琉球使節の江戸上り 往復で10ヶ月?沖縄から江戸へわざわざやって来た外国使節団
- 2025/06/27

江戸時代、日本は鎖国政策を取っていましたが、まったく外国と交流しなかったのではありません。オランダ・朝鮮・琉球、この三国との間には外交や通商関係がありました。そして、それぞれの国の代表が徳川将軍に拝謁するため、江戸へ外交使節団を送っています。異国情緒あふれる彼らのきらびやかな行列は、庶民が楽しみに待っている見ものでした。
琉球王国と使節団
琉球王国
現在では沖縄県ですが、永享元年(1429)から明治12年(1879)までの450年間、沖縄の島々は琉球王国という独立国でした。しかし実際には薩摩島津家の支配下にありました。この王国は国内の産物には乏しかったものの、日本・朝鮮・東南アジア諸国、特に明との活発な貿易によって多大な利益を上げていました。明との貿易をのぞむ薩摩藩は、琉球に明との橋渡しを求めますが、琉球は拒否。薩摩はこれを理由に家康の許可を得て慶長14年(1609)に琉球へ出兵し、平定・服属させます。
しかしこの服属関係が明に知られたら、明との関係にひびが入り、貿易は中断。琉球はその利益を失います。それは琉球を支配下に置き、その富を吸い上げる薩摩の望むところでは無かったので、薩摩はその後も琉球を独立国のように見せかけます。
琉球使節団
寛永11年(1634)、オランダや朝鮮のように琉球は幕府に使節団を送るようになります。2回目の正保元年(1644)からは、薩摩藩主の参勤に同行する形で江戸入りするようになりました。琉球使節が江戸に向かうのを“江戸上り(のぼり)”といい、薩摩藩主に同行させたのは、島津家は琉球を服属させるほどの威光を備えていることを世間に見せびらかしたいからです。琉球の王子を正史とする使節一行自体は100人から200人ほどでしたが、薩摩藩の参勤行列は800人を超えていました。大坂までは海路を進み、大坂から淀川を遡上、伏見で上陸し、そこからは陸路を取ります。幕府の扱いは琉球王国はあくまで独立国です。外国であるからこそ、その使節が将軍に拝謁するためにわざわざ江戸にやって来るのが値打ちなのです。薩摩藩にしても異国の独立した国の王子を服属させているのが値打ちです。
琉球ブームが起きる
琉球使節一行は幕府の指示で中国風の衣装を身にまといます。街道の要所や江戸市中では銅鑼・太鼓・喇叭などで賑やかに囃し立てながら進みます。異国の装いを際立たせ、庶民に外国からの朝貢使節であると印象付けようとしました。朝鮮やオランダの使節と同じように滅多に見られぬ光景なので道筋には大勢の見物人が集まり、それを目当ての茶店も店開きします。使節が到着する前から使節紹介の絵入りの瓦版や浮世絵まで売り出される騒ぎです。なかでも天保3年(1832)の時には葛飾北斎が『琉球八景』を発表し、大きな琉球ブームが起きます。


使節一行は道中の諸藩や庶民の歓迎を受け、所々では詩歌の応酬も楽しみ、漢詩や書を残しています。彼らは薩摩藩の支配下に置かれているとは言え、大陸の大国と正式な国交を持っているとの誇りを持っていました。
江戸城では
天保3年の例で見ると、この時の正使は豊見城王子(とみぐすくおーじ)で副使は沢岻親方(たくしうぇーかた)です。“親方”とは琉球士族の最高の称号で王族のすぐ下に位置します。同年6月13日に琉球を出立した使節一行は鹿児島でしばらく滞在、鹿児島には琉球館という宿泊所が用意されていました。9月1日、薩摩藩十代藩主・島津斎興参勤行列に同道して鹿児島を出達、泊まりを重ねて江戸に到着したのは11月の16日です。
2ヶ月半かけているのですね。一旦、芝の薩摩藩江戸屋敷に入った一行は、半月ほどのち閏11月4日に江戸城に登城します。
斎興と世継ぎの斉彬の行列の後に続いて、中国風の衣装を身にまとい、楽器をかき鳴らしながら使節一行は江戸城へ向かいます。朝四つ巳の刻に十一代将軍・徳川家斉が大広間に出座、まず島津父子が進み出て参勤の挨拶を述べ、その後斎興を通して正使・豊見城王子と副使沢・岻親方を将軍の御前に召し出すよう指示があります。
王子と親方は大広間で将軍に拝謁して挨拶を述べ、琉球王国からの献上品を披露・奉呈されます。これで将軍への拝謁の儀式は終了し、その後、王子と親方は将軍世継ぎの家慶とその嫡子の家定にも拝謁して薩摩藩邸に戻ります。
無事帰国の途へ
琉球使節は7日にも江戸城に登城し、これには斎興・斉彬親子も同道します。大広間に通されて将軍家斉・世継ぎ家慶も出座して琉球の楽人たちが音楽を奏で、“楽童子”という美童たちが琉球の舞踊を踊ります。後はお決まりの饗宴に移り、これが終わると老中から帰国の許しが出ます。将軍から銀や絹織物・綿などを賜り、琉球国王の将軍宛て国書の返書もこの時に渡されます。9日に使節たちは上野寛永寺の将軍家霊廟に詣で、16日には老中・若年寄の屋敷を、18日には御三家の屋敷へも挨拶に回り、将軍拝謁が無事に終わった御礼を言上します。これで公式の日程は終わり、肩の荷を下ろした使節たちは、薩摩藩邸で琉球の踊りや音楽を披露する一方、日本の芝居や軽業を楽しむなど、江戸滞在は50余日に及びます。

12月13日、やっと江戸を離れた使節一行は今度は自分たちだけで帰国の途に就き、来た道を戻って翌年の3月5日に鹿児島の琉球館に入ります。19日には鹿児島を出航、4月8日にようやく那覇に戻りました。なんと往復10ヶ月にも及ぶ長旅はやっと終わりました。
おわりに
琉球使節の江戸上りは、徳川家に新しい将軍が誕生した時の慶賀使と、新しい琉球王が就任した時の御礼の謝恩使がありました。どちらも一応、異国になっている琉球の使節がわざわざやって来るのですから、徳川将軍の威光は増し、同道した島津氏の位階も昇進します。【主な参考文献】
- 安藤優一郎『江戸の旅行の裏事情』(朝日新聞出版、2021年)
- 河添房江/編『唐物と東アジア』(勉誠出版、2016年)
- ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
- ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
コメント欄