄花物語』には、11~12歳くらいになる童が高明についていくことを許されたと記述されていますが、これは年齢的に考えて俊賢のようです。

 太宰帥は、太宰府の最高責任者であり、受三位相当の官職でした。しかし「権」の字からわかるように、権官(定員外)とされています。つまり、高明に罪はないものの、政治の中枢から遠ざけられて有名無実の役職に追いやられたことを意味していました。

 肝心の俊賢にしても、まだ10歳と年若です。その年齢で京を離れて九州に行くことは並大抵の苦労ではなかったはずです。

源俊賢の略系図
源俊賢の略系図

京への復帰、そして父・高明の死

 時が経つことで、俊賢らの運命も大きく動き始めました。

 天禄2年(971)10月、父・高明の罪が赦され、翌年には帰京が許されています。そして父に学問を叩き込まれた俊賢は、やがて大学寮(官僚養成機関)に入学して学問に励みます。天延3年(975)に従五位下に叙位。貴族の仲間入りを果たすと、貞元2年(977)には侍従として天皇の身辺に近侍するなど、着実に出征街道を歩んでいったのです。

 しかし父・高明は中央政界に復帰することはなく、京の葛野で隠遁生活を営んでいましたが、天元5年(982)にそのままこの世を去ります。父の傍で栄華と凋落を見ながら育ったため、のちの生き方と処世術がここで培われたと言われています。

 2年後の永観2年(984)には、従五位上、左兵衛府の次官である左兵衛権佐(さひょうえのすけ)に叙任。時の摂政で、父・高明を追いやった人物でもある藤原兼家が、俊賢の後見役に付いていたようで、その後の俊賢は順調に力を伸ばしていきました。

 さらに永延2年(988)には、妹の源明子が、藤原道長(兼家の五男)と結婚。この藤原北家との結びつきは、俊賢の政治的立場をより強固なものとしていくのです。

罪人の子から、藤原北家の縁戚へ

 永延2年(988)、俊賢は右少弁(うしょうべん)、五位蔵人(ごいのくろうど)を拝命。天皇の秘書官の一人として活動します。そして正暦3年(992)には、蔵人所の長官である蔵人頭(くろうどのとう)に昇進しています。

 五位でありながら、蔵人頭に任命されたことは、藤原北家において嫡流の人間だけですので、俊賢のそれは異例のことでした。時の関白・藤原道隆(兼家の長男。道長の兄)の信任があったとはいえ、俊賢への期待が窺い知れます。

 長徳元年(995)には、藤原道隆と藤原道兼が相次いで病没し、道長が後を継いでいます。同年5月には、道長に内覧を命じる宣旨が降下されますが、このとき俊賢は、後を継げなかった藤原伊周(道隆の嫡男)に同情し、眠って聞こえないフリをしたとも伝わります。

 同年、俊賢は道長からの信任も厚く、参議(さんぎ)に昇進。公卿の一員として政治の中枢に関わる立場を得ることとなりました。その際には高銀の蔵人頭に藤原行成を推挙して、こちらとも繋がりを深めています。

両天秤?それとも恩義?彰子と定子に尽くす

 俊賢は、道長に近い立場ながら、道隆の中関白家との関わりを持っています。以降も俊賢は道隆の子らに同情。花山上皇襲撃事件の直後も、中宮・藤原定子(道隆の長女)二条北宮行啓に従っています。

 長徳2年(996)6月、定子の在所である二条北宮が火災によって焼失。俊賢はこのときも馳せ参じています。しかし道長が主催した和歌会にも参加。双方に対して絶妙な距離感を持って臨んでいました。

 翌長徳3年(997)4月、罪を得ていた藤原伊周と隆家兄弟の恩赦が朝廷で話し合われます。この席で俊賢は恩赦の勅命を重要視する意見を表明。中関白家の兄弟の恩赦に賛成する立場を取っています。

 同時に俊賢はより道長らとの関係を強化しています。長保3年(1001)には、道長の協力を背景に従三位に昇進。翌長保4年(1002)に中宮・彰子(道長の長女)の中宮権太夫を拝命。俊賢は中関白家に近い立場でありながら、彰子の側近としての立場を得ていました。

 その後も俊賢は順調に昇進を重ね、要職を歴任していきます。

 寛弘元年(1004)には権中納言(ごんちゅうなごん)に叙任。寛弘5年(1008)には従二位に昇進を果たしました。寛弘7年(1010)には、正二位に昇進。一条朝においては、四納言(他には藤原公任・藤原行成・藤原斉信)の一人に数えられるほどの権勢を誇るまでに至ったのです。

 参考までに、大河ドラマ「光る君へ」の登場人物(公卿のみ)の最終的な官位の事例は以下のとおりです。

位階官職と人物の事例
正一位
従一位 太政大臣:藤原兼家、道長、頼忠、為光
左大臣:源雅信、藤原顕光
右大臣:藤原実資、頼通
正二位 太政大臣:藤原道兼
左大臣:源高明、重信
内大臣:藤原道隆、伊周
大納言:藤原道綱、斉信
権大納言:藤原公任、行成、源俊賢
中納言:藤原隆家
従二位 中納言:平惟仲、藤原文範
権中納言:藤原義懐
正三位
従三位

権大納言への昇進と辞任

 しかし、平安貴族の中枢で活躍した俊賢の人生にも、翳りが見え始めます。

 寛弘8年(1011)に三条天皇が即位すると、俊賢の昇進が途絶えてしまいます。長和2年(1013)には、道長の嫡男・頼通が権大納言に叙任するなど、先を越されてしまいました。

 寛仁元年(1017)年、後一条朝において、ようやく権大納言(ごんだいなごん)を拝命しますが、すでに俊賢は政治への熱意を失っていました。俊賢は辞表を3度提出。やがて寛仁3年(1019)に権大納言辞任が許されます。しかし周囲には必要とされていたようで、治部卿や民部卿、太皇太后大夫を歴任しています。

 万寿3年(1026)年、俊賢は全ての役職を致仕。翌万寿4年(1027)に重病のために出家します。そしてそのまま薨去。享年69。奇しくも父・高明と同じ年齢でのことでした。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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