「光る君へ」吉高由里子さん演じる紫式部はどのような想いで越前国に向かったのか?

父為時に鍼治療をしてくれた周明に礼をするまひろ
父為時に鍼治療をしてくれた周明に礼をするまひろ

 大河ドラマ「光る君へ」第22回は「越前の出会い」。

 長徳2年(996)、父・藤原為時の越前守就任により、紫式部は越前国(現在の福井県)に赴くことになります。都を出立した一行は、逢坂山(滋賀県と京都府の境付近にある山)を越えて、大津の打出浜から舟に乗ります。舟で琵琶湖西岸を北上することになるのです。三尾が崎(現在の滋賀県高島市)の湖岸に着いた式部は、才人らしく歌を詠んでいます。それは次のような歌でした。

「三尾の海に網引く民のてまもなく立ち居につけて都恋しも」

 三尾が崎の漁師が綱引く情景を詠んだものですが、注目すべきは「都恋しも」との語句でしょう。式部は越前に着く前、近江国で早くも「都恋し」の心情に駆られていたのです。ホームシックというべきでしょう。

 式部の心を不安にしたのは、慣れない船旅でありました。次の歌も式部の不安気な気持ちをよく現しています。

「かきくもり夕立つ波のあらければ 浮きたる舟ぞしづ心なき」

 今にも夕立ちが来そうな空。それに伴い、波が荒くなったようで、そうした荒天の兆候も式部の心を慌しくさせたと思われます。舟は揺れ、もしかしたらその時、式部は船酔いを初めて経験したかもしれません。不安な船旅は、塩津(滋賀県長浜市。琵琶湖の北岸)に上陸できたことにより終わります。塩津は当時、都と北陸を結ぶ交通の要衝でした。

 一行は、塩津山(近江と越前の国境)を越えて、敦賀に入ります。塩津山を越える際にも、式部は歌を詠みます。式部の輿を担ぐ粗末な身形をした人夫の「ここは難所だ」との辛苦の言葉に応えた歌となっています。

「知りぬらむ ゆききにならす 塩津山 よにふる道はからきものぞと」

(お前たちもよく分かったことでしょう。いつも往来している塩津山も、世渡りの道としては辛いものだということを)

 世渡りの道を経てきた老成した人間が作ったかのような歌ですが、式部はまだこの時20代。そのような「娘」に世の辛苦を諭されて、人夫はどのような思いを抱いたでしょうか。しかし、このような歌を詠めるということは、船旅の時よりは式部の心は落ち着いていたのでしょう。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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