「野田城・福島城の戦い(1570年)」三好三人衆との戦闘中に本願寺も加担。石山合戦はじまる

三好長慶の時代、三好政権を支えてきた三好三人衆。彼らは長慶の死後も政権の中枢を担いますが、信長が上洛してきた時に反発して幾内から追い出されてしまいます。


本記事で扱う「野田城・福島城の戦い」は三好三人衆による幾内奪回戦の一つです。合戦の途中で本願寺勢力も三好方に加担したことから「第一次石山合戦」とも言われ、以後10年にもわたる石山合戦の端緒となりました。

さて、戦の展開はどのようなものだったのでしょうか。


背景は信長の上洛にあり!

織田信長が上洛して将軍足利義昭を誕生させたのは永禄11年(1568年)。このときに信長上洛を阻止しようとした三好三人衆(三好政康、三好長逸、岩成友通)は、戦いに敗れて京都を追い出されます。これがきっかけで「織田 vs 三好」という敵対関係ができあがることに。


再び京の奪還を狙っていた三人衆は、翌年に入ってすぐに将軍義昭の仮御所・六条本圀寺を攻撃。しかし、このときも明智光秀らに阻まれて京都奪還は叶いませんでした。(本圀寺の変)


それでも三人衆は反織田を貫きます。元亀元年(1570年)6月、信長が姉川の戦いで近江に出陣していた頃、同19日にこれを機とみた三好三人衆の1人・三好長逸が摂津の荒木村重を調略。村重は池田城から主君・池田勝正を追放して三好方に与します。


7月21日に三人衆は摂津国中嶋に進出して野田城・福島城を築城。ここを拠点として反織田の兵を挙げたのです。


この三人衆の動きに呼応し、細川昭元軍や紀伊国の鈴木孫一等が率いる雑賀衆の援軍も続々と到着。『松井家譜』によれば、この時の総数は1万3千兵までに膨れ上がったといいます。この雑賀衆は水兵・鉄砲兵からなる傭兵部隊で三人衆に属していた安宅信康に雇われた私兵ではなかったかといわれています。


こうした動きに対し、織田方の松永久秀・久通父子がいち早く対応しました。彼らは大和の信貴山城で戦闘準備を整えると、27日には信貴山城を出発して河内に入国し、三人衆軍の河内侵攻に備えました。


以降、開戦にいたるまでの信長勢力と反織田勢力の動きをまとめてみます。

  • 8月2日:【信長方】足利義昭が畠山昭高に御内書を送り、信長と合力して紀伊・和泉国の兵を集結させて三人衆に対処するように命じる。
  • 17日:【反織田方】三好三人衆の軍勢が三好義継の居城・古橋城を攻撃。
  • 20日:【信長方】三好三人衆の挙兵の報を受けた信長は美濃国・岐阜城を出発し、横山(滋賀県長浜市)へ進軍。
  • 22日:【信長方】長光寺(滋賀県近江八幡市)に到着。
  • 23日:【信長方】本能寺(京都府京都市)に到着。
  • 25日:【信長方】本能寺をでて南方へ出動し、枚方(大阪府枚方市)の寺院に陣を構える。
  • 26日:【信長方】三人衆のいる野田城・福島城から南東5kmの天王寺に到着して陣を据える。

こうした流れを経て、摂津で織田・足利義昭連合と三好三人衆ら反織田勢力との戦いがはじまるのです。



合戦地は摂津国・野田城、および福島城一帯(現在の大阪府大阪市福島区)。色濃い部分は摂津の範囲

野田城・福島城の戦い、はじまる

反織田勢力の総数は8千程とされています。顔ぶれに含まれている本願寺顕如は、はじめは中立を保っていたものの、途中で反織田の兵をあげることになります。なお、三人衆は浅井長政・朝倉義景・顕如らと開戦前から通じていたという説も。


砦を築いた織田軍が圧倒

8月28日に三好政勝、香西長信らが織田軍へ寝返ると、9月3日には将軍義昭が奉行衆2千を率いて、細川藤賢のいる中嶋城へ着陣。


9月8日、信長は野田城・福島城の対岸に「楼岸の砦」と「川口の砦」を築かせてそれぞれに諸将を配備。野田城・福島城の西の対岸にあった浦江城を三好義継や松永久秀らの軍が落城させ、野田城・福島城を攻めるための砦としました。

このとき火縄銃以外にも大鉄砲が用いられたのではないかとされています。大鉄砲とは通常の火縄銃に比べて口径が大きく主に攻城戦や海戦に使用されたといいます。


その後、織田軍は城付近の堀を埋め、対岸に土手を築いて櫓を建てると、11日より野田城・福島城への攻撃を開始し、翌日には鉄砲を使用した大規模な攻城戦を行なったとか。このとき、雑賀衆・根来衆などの軍勢2万程の兵(そのうち鉄砲は3千兵程)が織田方に合流して遠里小野、住吉、天王寺に陣取ったといいます。


その後、織田の軍勢が畠中城も落城させると、たまらず三好三人衆らは和睦を申し入れたが信長はこれを拒否しています。


本願寺勢力が挙兵!?

しかし、この日の夜半から本願寺顕如が突如として挙兵。顕如はこの戦いで中立を保っていましたが、過ぎたる9月5日に紀州門徒に出馬を命じ、翌6日には近江中部の本願寺門徒衆に檄文を送り、信長との戦いの準備をすすめていたといいます。

10日には浅井久政・長政親子へも書状を送っているのです。


近江国の門徒衆に向けた顕如の9月6日付の檄文(明照寺旧蔵)
近江国の門徒衆に向けた顕如の9月6日付の檄文(明照寺旧蔵)

上記の檄文の内容は以下。


信長上洛に就て、此の方迷惑せしめ候。去々年以来、難題を懸け申し付けて、随分なる扱ひ、彼の方に応じ候と雖もその詮なく、破却すべきの由、慥に告げ来り候。此の上は力及ばす。然ればこの時開山の一流退転なきの様、各身命を顧みず、忠節を抽らるべきこと有り難く候。併ら馳走頼み入り候。若し無沙汰の輩は、長く門徒たるべからず候なり。あなかしこ。
九月六日 顕如
門徒中へ


ところで何故、本願寺は反織田の兵をあげたのでしょう?


信長は野田・福島に籠もる三好三人衆の討伐は見せかけで、石山本願寺に対する対策が真のねらいだったという見方があるようです。


石山本願寺は福島城からわずか4km程の場所に位置しており、織田軍が三好討伐のために天王寺に進出して敷いた布陣は、石山本願寺を包囲する形にもなっていたようです。こうして、危機的状況にあると察知した顕如が挙兵したというワケです。


顕如が挙兵したことによって戦況は一変。三好方の士気も盛り上がり、13日早朝には織田軍がせき止めていた防堤を打ち破ったとされています。また、浦江城だけではなく、野田城・福島城を周りを取り込んでいた砦も海水に浸かってしまったとされている。

『信長公記』によると、同日夜には顕如自ら鎧を着て織田軍の本陣に襲いかかり、「楼岸の砦」と「川口の砦」には石山本願寺から鉄砲を撃ちかけたといいます。


浅井・朝倉も京都へ迫る

14日は海水がなかなか引かず、15日から17日までは鉄砲による攻撃が出来ずに大規模な戦闘にはならなかったといいます。


一方で同じころ、この機に乗じて浅井・朝倉連合軍が京へ進むべく、琵琶湖西岸を南下。16日には近江・宇佐山城を守備する森可成らを討ち取り、21日には醍醐、山科まで進んで周辺を放火するなど、京都まであと一歩に迫っていたようです。


信長はこの知らせを受けて、23日には全軍摂津からの撤退するよう命じて京へ向かいました。この頃の信長はもう敵だらけだったのですね。


まとめ

こうして摂津国の野田城・福島城周辺での攻防は終了。戦いの舞台は比叡山へと移ります。

これまで勢いよく進軍してきた浅井・朝倉連合軍ですが、信長の動きを知ったとたん、戦いを避けるために比叡山に上って立て籠もることに。こうして信長が浅井・朝倉との長期の対峙を余儀なくされた「志賀の陣」へと続くことになるのです。

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  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

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