石山本願寺はなぜ11年にもわたる信長との戦いを始めたのか?

 元亀元年(1570)~天正8年(1580)までの11年間にわたり、織田信長と浄土真宗本願寺勢力とが戦った「石山合戦」。本願寺勢力はなぜ信長と戦わなければならなかったのでしょうか。

 信長は無神論者だったという説や、比叡山焼き討ちでの残忍なエピソードなどが知られています。そのため、寺社勢力を弾圧して畿内を支配しようとする信長に本願寺勢力が抵抗したのだ、という見方が主流だったように思われますが、よくよく紐解いてみると本願寺と信長が直接的に対立する要素は見当たらないのです。

 では、なぜ本願寺は信長と敵対することになったのでしょうか。

反権力的な民衆の抵抗運動ではなかった?

 一向一揆というと、どうしても強大な力を持つ権力者に抵抗する民衆による運動と捉えてしまうかもしれません。たとえば徳川家康と本願寺派門徒との戦い(三河一向一揆)がまさに権力者と民衆の戦いでした。ですが、こと信長と本願寺勢力の戦いにおいてはそれは当てはまらないものと考えられます。

信長が宣戦布告して始まった戦いではない

 そもそも、両者の戦いは信長の宗教弾圧によって始まったかのように見られていますが、実は口火を切ったのは信長ではありませんでした。

 元亀元年(1570)、本願寺が蜂起する直前、信長は三好三人衆と対峙していました。9月、本願寺は突如、足利義昭と信長の軍勢に攻撃を始めたのです。


 その少し前、本願寺が諸国の門徒に蜂起を呼びかける檄文の中に、「信長が突き付けた無理難題に本願寺がずいぶん従ったにもかかわらず、信長は本願寺を破却すると通告した」という内容の一文があります。

 それを見れば、宣戦布告をしたのは信長の方であり、本願寺は「仏法のため」という大義名分で仕方なく信長と敵対せねばならなかったかのように見えます。

近江国の門徒衆に向けた顕如の9月6日付の檄文(明照寺旧蔵)
近江国の門徒衆に向けた顕如の9月6日付の檄文(明照寺旧蔵)

 こういう状況であれば当の信長は本願寺の蜂起を予想して備えていてもよさそうなものですが、義昭・信長軍はずいぶん慌てたようです。

 『細川両家記』には、本願寺の攻撃に「信長方は仰天した」と記録されているくらいなので、信長が予想して待ち受けていたとは考えにくいのです。つまり、「信長が破却するというから」という本願寺の言い分は蜂起の建前に過ぎないと考えたほうがよさそうです。本願寺は何か別の理由で意図的に信長を攻撃したのだと思われます。

本願寺と中央政権・諸大名との関係

 ここで注目したいのが、このとき信長や足利義昭と対立していた勢力です。

 まず、信長・義昭と交戦中だった三好三人衆ですが、彼らは13代将軍の足利義輝を暗殺して足利義栄を担ぎ、政権を握っていました。しかし永禄11年(1568)には、信長が義昭を擁立した上洛戦において、彼らを追放して入京しています。本願寺は彼らと密接な関係にありました。

 信長入京の翌年、本願寺は三好三人衆との関係を疑われ、彼らに加担しているのではないかと義昭から詰問されているのです。その他、本願寺と諸大名の関係を簡単にまとめてみましょう。

【浅井氏】
信長と同盟関係にあったが、元亀元(1570)年に一方的に破棄して対立。本願寺とは、本願寺の蜂起直前に同盟関係を結ぶ。
【朝倉氏】
永禄11(1568)年まで敵対関係にあったが和解し、元亀2(1571)年6月までに姻戚関係となる。
【六角氏】
信長と敵対する三好三人衆と同盟関係にあり、本願寺とは友好関係にある。
【三好三人衆】
信長の上洛で追放されるも、反乱。本願寺は彼らと通じているとの嫌疑をかけられている。

 この諸大名は、それぞれの動きに呼応して相次いで蜂起しており、信長と敵対する連合軍として協力体制にあったと思われます。本願寺はそのすべての勢力と何かしらの関係がありました。つまり、本願寺が信長に反旗を翻したのは、権力者への抵抗、信仰上の理由などではなく、畿内を中心とする諸大名との関係のためだった、突き詰めれば政治的理由による蜂起だったと考えられるのです。

信長との関係は?

 本願寺が属する勢力が信長と敵対していたために蜂起したことを確認してきましたが、では肝心の信長との関係はどうだったのでしょうか。

 まず、信長が義昭を奉じて上洛する際の関係ですが、『顕如上人文案』の永禄10年(1567)11月7日の条を見ると、「いよいよ上洛されるのはまことにめでたいこと」と挨拶しており、本願寺法主である顕如は義昭と信長の政権を歓迎していたことがわかります。とても畿内を支配しようとする権力者に対する反応とは思えません。

 そこからはここまで紹介した通り、信長と敵対する派閥の一員として対立するわけですが、その間に信長が寛容であったのも注目すべきポイントです。10年以上にもおよぶ石山合戦の間、本願寺は三度信長に和睦を申し入れ、信長は受け入れています。

 伊勢国長島一向一揆では無差別殺戮でおよそ2万人が虐殺され、越前一向一揆でも1万人以上が討ち取られて壊滅。信長と一向宗との戦いというとこういった容赦ない残忍な戦いぶりが目につきますが、それはよくある軍事的作戦だっただけであって、一般の民衆は容赦するように命じて指導者のみを処断した例もあります。


 和睦してはまた蜂起してくる本願寺に対して三度も和睦を受け入れるとは、なかなか寛大な処置ではないでしょうか。こういった信長の対処からは、気に食わない仏教勢力を弾圧して滅亡に追い込んでやろうという意思は見えてきません。むしろ、本願寺を追い詰め解体するのは本望ではなく、存続していきたい、友好関係を築きたいと考えていたのではないでしょうか。

 それは天正8年(1580)の三度目の和睦がなったあと、両者がいい関係にあったことからも見てとれます。

なぜ本願寺は幕府体制の一員となっていた?

 結局、本願寺の蜂起は、信長と敵対する勢力との関係によるものと考えられるのですが、そもそも本願寺はなぜ中央政権である幕府体制の一員となり、諸大名と関係を築いていたのでしょうか。

加賀の大名扱い

 まず、本願寺は幕府の勅願時であり、さらに幕府からは加賀守護に準ずる存在として扱われていました。幕府内には本願寺担当の奉行が存在していて、奉行を通じて将軍とやりとりをしていたのです。

 もともと加賀を守護していたのは富樫政親でしたが、加賀一向一揆によって打倒され、加賀の地は天正8年(1580)に信長に敗れるまでの100年近い期間、実質的に支配する守護大名が不在の「百姓の持ちたる国」と呼ばれました。

 つまり、その間は加賀一向一揆によって国が支配される状況になっていたため、本願寺は加賀の大名のように扱われていたのです。

 そういう経緯で幕府体制の一員となったため、大名同然の立場として周辺諸国の大名たちと交渉を持たざるを得なかったのです。

各地の門徒集団を維持するために

 また、一向一揆とは必ずしも領主と対立する存在ではありません。毛利領内の「安芸門徒」として知られる本願寺門徒の勢力が、毛利氏と信長の戦いにおいては毛利軍の一員として従軍していたという例があるように、基本的に諸国に散らばる本願寺門徒勢力は領国の大名と良好な関係を築こうとしていました。

 諸国の門徒勢力は領国大名との橋渡し役、つまり外向的役割を本願寺に求め、本願寺はそれに応えて諸大名と交流し、「領内の本願寺門徒をどうぞよろしく」と依頼していたのです。

 本願寺門徒は全国各地に散らばっています。本願寺がその勢力を維持するためには、「諸大名との外交」というカードが必要だったのです。単純に言えば、各地の門徒(多くは百姓)の信仰を維持するために、本願寺は彼らにとってメリットのある頼れる存在であり続けなければならなかったということです。

 門徒の信仰の維持という「宗教的理由」で幕府や諸大名と友好関係を構築していたのですが、今度はその関係を維持するという「政治的理由」で石山合戦が始まったのでした。

「信長だから」戦ったわけではなかった

 結局、よくいわれるような「宗教弾圧する権力者・信長」と「権力者に抵抗する本願寺勢力」という構図ではなかったのであろうと思われます。

 信長が無神論者であった、というのも、仏教を異教とみなし迫害していたイエズス会(ルイス・フロイス)の評です。彼らは布教に来ているので、本国への報告書にわざわざ「信長は異教にも理解があって手厚く保護している」なんて書きはしないでしょう。

 信長は桶狭間の戦いの直前に熱田神宮で祈願したこともあれば、寺社を保護したこともあるのです。そもそも石山合戦以前、本願寺が信長を警戒していた、また弾圧者として憎んでいたような事実は、先述のとおりありません。

 本願寺側には、「信長だから」戦わなければならないという必然性はなかったのです。信長と敵対したのは、本願寺が属していた勢力がたまたま信長と敵対していたためと考えるのが妥当でしょう。


【参考文献】
  • 神田千里『信長と石山合戦 中世の信仰と一揆』(吉川弘文館、2008年)
  • 神田千里『宗教で読む戦国時代』(講談社、2010年)
  • 神田千里『織田信長』(筑摩書房、2014年)
  • 神田千里『戦国と宗教』(岩波書店、2016年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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