諏訪の神様 ~建御名方神の謎~
- 2024/11/06
全国に約25、000社あるといわれる諏訪神社。その総本社が長野県にある「諏訪大社」です。
この諏訪大社は、御柱、本宮の御神体と拝殿の向き、諏訪独自の神事など、謎多き神社としても有名ですが、最大の謎といったら御祭神の「建御名方神(たけみなかたのかみ)」の存在でしょう。
「???」
疑問に思った方は、このコラム必読ですよ。ということで、今回は諏訪の神様「建御名方神」について紹介していきます。
この諏訪大社は、御柱、本宮の御神体と拝殿の向き、諏訪独自の神事など、謎多き神社としても有名ですが、最大の謎といったら御祭神の「建御名方神(たけみなかたのかみ)」の存在でしょう。
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疑問に思った方は、このコラム必読ですよ。ということで、今回は諏訪の神様「建御名方神」について紹介していきます。
諏訪大社について
諏訪大社は全国にある諏訪神社の総本社で、信濃国一宮になります。式内社(平安時代中期『延喜式』内の神名帳に記載されていた神社)であると同時に、名神大社(霊験がすぐれており、朝廷から幣帛を奉って臨時の名神祭を行なうことができる神社)でもあります。旧社格は官幣大社です。現在は神社本庁の別表神社となっており、長野県のほぼ中央にある諏訪湖の周りに4か所(上社本宮・前宮・下社春宮・秋宮)の境内地があります。
創建は不明ですが、本殿を持たず(上社前宮のみ本殿があります)御神体を直接遥拝する古い形態で、日本最古の神社の1つといわれています。境内の4隅に御柱といわれる木柱を立て、7年目毎にこれを立て替える「御柱祭」は非常に有名です。
御祭神 「建御名方神」とは
父は大国主神(おおくにぬしのかみ)、母は布河比売(ぬのかわひめ)で、兄は事代主神(ことしろぬしのかみ)です。また、妻は八坂刀売神(やさかとめのかみ)です。ちなみに、上社前宮の本殿後にはお墓まであります(神陵伝承地と呼ばれる)。狩猟・農耕や風・水の神だけでなく、建御雷神(たけみかづちのかみ)・経津主神(ふつぬしのかみ)と並ぶ軍神としても信仰を集めています。
特に、坂上田村麻呂が蝦夷討伐の際に諏訪大社で戦勝祈願したり、源頼朝が「日本一の軍神」と呼んだりしたことからも人気の高さが分かります。また、武田信玄は出陣の際に “諏訪法性兜” を被り、“諏方神号旗” を掲げていたのは有名な話ですね。
なお、建御名方神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)による天尊降臨前の「国譲り」の場面で登場する神様です。
国譲りとは
国譲りとは、天津神(天上界の神様)である天照大御神(あまてらすおおみのかみ)と高御産巣日神(たかみむすひのかみ)が葦原中原(地上界)を平定しようと考え、葦原中原を統べる大国主神へ譲るように交渉した出来事です。日本の神様について詳しく記載されているのが『古事記』『日本書紀』です。どんな様子だったのか、それぞれの記述内容を簡単に紹介します。
『古事記』における国譲り
国譲りの交渉役として派遣された建御雷神と天鳥船神(あめのとりふねのかみ)は出雲の伊耶佐の小浜(稲佐の浜)に降り、大国主神へ国譲りを問うと、大国主神:「私の代わりに我が子の事代主神が答えます。」
と答えます。
事代主神はあっさりと国譲りを認めますが、今度は大国主神が言いだします。
大国主神:「もう一人、建御名方神という子がいます。」
その時、巨大な岩を軽々と持ちながら建御名方神がやってきて、
建御名方神:「この国が欲しければ俺と力競べしろ。」
と言います。しかし、建御雷神は建御名方神を葦の若茎のように軽くひねって投げ飛ばします。
恐ろしくなった建御名方神は逃げ出しますが、遂に科野の州羽海(長野県諏訪湖)で捕まってしまいます。そこで、命乞いします。
建御名方神:「殺さないで下さい。私はこの諏訪から外には出ません。この葦原中国は全てお譲りします。」
こうして建御名方神は諏訪の神様としてこの地に留まることとなります。
一方、建御雷神は出雲に戻り大国主神にこのことを伝えると、それを聞いた大国主神は、
大国主神:「仰せのとおり、この国をお譲りします。その代わりに大きな御殿を造って下さい。」
と答えたため、建御雷神は大国主神のために立派な御殿(今の“出雲大社”といわれる)を造ってあげます。そして無事、国譲りは成功するのでした。
~おしまい~
『日本書紀』における国譲り
国譲りの交渉役として経津主神と建御雷神が派遣されます。彼らは出雲の五十田狭の小汀(稲佐の浜)へ降り、大国主神へ国譲りを問うと、「まず私の子に尋ね、その後に返事します。」
と答えます。事代主神は快諾したため、大国主神も国譲りを認めて経津主神・建御雷神に自分がこの国を平定した時に杖として使っていた広矛を授けます。
こうして無事、国譲りは成功するのでした。
〜おしまい〜
記紀神話における建御名方神の謎
『古事記』と『日本書紀』は登場する神様と表記が若干違えど、話の大筋は変わりません。しかし、建御名方神に関しては幾つかの謎が出てきますね。- 謎1:建御名方神が『日本書紀』には出てこないこと
- 謎2:建御雷神に負けた建御名方神が軍神とされること
そこで、これらの謎について筆者なりの考えを以下にまとめてみます。
謎1:『日本書紀』には出てこないことについて
これは『古事記』と『日本書紀』の書かれた目的の違いが理由ではないかと考えます。『古事記』は、神代から推古天皇(第33代天皇)期までの出来事を上・中・下の3巻に分けて紀伝体で書かれている歴史書で、その記述内容から、「神様を先祖とする “天皇家の御由緒と功績” を後世に残すために書かれた本」と捉えることができます。
一方、『日本書紀』は、神代から持統天皇(第41代天皇)期までの出来事を30巻に分けて編年体で書かれた歴史書で、その記述内容から「 “いつ、何があったか” という出来事を後世に残すために書かれた本」と捉えることができます。
ですから、神様について詳しく紹介したい『古事記』に対し、国譲りという出来事を伝えたい『日本書紀』では建御名方神の件は省略されたのが理由ではないかと考えました。
謎2:負けた建御名方神が軍神とされることについて
これについては、理由が分かりません。普通に考えれば、負けた神様に「戦いに勝てますように」とお願いしますか?どう考えても軍神として信仰できませんよね。そうなると、本当に建御名方神は負けたのか? という新たな疑問が浮かんできます。
実際に諏訪へ行って調べてみた
新たに浮かんだ疑問の答え、そして軍神として信仰を集めた理由は必ずあるはずです。そこで、建御名方神が祀られている諏訪へ実際に行って調べてみました。諏訪には建御名方神がやってきた様子が伝承として残されています。その伝承は、諏訪信仰の研究者として第一人者の今井野菊氏が記した『諏訪ものがたり』に詳しく書かれていました。その内容を次に紹介します。
『諏訪ものがたり』の建御名方神
国譲りが行われる以前、大国主神が出雲から北陸を統一し、その子である建御名方神は科野に攻め込みます。その強さは「行くところ敵なく、草木まで靡かざるなく」だったようです。美しい諏訪湖がある洲羽の国に安住を望んだ建御名方神は、洲羽を支配する洩矢神にその要望を伝えますが、洩矢神はこの要望を跳ね除け、徹底抗戦を考えます。
建御名方神の軍勢が橋原(岡谷市にある洩矢神社周辺)まで攻め込んだ時、洩矢神は初めて建御名方神と相対します。その時、洩矢神は建御名方神の美しく立派すぎる姿を見て驚きますが、鉄の鑰という武器を振り上げて何とか戦う姿勢を見せます。
一方で、洩矢神の様子を見た建御名方神は弓も太刀も持たず、ただ綺麗に咲き誇る藤の花房を一枝持って進み出ます。建御名方神の偉大さを感じ取った洩矢神は即座に敗北を認め、今後は建御名方神のために洲羽の国造りと祭政に仕えることを約束するのでした。
~おしまい~
謎に対する解答は?
いかがだったでしょうか? 建御名方神が諏訪に来た時期も理由も『古事記』とは全く違うことが分かります。しかし、この内容であれば出雲の建御名方神が諏訪大社の神様となり、諏訪の土着神である洩矢神の子孫が神長官として代々仕えていく諏訪大社の構造に説明がつきます。そして何より、建御名方神が軍神として信仰される理由も説明できます!
室町時代に諏訪円忠によって編纂された『諏訪大明神画詞』や、「洩矢神社由緒」などにも同様の記述が見られます。また、数ある歴史書やその他伝承を調べていくと、建御名方神が負けて諏訪に逃げたことを記述しているのは『古事記』のみであることが分かりました。
これらから考えていくと、
- 謎1:建御名方神が『日本書紀』には出てこないこと。
→国譲り時は諏訪に安住していて、国譲りには関与していなかった。 - 謎2:建御雷神に負けた建御名方神が軍神とされること。
→建御雷神とは戦ってなく、父大国主神の為に各地で戦い、軍神らしい活躍をしていた。
という謎に対する解答が見えてきますね。
最後に
しかし、何故『古事記』で、建御名方神は建御雷神に負けたことにしたのでしょうか?この答えは『古事記』作成時の権力者と建御雷神の関係(建御雷神の強さと正当性を強調したかった)にあるような気がします。これについては、今コラムのテーマから外れてしまうので書きませんが、歴史好きの皆さんなら思うことがありませんか?
いずれにせよ、とても有名で人気の高い諏訪の神様「建御名方神」。とても興味深い神様であることに間違いはありません。
【資料協力】
- 諏訪市博物館 すわ大昔情報センター
【参考文献】
- 山口佳紀、神野志隆光『古事記』(小学館、1997年)
- 小島憲之 他『日本書紀』(小学館、1994年)
- 今井野菊『諏訪ものがたり』(甲陽書房、1960年)
- 今井野菊『研究結果における御左口神と諏訪神社』(旧宮川村誌編集研究会、1972年)
- 『神長官守矢資料館のしおり』(長野県茅野市、2006年)
- 関裕二『信濃が語る古代氏族と天皇-善光寺と諏訪大社の謎-』(祥伝社新書、2015年)
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