「光る君へ」『栄花物語』が描く藤原伊周の暗い情念と呪詛

 大河ドラマ「光る君へ」第19回は「放たれた矢」。藤原伊周の弟・隆家が放った矢が、牛車に乗る花山上皇をかするという出来事が描かれていました。

 では、伊周とはどのような人物だったのでしょうか。ここでは『栄花物語』(平安時代の歴史物語)から見ていきたいと思います。

 先ず、基本情報を整理すると、伊周は天延2年(974)、藤原道隆と高階貴子との間に生まれます。あの藤原道長は伊周にとって叔父に当たります。正暦元年(990)、父・道隆が摂政に任命されると、伊周は若年ながらグングン出世。正暦5年(994)には、内大臣にまで昇進するのです。道隆の病中(995年)には、道隆の意向もあり、一条天皇より内覧に任じられます。道隆は長徳元年(995)4月に亡くなりますが、伊周は『栄花物語』によると「自分の才を恃んで、天下の政治を自ら執り行おう」とする様だったといいます。

 しかし、世間ではその事に疑問を感じる者が多ったとのこと。結果、関白の座は藤原道兼(道隆弟)が占めることとなります。人望が道兼にあるのを見て、伊周は案じていたようです。そして道兼に関白の宣旨が下ったことを知ると、伊周は呆然となり、その臣下も嘆き悲しみます。伊周が父の喪中にもかかわらず、自らの才能を誇り、天下の大政を指図し、袴の丈・狩衣の裾の長短を改めたことなどを人々は不満に感じていたと同書にはあります。関白に就任した道兼でしたが、その直後に病没。同書には、道兼を妬ましく感じていた伊周がその死を悼むどころか喜び、出世の祈祷を命じていたと書かれています。更に同書は、道兼の死が、伊周派による呪詛の影響だったことも匂わせているのです。

 『栄花物語』は、伊周を自信家で、陰謀を企む者として描いています。ちなみに、伊周のために必死に祈祷(場合によっては呪詛)していたのは、その外祖父・高階成忠でした。長徳元年5月、道長に内覧の宣旨が下りますが、同書によると、伊周はその際にも成忠に祈祷(呪詛)を命じたようです。しかし、成忠が如何に呪詛しようとも、その後も道長は出世していくのでした。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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