天皇よりも徳川が偉い?沢庵和尚も流罪になった紫衣事件とは?
- 2024/07/03
紫衣事件(しえじけん)は、3代将軍・徳川家光の時代の寛永4年(1627)に起こった事件である。すでに力を無くしつつあった朝廷は、この事件により、徳川幕府からより強い支配を受けることとなる。天皇だけに許されたはずの権力が幕府に奪われ、政治の場から追いやられた朝廷。強い勢力を持っていた寺院への統制。
今回は、江戸初期の朝廷と幕府の確執が最も大きくなったこの事件の顛末とその背景について考えてみた。
今回は、江戸初期の朝廷と幕府の確執が最も大きくなったこの事件の顛末とその背景について考えてみた。
禁中並公家諸法度
大坂の陣(1614、1615)により豊臣家を滅亡させた徳川家康は、ついに天下統一を成す。徳川に対抗する勢力が消え、平和な時代を迎えようとする中で、家康は、幕府の基礎を固めるためにさまざまな法度(法律)を出した。中でも有名なのが、武家諸法度と禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)である。武家諸法度は大名に対する規制やルールだ。武家の徳川が武家に向けた法度を制定するのは当然だが、家康は皇族に向けても法度を制定した。
ちなみにこの法度を起草したのは、金地院崇伝(こんちいんすでん)という臨済宗の僧である。崇伝は南光坊天海と共に家康の参謀として活躍した人物で、「黒衣の宰相」という異名を持つ。崇伝は武家諸法度の起草にもあたっており、徳川の世を盤石なものとするために力を尽くしている。
禁中並公家諸法度が作られた理由
この法度が作られた背景には、朝廷の権力が著しく低下していたことがある。すでに武家中心の世となって久しいこのころ、朝廷の財政は悪化の一途をたどり、天皇の即位式も満足に行えないほどであった。生活のために自らの娘を嫁がせることを条件に武士に官位を与えたり、援助を受けたりする公家も少なくなかった。だが、朝廷には公家たちを取り締まる力もなく、幕府に頼るしかなかった。そこで家康は、一定のルールを朝廷や公家に課すことで秩序を回復させると同時に、京を幕府の支配下に置き、都合よくコントロールしようと考えたのではないだろうか。
禁中並公家諸法度の概要
法度は17条からなり、朝廷・公家の行うべきことについて書かれたものと僧侶や寺社に対する天皇の権限について制限を設けた部分とに分けられる。第一条では、天皇が行うべきは学問、そして和歌であると記されている。天皇の仕事は、政治ではなく文化を守ること、祭祀や儀式を行うことにあると決めているのである。つまり、「天皇は政治に関わるな」ということだ。この条で、万一徳川幕府に対抗する勢力が表れても天皇を長にするというリスクを消した。
そのほか朝廷の特権であった摂政・関白の任命や改元に関する細かなルールも制定されている。
第11条には、武家伝奏(ぶけでんそう)の通達に背いた場合は、流罪に処するという厳しいルールも含まれている。武家伝奏とは、朝廷と幕府(京都所司代)との間の連絡や交渉を担当する朝廷の役職である。武家伝奏から伝えられる幕府の命に従わなければ、たとえ天皇であろうと罰せられるというのだから、朝廷や公家にとっては、神をも恐れない恐ろしい言葉のように感じたかもしれない。
今回の事件と深く関係しているのは、天皇・朝廷が、僧侶に対し、みだりに紫衣を許したり、上人号を授けたりすることを禁じた第16条である。
紫衣とは?
紫衣とはその字のごとく、紫の衣、僧侶が身に付ける僧衣のことである。紫は、身分の高い者や高貴な人だけが着ることのできる色とされており、この紫衣の着用を許可するのが天皇・朝廷の権限であった。ただこの特権は、朝廷にとって貴重な収入源という一面もあり、朝廷が困窮するのに比例するように紫衣の許しが多くなっていたらしい。
紫衣事件は、紫衣の許しを制限する公家諸法度が出されたにもかかわらず、次々と紫衣の勅許を与えていたことに対する幕府の厳重注意に端を発する。
紫衣事件の概要
寛永4年(1627)、後水尾天皇は、沢庵宗彭(たくあんそうほう)ら十数人に紫衣の勅許を与えた。これを知った幕府は、即座に勅許を取り消し、僧侶に与えた紫衣を取り上げる。さらに後水尾天皇と朝廷、僧侶に厳重な注意をした。しかし朝廷も僧侶も黙ってはいない。「帝が決定されたことに、幕府がなぜ口を出すのだ」とばかりに、幕府への猛烈な抗議を行った。朝廷の激しい抗議を受け、幕府は妥協策を示したため、一連の騒ぎはいったん収まる。
僧侶の流罪
しかし、幕府の妥協案に承服できなかったのが、大徳寺の沢庵・玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)、妙心寺の東源慧等(とうげんけいとう)・単伝士印(たんでんしいん)の4名である。幕府は、朝廷への統制を始めるとともに、大寺院への統制も始めていたのである。すでに浄土宗系の寺院の統制を終えていた幕府が次にターゲットとしたのが臨済宗であり、沢庵らはもともと非常な警戒をしていたようだ。そこへ今回の紫衣事件が起こり、いよいよ危機感を感じた沢庵らは、ここぞとばかり幕府への強訴に及んだのである。しかし、沢庵らは江戸に呼び出された末、出羽国や陸奥国へ流罪に処されてしまった。
紫衣事件のその後
この紫衣事件により、天皇でさえも幕府の意向には逆らえないという事実が確定してしまった。朝廷の権威も失墜した。後水尾天皇突然の譲位
紫衣事件の余韻も収まらない寛永5年(1628)11月。後水尾天皇が突如譲位し、明正天皇が即位する。幕府に事前の連絡なしの行動である。明正天皇は、徳川秀忠の五女・和子と後水尾天皇の間に生まれた女性である。時の将軍家光の姪にあたる天皇の誕生で、徳川家は図らずも天皇の外戚となった。
しかしこれは、皇位継承者であった男子が早世したための一時的な処置であり、明正天皇即位後も御水尾上皇が院政を敷くこととなる。
僧侶の流罪が許される
後水尾天皇譲位は、幕府にも衝撃であったらしく、流罪となっていた僧侶たちは、その後3年ほどで許された。ただしこれは、徳川秀忠死去に伴う赦免という体で行われており、幕府の体面は守られた形である。家光の上洛
幕府と朝廷の関係は、紫衣事件を境に最悪の状況となっていた。これを憂慮した3代将軍家光は、寛永11年(1634)に上洛。後水尾上皇に拝謁し、幕府側からの歩み寄りを示した。後水尾上皇の正室は、家光の妹であり、明正天皇は家光の姪であることから、上皇の情に訴えようとしたのかもしれない。とにかく、家光上洛により、幕府と朝廷の確執は一応の解決を見た。
沢庵の努力
家光が上洛した際、天海や家光の剣術指南役・柳生宗矩(やぎゅうむねのり)の強い勧めにより、沢庵が家光に拝謁した。家光は沢庵に帰依し、寛永13年(1636)から沢庵は、家光の側近くに仕えることとなった。 沢庵は、紫衣勅許への理解や大徳寺・妙心寺の寺法(幕府により規制を受けていた)を元に戻すことについて訴え続ける。そして数年後、ついに沢庵の努力が実り、紫衣勅許については京都所司代の承認を得れば認めるという形になった。大徳寺・妙心寺両寺の寺法も旧復され、紫衣事件の際に奪われた紫衣も戻された。
あとがき
紫衣事件は、それまでに少しずつ溜まっていた朝廷の幕府への不平不満、寺院の幕府からの統制に対する反感がついに爆発し、徳川幕府の方針に面と向かって反抗した事件だったと私は思う。朝廷と京都の寺院は、徳川が天下を治めていることも、自分たちが到底勝てるわけはないということもわかっていながら、それでも自分たちは特別だという一種のプライドがあったはずだ。それは、千年の都を誇る京都ならではの感情かもしれない。
しかし、お金がない。武士の援助がなければ生きていけない。そんな矛盾の中、プライドだけを支えに必死で幕府に対抗してみたが、結局抑え込まれてしまう。
朝廷が幕府に対抗できるまで、まだ二百年ほど待たなければならない。それも討幕を叫んでいた長州藩や薩摩藩という武士の協力あってこそではあるが…。
【主な参考文献】
- 『日本史小辞典』(山川出版社、2001年)
- 『日本大百科全書(ニッポニカ)』
- 『日本史図録』(山川出版社、2021年)
- 『別冊歴史読本 徳川葵の女たち』(KADOKAWA、2000年)
- ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
- ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄