室町幕府が応仁の乱から100年以上も生き延びることができたワケ
- 2024/07/18
しかし応仁の乱は、将軍義昭の追放のおよそ100年ほど前の出来事です。幕府自体は衰退したかもしれませんが、それでも100年余り存続しているのです。また将軍義昭は追放後も、15年間は将軍職に留まり続けていました。
果たして応仁の乱が本当に室町幕府の滅亡要因だったのでしょうか?室町幕府が衰退しつつも100年余り続いた点や、幕府滅亡の要因についてはわかりにくい側面があり、様々な学説が提唱されています。そこで今回はこれらの学説について紹介したいと思います。本記事を読みながら、戦国時代の室町幕府・将軍について一緒に考えていただければ幸いです。
<説1>足利将軍には利用価値があった
「足利将軍には利用価値がある」と判断していた各地の大名たちは、将軍を支えるとともに、将軍の意向もある程度は尊重せざるを得なかったので、室町幕府は100年程続いたという説です。では、戦国期の足利将軍にはどんな利用価値があったのでしょうか? 具体的には「家臣団統制」、「法に関する助言を得る」、「栄典獲得競争」、「正当性の獲得」、「外交交渉(仲介)」等があり、これらは大名の領国内(内政面)のケースと対外的(外交面)なケースに大別されます。
領国内のケース
まず、領国内のケースとしては以下の2つです。- ① 家臣団統制
- ② 法に関する助言を得る
①の家臣団統制については、戦国大名の大友氏と島津氏の事例があります。
両氏は将軍の側近に対して、家臣から(大名に無断で)将軍へ連絡があったとしても、それは無視してほしいと伝えていたことが確認できています。このことから、大名側は足利将軍との関係を大名自身が独占することを望んでいたことがうかがえます。家臣と将軍が直接やり取りすることを制限することで、大名は家臣団との差別化を明確にすることができました。
②の法に関する助言については、若狭武田氏や細川氏、大坂本願寺などの事例があります。
細川氏などは、相論の判決に際して幕府に相談し、幕府法の専門家から助言を得たうえで、判決を下すことがありました。幕府には法の知識に明るい専門家がいたため、戦国大名は助言を求めたとみられます。
対外的なケース
続いて対外的なケースです。- ③ 栄典獲得競争
- ④ 正当性の獲得
- ⑤ 外交交渉(仲介)
➂の栄典獲得競争についてですが、戦国大名は敵対している戦国大名より、高い地位にいることや優位性をアピールするため、栄典の獲得を希望することが多々ありました。具体的には官位の斡旋・幕府役職の授与・偏諱などです。
有名な事例として長尾景虎(上杉謙信)が関東管領に任命され、さらに将軍義輝の「輝」の字を偏諱され、「上杉輝虎」と名乗ったケースがあります。またこれにより、上杉謙信は関東での小田原北条氏との戦いにおける正当性を獲得(上記の④)しました。
⑤の外交交渉(仲介)については、各地の大名は幕府のネットワークを利用し、情報収集や第三勢力との交渉・同盟の模索をしていたことが確認されています。また、戦争長期化に伴う和睦仲介を将軍に依頼することもありました。将軍の命令として和睦を調停することによって、当事者双方のメンツを保って和睦できる可能性が高まり、大名側としては周囲からの批判や不満を回避させるメリットがありました。
このように、多くの大名にとって将軍には利用価値(利益)がありました。また、上記事例の実現のために、大名は礼銭を幕府(将軍)に進上していました。そのため、大名のみならず、将軍側にもメリットがあったのです。
戦国時代の日本は、各地の大名たちが対立しあう分裂状態にあったという印象がありますが、「足利将軍の利用価値」を紐帯に、当時の日本には将軍を中心としたゆるやかなまとまりがあったと考えられています。
現在で例えると、将軍 (つまり幕府)は国際連合のような存在であり、戦国大名は日本やアメリカのような各国に位置づけられるとみられています。
織田信長と豊臣秀吉の登場
それでも室町幕府が滅亡した理由については、織田信長や豊臣秀吉が、足利将軍以上の利益を各大名に与えたためとみています。信長や秀吉は強大な軍事力をもとに、服属した大名には原則としてその所領を安堵し、大名間の領土紛争を解決させて、大名領国を平和状態に導きました。軍事力の乏しい将軍義昭には、そうした行動がとれず、とれたとしても形だけで、信長や秀吉のような実行力や実現力はありませんでした。
やがて信長や秀吉に各大名が従うようになり、将軍義昭は不要となって室町幕府滅亡につながったと考えられています。
<説2>「足利氏=武家の王」とする共通の価値観が共有されていた
次に、中世後期(室町・戦国時代)の日本社会には足利氏を頂点とする秩序常識が存在していたとする説です。元々足利氏は鎌倉幕府の御家人の一人でした。北条氏に次ぐ有力な御家人でしたが、足利氏と同格の御家人もそれなりに存在していました。それが【鎌倉幕府倒幕】→【建武政権からの離脱】→【北朝天皇の擁立】→【征夷大将軍補任】などを得て、足利氏の政治的立場は上昇。その過程で足利氏は「力」と「儀礼」の2つの側面で他の大名たちとの差別化を果たしてきました。
「力」とは軍事力になります。敵対勢力との合戦に勝ち続けることにより、各地の大名は足利氏を「対抗可能な存在」から「武家の王としての存在」として認識するようになっていったと考えられています。
「儀礼」については、年中行事や書札礼(手紙のやりとりに関するルール)などがあり、これらの儀礼を日常的に繰り返すことによって、将軍と大名の主従関係を確認していったとみられています。
このような共通の価値観(足利的秩序)は、3代将軍・足利義満の時期に確立され、以降、戦国時代に至るまで足利氏や足利一門は、諸大名よりも上位の立場に位置付けられていました。
ところが13代義輝は、今まで足利一門が補任されてきた役職を、前例にとらわれずに、足利一門ではない現地の有力な勢力に任じるようになりました。これは衰退した幕府の秩序再編を目指した義輝の政策だったとみられています。
しかし、この方針は、足利氏の血統を上位とする政治的秩序(足利的秩序)を、将軍義輝自身が貶めたものとされ、やがて室町幕府の崩壊につながったと考えられています。
<説3>足利義昭の所領政策失敗による幕臣分裂と、信長との対立
まずこの説では、戦国時代の室町幕府将軍が畿内の有力者(細川氏や三好氏など)との連携のもとに政権運営していたと考えられています。このため、幕府は応仁の乱から約100年存続できたとしています。義昭と信長の事例も同様で、元亀4年(1573)2月までは、義昭と信長は対立せずに政権を運営していたことがわかっています(義昭追放は同年7月)。
しかし、義昭の家臣団が信長派と反信長派に分裂し、義昭は反信長派の家臣の進言を容れ、信長と対立したため、京を追われ、そのまま幕府が滅亡してしまいました。義昭の家臣団が分裂した背景には「幕臣たちの所領問題」と「信長包囲網に対峙する信長の劣勢」が指摘されています。
「幕臣たちの所領問題」については、どうやら義昭は幕臣たちに適切に所領を給付していなかったようで、不満をもった幕臣たちは他人の所領を押領することをしていたようです。本来の所有者は、幕府に訴えますが、義昭は幕臣たちの押領行為を黙認していました。
この状態を問題視したのが織田信長です。信長は義昭に自身の領国から所領を給付する申し出をしましたが、義昭は聞き入れませんでした。一部の幕臣たちは押領行為を問題視する信長に反感を持ったとされていますが、一方で信長を頼る幕臣もいました。ここに幕臣たちの分裂が生じたのです。
「信長包囲網に対峙する信長の劣勢」については、文字通り信長周辺の戦局が関係しています。信長は多くの敵対勢力と同時に対峙していたことはご存知の方も多いかと思います。そのなかで元亀3年(1572)12月の三方ヶ原の合戦で、織田・徳川連合軍が武田信玄に敗北したことは義昭と幕臣に衝撃を与えたと考えられています。このとき信長は武田・朝倉・浅井・本願寺・三好など四方に敵対勢力を抱えていました。
このように信長がピンチ状態のなか、反信長派の幕臣たちが信長と袂を分かつよう義昭に進言。義昭は武田・朝倉・浅井・本願寺・三好などと手を組めば勝算があると見込んでいたようで、これに同意して反信長の兵を挙げるわけです。…が、途中信玄の病死で武田勢の進撃がストップ、やむなく信長との直接対決に臨みますが、結果は敗北。義昭は京都から追放されてしまいます。
もし義昭が反信長派の幕臣たちの進言を聞き入れず、信長と協力する方針を継続していたら、この段階で室町幕府は滅亡していなかったと考えられています。ちなみに信長は、義昭の挙兵を「義昭の謀反」と認識していました。
おわりに
いかがだったでしょうか。ここまで、室町幕府が応仁の乱から100年あまり存続した要因と幕府滅亡の理由について、いくつかの学説を紹介させていただきました。どの学説も大変興味深い内容であり、なかでも室町幕府を現在の「国連」、戦国大名を日本やアメリカのような「各国」と例えた見解は、印象に残りました。今回取り上げた戦国時代の室町幕府・将軍については、今後の研究の進展が期待されます。
【主な参考文献】
- 久野雅司『足利義昭と織田信長』(戎光祥出版、2017年)
- 谷口雄太『<武家の王>足利氏』(吉川弘文館、2021年)
- 山田康弘〚戦国時代の足利将軍〛(吉川弘文館、2011年)
- 山田康弘『足利義輝・義昭』(ミネルヴァ書房、2019年)
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